【鎌倉 西御門(鶴岡八幡宮周辺)エリア(前編)】 久しぶりの鎌倉⑧ (2019.11.17)
(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事をほぼ転載しております)
鎌倉散策記事⑧。
今回からは【西御門(鶴岡八幡宮周辺)エリア】になります。
前回はこちら。
鎌倉北条氏ゆかりの宝戒寺を出て北上。
少し金沢街道を歩きますが、ほどなくして金沢街道が右(東)へ折れていくので、そこで道なりに進まずに直進していきます。すると、横浜国立大学教育学部付属の小学校・中学校の正門(?)に突き当ります。
そしてその突き当りを右に、小中学校の敷地の南辺から東辺に沿うように北へ。するとこちらの石碑があります。
鎌倉青年団の石碑、その15「西御門」です。
この西御門というのは、源氏三代(頼朝・頼家・実朝)が御座所とした大倉御所の西門のことで、この付近一帯の地名にもなってます。
今回と次回の西御門エリアはこの大倉御所があったあたりの史跡・旧跡散策になりますので、文中に度々大倉御所が出てきますよ。
さて、その西御門の石碑の前の道を道なりにそのまま北上します。本当はこの西御門の石碑のところで、東へ行く路地を行けば頼朝の墓などがあるので、早くそちらに行きたいところなんですが、その前にもう一つの石碑の写真を撮りに。
ずっと道なりに北上していくと、やがて閑静な住宅街に。
この日は良い天気の日曜日だったこともあって、のんびりご自宅でゆっくりされていらっしゃる方も多かったようで、どこかの御宅から調子の良いJazzが流れてきておりました。なんか優雅ですねぃ。
っって~、そんなことはともかく、どんどん北上していくと、道端に「右 来迎寺」と彫られた背の低い小さな石柱があるので、その角を右折(東へ)。
すると、ほどなく(西御門)来迎寺の入り口があって、その傍らに目標の石碑があります。
はい、鎌倉青年団の石碑、その16「太平寺跡」です。
『新編鎌倉志』の巻之二「高松寺」の項目に太平寺の由来が記されています。
源頼朝が平清盛の継母である池禅尼(藤原宗子)に平治の乱の際、命を助けられた恩に報いようとしたところ、もうすでに禅尼は亡くなっていたため、その姪を鎌倉に呼び寄せて恩に報いようとしました。そしてその姪はこう述べたそうです。
「常ならぬ世の中で何を望みましょう。願わくば私は出家して、世間の女性たち、父母や夫を持っているがために出家できない女性もそこに入りさえすれば誰も妨害することのできない寺(縁切寺)に住むことができますなら…」
こうして建てられたのがこの太平寺なのだそうです。
しかし、『日本歴史地名大系』(平凡社)によればこの話は伝説で、実際の創建は大休正念(中国南宋の禅僧)が仏殿供養を行った鎌倉時代後期の弘安6年(1283年)の頃と考えられているそうです。
ところで、この太平寺は南北朝時代に初代鎌倉公方・足利基氏の正室であった清渓尼(畠山国清の妹)が中興したことから、以後鎌倉公方に崇拝されてきた寺としても知られ、歴代の鎌倉公方の息女が尼として住持となってきました。そのため鎌倉尼五山の第一位とされました。
その後、戦国時代の弘治2年(1556年)、安房国の里見義弘が鎌倉を襲撃した際、この太平寺の住持であった青岳尼(小弓公方・足利義明の娘)は還俗(僧が俗人に戻ること)して義弘の妻となり、本尊であった聖観音立像も一緒に安房国へ渡ってしまって、本尊と住持がいなくなった太平寺は急速に寂れていきました。
その後、本尊は鎌倉へ戻ってきたのですが、この太平寺には戻らず、同じ鎌倉の尼寺であった東慶寺の泰平殿に安置されることになり、太平寺の客殿も円覚寺の正続院に移築するよう北条氏康が命じていて、『新編鎌倉志』ではこの時移築されたものが現在も残る円覚寺の舎利殿であると記しています。
つまり、太平寺の遺構は鎌倉の各地に散って消滅してしまったのです。
今回の鎌倉散策のテーマは鎌倉時代前期の史跡・旧跡を巡るというものなので、この太平寺跡は正直言ってちょっと違うというか、伝説で頼朝、池禅尼は登場しますが、実質的には室町時代・戦国時代の旧跡になるかもしれませんね。
さ、いよいよあの方へご挨拶にうかがいます。
また来た道を戻って西御門の石碑まで来たら、先ほどもお話しした東へ延びる路地へ。すると、ほどなくしてこちらの場所に到着します。
さぁ、着きました。
鎌倉青年団の石碑、その17「法華堂跡」です。
実は法華堂跡というのは、現在2ヶ所知られていまして、ここは頼朝の法華堂(右大将家法花堂)跡になります。もう一つは後ほど紹介させていただきますが、北条義時の法華堂跡(新法華堂)です。
頼朝の法華堂は文治5年(1189年)7月18日(『吾妻鏡』)に頼朝が奥州合戦(鎌倉政権v.s.奥州藤原氏の戦い)へ出陣するにあたって、伊豆山権現の僧で長年頼朝の祈祷師であった専光坊良暹に、
「(私が)出陣して二十日ばかり経ったのちに、この亭(大倉御所)の後山に御堂を建てるべし。年来の私の守り本尊である正観音像を安置するためである。しかし、工匠に頼まずにお前が自らそのお堂の柱を立てるのだ。その後の造営は追って沙汰する」
