【治承~文治の内乱 vol.9】 足利忠綱の渡河
戦局は園城寺衆徒たちの奮闘もあって平家軍は思いのほか攻めあぐね、とうとう橋板のない宇治橋を渡る平家方の兵はいなくなって、膠着状態となりました。
園城寺の衆徒に法輪院の荒土佐鏡鑁という者がいました。この者は雷房という異名を取る者で、雷のように36町(約3.9km)も先の者を呼び驚かせることができるほどの大声の持ち主でした。その鏡鑁が川岸にあった松の木に登って、
「生ある者は皆命を惜しむのは当然のことであるが、奉公忠勤を致す者は命を惜しむということはあってはならない。ましてや合戦場に敵を目前にして、馬の轡を抑えて鞭を打たないのは大臆病の者がいたすことなり。平家の大将軍、心劣りでもされたのかな。源家の一門ならば、すでに川を渡っていることであろう。平家はいたずらに栄華をほしいままにして、宇治川の畔に臆病をさらしておる。何不自由なく、四百四病はないが、臆病ばかりは身に余るほどである。やぁ、平家の方々聞かれよ。ここには源三位入道殿が矢筈を取り外して待っておられるぞ。源平両家の中から選ばれて鵺を射られた大将軍であるぞ。臆するのは確かに道理である。それゆえ一来法師が太刀を振っても2万余騎の軍勢は何もできずに控えている。愚かしいなり。見苦しい、見苦しい。思い切って這いながらでも橋を渡って来られよ」
と、持ち前の大音声で平家軍を挑発したのです。
これを聞いた右兵衛督平知盛は、
「何とも情けないことよ。このように笑われることこそ後の世の恥辱である。せまい橋桁を少人数で渡るから、狙い定められて射落とされるのである。ここは川にうち出て大勢で一丸となって渡るのだ。者ども」
と下知を下しました。
そこで平家軍の参謀格の上総守(上総介)忠清は、
「この川の有り様を見るに、たやすく渡れるとも思えません。その上、この頃は五月雨がよく降りますれば、川の水かさも増しております。そこでこの軍勢を二手に分け、一隊を河内路の淀方面から迂回させて、背後から攻めて挟撃しては」
と進言しました。すると、その場にいた多くの武士たちの中から進み出て、忠清の進言に異を唱える人物がいました。下野国の住人、足利太郎俊綱の子である足利又太郎忠綱です。忠綱は、
「河内路を通って淀方面から迂回するとは、唐や天竺の軍勢でも攻め寄せてくださるのか。それも我が軍勢が迂回し攻めるのでござろう。今そちらに軍勢がおらずしてすぐに挟撃できるわけがない。昔、秩父党と足利とが仲違いし、父・足利俊綱は上野国の新田入道(義重)と手を結んで戦ったことがござった。その時、新田は利根川を渡るための舟を秩父党に破壊されたのだが、新田入道は『敵である秩父に舟を破壊されて、舟がないと手をこまねいてじっと控えていては弓矢を取る甲斐もないだろう。水に溺れて死ぬものなら死んでみせよう』と利根川を500余騎にてざっと渡ったことがあるのだ。さればこの宇治川、利根川に勝っても劣ってもおらぬ。渡る人がいないのであれば忠綱が渡ってみせよう」
と、川にうち入っていきました。
忠綱に続く者は、足利氏の家の子である小野寺の禅師太郎、讃岐(佐貫)広綱四郎大夫、へやこの七郎太郎、郎党である大岡安五郎、あねこの弥五郎、利根の小次郎、おう方二郎、あきろの四郎、桐生の六郎、田中の惣太をはじめとして、足利の一党350騎に満たない軍勢でした。
忠綱は、
