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【鎌倉党 vol.2】 鎌倉党と大庭御厨
大庭御厨の成立
大庭御厨は鎌倉党の祖とされる鎌倉景政(権五郎)によって相模国に創設された荘園です。
景政は長治年間(1104~1106)に、先祖代々受け継がれてきた荒地や山林ばかりの土地を伊勢神宮の御厨(荘園)として開発するべく、時の相模守であった藤原宗佐に申請、許可されたために浮浪人(逃散などで律令上の戸籍からもれた人)を招き寄せて開発し、約10年後の永久4年(1116年)に伊勢神宮(内宮)領として正式に認められました。
この大庭御厨こそ鎌倉党の勢力の源、根本的な荘園としてその後の隆盛を支えていくことになります。
大庭御厨の苦難
創設当初の大庭御厨は有力寺社である伊勢神宮の後ろ盾をもちろん得てはいましたが、度々その存立が難しい状況に追い込まれるという非常に不安定なものでした。
それというのも、大庭御厨は国免庄、つまり国司認可の荘園だったために、認めてくれた国司が任期を終えて交替すると、また改めて認可を取らなければならない荘園だったのです。
そのため、国司が交替するたびに国衙(各令制国に設置された行政機関)の役人(在庁官人)が御厨の正当性を問い、あわよくば国衙領にしようと邪魔をし、脅かしてきていたのです。
そもそも、なぜ国免庄だったかというと、それは当時の朝廷の政策が大きく影響しています。
当時の朝廷は白河院による院政の時期にあたり、この頃増大するばかりだった荘園に一定の歯止めをかけようと全国各地で荘園整理が盛んに行われていました(荘園は不輸の権などで課税できなかったりするため、あまり増えるとその国の税収が落ち込んでしまうのです)。そのため、各国の国司は任官されるたびにその任国の荘園が正式な手続きを踏んで許可された荘園かを調査し、それが適合していれば朝廷(太政官)に荘園認可を申請、不適合ならば収公(没収)する必要があったというわけです。
そんな中、大庭御厨も国司が替わるたびに御厨として相模国司の許可を得ました。
史料『天養記』には、先ほどの永久4年(1116年、相模守・藤原盛重)の他に、元永1年(1118年、相模守・源 雅職)、大治6年(1131年、相模守・源 重時)、天承2年(1132年、相模守・源 重時)に国司の認可を受けたことと、保安3年(1122年)と天治2年(1125年)には朝廷から国司へ大庭御厨の子細を報告せよとの宣旨・院宣が下ったために、いずれの年も相模守を務めていた藤原盛重は解状(上申書)を提出、その後、朝廷から御厨の停廃(廃止)が宣下されることはなかったことから、事実上認められた形となったということが記されています。
しかし、このようにいちいち国司から許可を取っていたのでは御厨の安定した運営が行えません。
実際、『天養記』の中にある保延7年(1141年)6月の「相模国司解案」の文中に、国司が替わるたびに国衙側の役人(在庁官人)らから妨害を受けるために、御厨の住人は逃亡し、田畠も荒廃してしまうと記されています。
そこで伊勢神宮は大庭御厨の許可(奉免)を直接朝廷に訴えました。
この頃になると、朝廷では鳥羽院による院政が行われていて、荘園整理はあまり行われなくなっていたこともその後押しとなっていました(院や女院などの皇族自らが荘園を積極的に持つようになっていったからでした。それはそれでまた新たな問題が発生するのですが・・・)。
そして、保延6年(1140年)10月。ついに大庭御厨の存立を認める官宣旨が出され、翌年6月には当時相模守だった平範家によって、その旨を承知したとする解状が発行されて、朝廷(太政官)と相模守からの認定と許可が揃って、ようやく大庭御厨の伊勢神宮(内宮)領としての存立が確実となりました。
大庭御厨の範囲
保延7年(1141年)6月に確立された大庭御厨の範囲としては、東が玉輪御庄との境である俣野川(境川)、南は海、西は神郷との境、北は大牧埼であったことが後に出された官宣旨(天養2年(1145年)2月3日付および3月4日付)から知ることができます。
これを現在の地名に照らし合わせてみると、東の境は境川(俣野川)、南は海ですから湘南海岸地域、西の神郷は寒川神社領(一の宮地区)との境、北は引地川沿いの大庭から善行・六会地区の丘陵と谷間に囲まれた一帯と推測されています(伊藤一美『大庭御厨に生きる人々』藤沢市史ブックレット6 藤沢市文書館 2015年 )。
しかし、西側の境界線、北の境界線は諸説あって定かではありません。
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大庭御厨の推定領域を地図にしてみました。
これは今の神奈川県藤沢市南部、茅ケ崎市付近となり、薄い緑の部分は平地、やや濃い緑色は台地や丘陵、低山部になります。
(ベースの地図は1896~1909年までに旧参謀本部陸地測量部、内務省地理調査所が作成したものを使用しています)
この地図の西側の境界線と北側の境界線はこれまで唱えられてきた様々な説を取り入れて引いております。
西側の境界線については、中山毎吉「大庭御厨考」(『名勝史跡天然記念物調査報告 第二』 1934年)の中にあるという”寒川の大曲が寒川神領であることから小出川が境界になる”という説を採用して引いております。
また、北側の境界線については、先ほどの伊藤先生の推定と小出川に沿って藤沢の菖蒲沢・円行あたりの大庭野であるという中山毎吉の唱えた説、藤沢市六会の亀井神社・六会小学校付近の谷「不動谷」を中心とした地域を“大牧埼”としたという説(藤沢市教育委員会編『大庭御厨の景観』1998年)を考慮に入れて引いております。
ともあれ、これらの範囲は今の藤沢市南半分と茅ヶ崎市の大部分を合わせた範囲で、大庭御厨はかなり広大な範囲だったことがうかがえますが、果たしてその範囲の中の土地すべてが大庭御厨だったのか、どの程度耕地面積があったのかなど具体的なことはわかりません。
さて。
国司だけでなく朝廷からも許可を認められ、もはや安泰かに思われた大庭御厨でしたが、朝廷の認定をもらったわずか4年後の天養1年(1144年)に大庭御厨最大の危機が訪れます。
そうです、それが後世に言われる「大庭御厨乱入事件」です。
(この事件は大庭御厨濫行事件、大庭御厨侵入事件、天養事件、大庭御厨事件など様々な呼び方があります)
ということで、次回はその大庭御厨最大の危機のお話をしたいと思います。ちょっと長くなると思いますが、またお付き合いいただければ幸いです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
(参考)
野口実 『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年
湯山学 『相模武士 第1巻 鎌倉党』 戎光祥出版 2010年
伊藤一美 『大庭御厨に生きる人々』藤沢市史ブックレット6 藤沢市文書館 2015年
伊藤一美 「神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(1)~(3)」(『藤沢市文化財調査報告書』(第四一集~第四三集)所収) 藤沢市教育委員会 2006年(第四一集)・2007年(第四二集・第四三集)
関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 第二刷 吉川弘文館 2009年
神奈川県企画調査部県史編集室編『神奈川県史 資料編 古代・中世1』 神奈川県 1970年