【鎌倉 扇ヶ谷エリア(後編)】 久しぶりの鎌倉⑤ (2019.11.17)
(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事をほぼ転載しております)
鎌倉散策記事⑤。
前回の続き【扇ヶ谷エリア】の後編になります。
ということで、再び化粧坂を下って扇ヶ谷に。JR横須賀線のガード下をくぐります。そして、程なくしてこの御堂があります。
こちらは岩船地蔵堂です。
この地蔵堂は頼朝の長女である大姫の墓所と伝えられ、堂内には大姫の守り本尊とされる木造の地蔵立像が本尊として祀られているそうです。
大姫・・・この方は鎌倉屈指の悲劇のヒロインとも言われる方で、その悲劇をかいつまんでお話ししますと・・・。
幼い頃、人質として鎌倉へやってきた源義仲(木曾義仲)の嫡子・義高と仲睦まじい関係になり、やがて大姫は幼いながらもそんな義高に恋心を抱くようになりました。しかし、彼らの父親たちはやがて対立。義高は人質だったため殺されることとなりました。
大姫の母親である北条政子は、大姫が恋心を抱いていることを知っていて、頼朝に無断で密かに義高を逃れさせます。
ところが、義高の逃亡を察知した頼朝は直ちに追手を派遣。義高はあえない最期を遂げることになります。
大姫は義高が命を失ったことはわかっていました。それでもぜひ会いたいと強く願い続けました。しかし、その願いは叶うはずもなく、やがて心身ともに衰弱していきました。
母親の政子はじめ周囲の者たちはそんな大姫を大変心配して、色々大姫を元気づけるよう努めますが、大姫が完全に回復することはついになく、建久8年(1197年)7月14日、数え年で20歳という若さで亡くなりました。
なんとも悲しき姫君でございますが、そんな姫君の守り本尊がここにお祀りされているというわけです。
ただ、この大姫の守り本尊とされている木造の地蔵像は、胎内(地蔵像の中)にあった銘札には元禄3年(1691年)に三橋氏(鎌倉時代以来の仏師の家柄)の造立であることが記されていて、その一方で「右大将頼朝息女之守本尊」とも記されているそうで、よくわかりません。
だいぶ傷んでしまった地蔵像を三橋氏が修繕、もしくは作り替えたということでしょうか?
また、『吾妻鏡』の正治1年(1199年)6月30日条には一つ気になる記事がありまして、それは頼朝の次女(大姫の妹)である乙姫(三幡姫とも)が御年14という若さで亡くなったのですが、その乙姫の乳母夫であった中原親能は大変悲しみ、直ちに出家。そして同日夜、北条義時(この当時は江間殿と呼ばれました)、大江広元、三浦義澄、結城朝光、畠山重忠、梶原景時などといった有力御家人が白い喪服を着けて参列し、中原親能の亀谷堂の傍らに葬ったというのがあります。
中原親能の邸宅は亀谷にあったことがわかっており、この亀谷堂も邸宅の近くにあったものと思われます。そのことから奥富敬之先生はこの親能の亀谷堂がこの岩船地蔵堂を指すのではないかと考え、これは大姫ではなく、乙姫を葬った場所ではないかと指摘しておられます(『鎌倉史跡事典』)。
ただし、この中原親能の邸宅が亀谷のどこにあったのかはっきりしていないため、この岩船地蔵堂が乙姫の亀谷堂であったことは確定できません。
なお、この岩船地蔵堂の岩船というのは、大姫の守り本尊とされる地蔵像とは別に、床下に130cmほどの一石造りの地蔵像と思われるものがあり、その光背が舟の形をしていることから名づけられたと言います。
(では、この石造りの地蔵像は何なのでしょうか…?その辺が謎を解くカギにもなりそうなのですが…)
ともあれ、この岩船地蔵堂は頼朝の息女(大姫と乙姫)に因む御堂であることは言えると思いますので、そんなお二人を弔うつもりでお参りされるといいかもしれませんね。
さて、大姫の話が長くなってしまいましたが、この辺で終わりにして、JR横須賀線に沿うように南下していきます。
(正確にはJR横須賀線との間に扇川という小川があって、その川に沿って南下します)
あ、そうそう。先ほどの岩船地蔵堂の前の道を東へ(写真で言うと右へ)道なりに進んでいくと、そのまま亀谷の切通しへと行き、北鎌倉・長寿寺の横へ出られますよ。
さ、次の目的に着きました。
こちらは「伝・相馬師常の墓」です
でも、残念ながら当分の間、やぐらの前までは行けないようです。なんでも落石があるみたいで・・・。なので、階段下から離れて合掌。
と、その横に。
はい~。鎌倉青年団の石碑、えっと…その7!「相馬次郎師常の墓」です。
さてさて、相馬師常さんは下総国の有力御家人・千葉常胤の次男で、千葉氏の代表的な庄園である相馬御厨の下司職(地頭職)を受け継いで所領としたことから「相馬」と名乗りました。