と持仏堂の建設着手を命じ、それから18日経った8月8日に良暹は後山によじ登って自ら柱を立てて、それを観音堂と名づけました。これがここの法華堂の前身となるものとされています。
その後、この観音堂は大友能直と中原仲業が奉行となって本格的な造営が始められ、寺院として伽藍も整えられていったようです。
そして、頼朝の一周忌にあたる正治2年(1200年)1月13日、北条政子が自らの毛髪で作った「阿字曼荼羅図」を栄西を導師として、この観音堂で供養したらしいのですが、この時はじめて「法花堂」という名称が登場してきます(『吾妻鏡』)。
って、解説ばっかじゃしょうがないので、写真をば。
こちらは「法華堂跡」の石碑の横にある白旗神社。
祭神は白旗明神こと源頼朝です。
もう日が沈もうとしていて完全に逆光。どこか少しでも逆光の影響が少ない角度を探していましたがダメで、時間的に内心少し焦り気味で撮った写真なので、しかも構図一切無視の写真です。(社が鳥居で真っ二つ・・・)
(社だけじゃなくて狛犬も撮りたかったんだよぉ~。どの角度が正解だったんだろう。今度またリベンジします…)
ここの白旗神社は鶴岡八幡宮境内にある白旗神社と区別して西御門白旗神社とも呼ばれます。
ちなみに、この神社の隣の敷地には「よりとも児童遊園」というごく普通の公園があり、この神社と公園の敷地も観音堂を中心とする寺院の境内だったようです。
ただこの場所に石碑があるせいで、ここに頼朝の法華堂があったと思ってしまいますが、先ほどの『吾妻鏡』の記述で良暹は(大倉御所の)後山をよじ登ったとあるので、ここに法華堂があったわけではないことがわかります。
では、その後山を上ってみましょう。石段が続いています。
そして、その石段を上った先には…
お、お久しぶりでございまする~~っ!佐殿!!
すみません、取り乱しました。ここが頼朝さんの御墓です。
ですが、ここに頼朝さんはおそらく眠っていません。この近くに眠っていらっしゃるとは思うのですが、これは江戸時代に整備された供養塔なのです。
この頼朝の墓を整備したのは、島津家第25代当主にして、薩摩藩第8代藩主である島津重豪(1745年~1833年)さんです。
なぜに島津が?ということなんですが・・・。
島津家の初代である島津(惟宗)忠久は頼朝の御落胤という話があるので、そんなところから先祖への思慕の念と、私はそんじょそこらの大名とは違う由緒正しき家柄なんだぞっ!と自らのアイデンティティを誇示するために整備したものとされています。。。
こちらは頼朝の供養塔の横にある「源希義の土と石」ということで、希義さんは頼朝にとって同じ母(俗に由良御前〔熱田大宮司・藤原季範の娘〕と呼ばれる)である唯一の男兄弟です(妹に坊門姫がいます)。
希義さんは平治の乱後、土佐国へ流されましたが、頼朝が挙兵した直後、平家の命令を受けた在地の武士たちに討ち取られた方です。なので、頼朝と希義は平治の乱後二度と会うことはありませんでした。
そこで、希義の墓所の土と石、頼朝の墓所の土と石を交換することで、再会を実現したとしています。
ところで、どれが希義の土と石なのでしょうか…?その小さな木が植えられているところかな?
さて、ちょっと話を戻して、頼朝の法華堂があった場所なんですが、ちょうどこの頼朝の墓(供養塔)がある付近は平場になっています。
もしかしたらここが本当の法華堂跡なのでしょうか…?ちょっとよくわかりませんが、ここに鎌倉市が建てた案内板と「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と刻まれた石柱があります(写真右側にありますが、写っていません)。
ちなみに、こちらの頼朝の法華堂は度々『吾妻鏡』に登場しまして、主なものだと、建暦3年(1213年)5月の和田義盛の乱の際、大倉御所を和田方の朝夷名義秀(和田義盛の三男。朝比奈、朝夷とも)によって焼け出された源実朝と北条義時や大江広元がここへ避難。大倉御所の燃える様子を眺めたそうです。
また、宝治1年(1247年)6月5日の三浦氏の乱(宝治合戦)の際には、三浦泰村をはじめとする三浦勢500人ほどがこの法華堂に立て籠もり、掲げられていた頼朝の肖像画の前で、これまでの思い出を語り、最期の感慨を述べたのち、華々しく戦い、ついに力尽きようとした彼らは一斉に自害をするという衝撃の現場となっています。
つまり、この頼朝の法華堂というところは、間違いなく鎌倉時代前半の歴史の舞台だったのです。
ということで、今回も例によって長くなってしまったので、ここで一旦切りたいと思います。後編は近頃大河ドラマの主役だったあのお方を偲びにいきます。
では、最後に今回のルート。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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