「このような大河を渡るためには、強い馬を上流側に立て、弱い馬を下流側に立て、肩を並べて、手を取り合って渡るのだ。その中で馬も弱って流れようとするものがあれば、弓の筈を差し出してそれに取り付かせよ。多くの者が心を一つに合わせるのだ。馬の足が川底についている程度の深さなら手綱をくれて歩かせよ。馬の足が浮かぶ深さなら、手綱をすくって泳がせよ。我らが川を渡るのを敵が見れば、敵は渡すまいと矢衾を作って矢を射てくるだろう。射られても手向かいいたすな。射向けの袖を敵の方へ向けて矢を防ぐのだ。向こう岸を見ようとして、兜の内側を射られるな。そうかと言って、うつむきすぎて兜の天辺の穴(手辺の穴)を射られるなよ。馬の頭が下がるならば、弓の裏筈を投げかけて馬の頭を引き上げよ。強く引いて引きかぶるな。馬より落ちそうになったら子供のように馬にしがみついて、清水にびっしょりになって乗り下がれ。流れに直角に渡らないでくれよ、押し流されるなよ。斜めに流れに沿って渡れや渡れや」
と細かく指示して、一騎も流されることなく向こう岸にたどり着きました。
向こう岸にたどり着いた忠綱は、弓杖ついて(弓を杖代わりにすること)、左右の鐙を踏ん張って鎧を揺すり、武具についた水を払った。そして平等院の門外近くに押し寄せて、
「遠くの者は音で聞け、間近にいる者は目にも見よ。東国は下野国の住人、足利の太郎俊綱の子に、足利又太郎忠綱、生年十七歳、童名(幼名)は王法師丸とは源平両家に知られていることである。無官無位(官職も位階もない)の者が宮(高倉宮、以仁王)に向かって弓を引くのは、恐れ多いことなれど、我の信頼も加護、恩恵も大政大臣(清盛)の御上にござれば」
と名乗りをあげて打ちかかりました。
敵兵に渡河を許した以仁王軍はいよいよ苦境に立たされました。以仁王を一足早く南都へ落ち延びさせた上で、源三位入道頼政は、長絹の直垂に黒革縅の鎧を着て、兜をつけずに、馬もわざと黒い馬に乗り、仲綱・兼綱を左右に立て、渡辺党を前後に立て、今この時限りとばかり散々に戦いました。しかし多勢に無勢、あまりに多くの敵兵が押し寄せたため、すでに矢を射尽くし、ついに自身も手傷を負ってしまいました。そこで頼政はこれ以上の戦闘は不可能と観念したのか、やがて南都の方へ落ち延びていきました。また、伊豆守仲綱はこの乱戦のさなか討ち取られました。
源兼綱は父・頼政を落ち延びさせるため、少しでも時間を稼ごうと度々引き返しては戦いました。しかし、敵軍の執拗な追撃で手傷を負い、兼綱も南都を目指し再起を図ろうとしました。
兼綱は黄色の生衣の直垂に、赤縅の鎧をつけ、白葦毛の馬に乗っていましたが、その鮮やかな出で立ちの兼綱が南へ向かって馳せるのを見た藤原忠綱は、
「あれは源大夫判官殿(兼綱)とお見受けいたす。情けなくも敵に後ろを見せられるものかな。引き返して戦われよ」
と追ってきました。兼綱は、
「宮(以仁王)のもとへ参るのだ」
と返し、忠綱を相手にせずになお南へと馬を走らせました。
しかし、やがて追手に迫られ、もはや逃げ切れなくなったところで、兼綱は馬の首を返して自らの手勢11騎とともに忠綱の軍勢の中を十文字に駆け巡りました。死を覚悟した兼綱らの並々ならぬ勢いの突撃をまともに受けてはかなわないと感じた忠綱の手勢はみなざっと道を開け、兼綱と組みあって戦おうとする者はいませんでした。
そんな中、藤原忠綱は兼綱の勢いを止めるために、一瞬の隙をついて矢を放ち、それが見事兼綱の内甲(兜の内側)に命中。忠綱の小舎人童(※1)で大力の持ち主である二郎丸が兼綱を馬から落とし、双方それぞれが上になり下になって組み合いました。するとそこへ兼綱の郎党が主の危機とばかり兼綱の上になっていた二郎丸の鎧の草摺を引き上げて、上げざまに二郎丸を刺し、兼綱を逃しました。
もはや重傷を負ってしまい、進退極まった兼綱は山中に逃れて、鎧を脱ぎ捨て、腹をかき切って自害をしました。しかし、藤原景高の郎等が追いついて兼綱の首をとり、陣へと持ち帰ってしまいました。《後編へ続く》