戦国時代、奥州の伊達氏と度々激しい抗争を繰り広げた奥州相馬氏がおりますが、この奥州相馬氏のおおもとはこの師常から始まり、その所領である陸奥国行方郡(今の福島県相馬市・南相馬市・飯館村)は師常が奥州征伐の際の勲功として頼朝から与えられたことによります。
(奥州相馬氏自体は師常の来孫(孫のひ孫)である重胤が家督争いで鎌倉末期の元亨3年〔1323年〕に行方郡に本拠を置いたことから始まります)
そして、『吾妻鏡』の元久2年(1205年)11月15日条には相馬師常死去の記事があります。
それによれば、師常は姿勢を正して座り、合掌したまま亡くなったそうで、極楽に往生されたことは疑いなく、彼が念仏行者(念仏の信心の篤い人)だったことから、結縁(未来に成仏できるような因縁を作ること)と称して、僧侶から一般の人まで集まり、師常を拝んだとあります。
この師常という人はかなり信心深く、落ち着いた感じの人だったかもしれませんね。そんな気がいたします。
あと、この相馬師常の墓の山の向こうは、足利尊氏さんが引き籠っちゃった浄光明寺があります。山の向こうといってもすぐに行けますので、立ち寄られてみてはいかがでしょうか。
では、再びJR横須賀線(扇川)に沿うように南下していきます。
そして、左方にこちらの石碑が見えてきます。
鎌倉青年団の石碑、その8!「扇谷上杉管領屋敷迹」です
扇谷上杉。戦国時代好きな方なら一度は聞いたことあるはずです。なので、この史跡は鎌倉時代初期に因む旧跡ではなく、室町時代の史跡になります。今回は解説がだいぶ押してるので割愛させていただきますが、扇谷上杉氏は室町時代に関東管領として君臨した上杉氏の諸家の一つですね。
やっぱ扇ガ谷と聞いて、連想するのは扇谷上杉氏だろぅ~ということで、その邸宅跡になる所を写真で撮っておきました。
さて、「扇谷上杉管領屋敷迹」の石碑から60mほど扇川に沿って南下すると、寿福寺の門前からすーっと東に延びる道にぶつかります。
この東に延びる道も古い道で、「窟堂道」とか「窟(岩屋)小路」とも呼ばれます。
この道は頼朝が鎌倉に入る前からある道で、この道を東に行くと、鶴岡八幡宮前の横大路、続いて六浦道(金沢街道)へとそのまま繋がっていきます。若宮大路ができる前はこの3つの道のルートが鎌倉のメインストリートでした。
なので、ぜひとも道の様子を写真に収めておきたかったのですが、この日は休日で、鶴岡八幡宮方面から来る方たち、リア充さんたちが大勢いまして、写り込んでしまわれるのもアレだなと思って自粛しました(残念!)
で、この窟堂道を東に向かいます。
すると、ここでこの道の名前の由来となった窟堂が左手にあります。
さ、わたくしめ、ようやくここで休憩です。
もう足が結構疲れて痛くなってきてるのと、なにせお腹が空いて…。
この窟堂のすぐ横(敷地内?)に「不動茶屋」さんという店があり、そこで当初からおよまるは食事休憩をしようと思っていたのです。
(たぶん、この不動茶屋さんは喫茶店、甘味処なんだと思いますが、ここのラーメンが評判を呼び、今は来る人みんなラーメンを注文するので、ラーメン屋さんみたいになってしまっていると思われます)
お店はこじんまりとして細々していますが、私はそういう雰囲気が好きなので、とても良きでした
お不動さんにお参りして写真撮ってからお店に入れば良かったものを、お腹が空いた~、ラーメン食べたい。って気持ちが逸って後回し。
まぁ、これが程なくして後悔することになるのですが、その時のわたくしめはもう・・・
ラーメンしか頭にありません。
ラーメンは昔ながらの中華そばって感じで、和風だし(何のダシかわからなかったけど、多分色んな種類のダシを使ってると思われ…)でさっぱり醤油味。おいしい
特徴は多めの白ごまですかね~。あと、傍らに梅干しが1個ついてきます。
って、四の五の言ってないでラーメンの写真載せれば話済むじゃないか。早くしろ!
…はい、本当はここにラーメンの写真が載るはずだったんです…。
わたくしめ、写真は撮ったんですよ…。とりあえずtwitterに載せるつもりで。でも、送信したはずのツイートはされてなくて、それに気がついたときは空のどんぶりのみに…。
(また送信すればよかったのに、「戻る」を押してしまったためかその未送信ツイートも消えた~)
フォロワーさんにも慌てなさんなと注意され・・・(笑)
しかも自分がラーメン食べてる間に次々にお客さんがきて、外(お不動さんの社の横)にも何席か有るのですが、そこも満席に…。
さすがにラーメンほおばってる人を写し込ませるのも悪いなぁ~と思ひ、結局、窟堂自体の写真も撮れず…
ってことで、ラーメンで頭がいっぱいだったせいもあって、ここへきて失敗の連続でした・・・。次回は窟堂の写真を絶対撮るということで、わたくしめ、固く心に誓うのでした。
ともあれ、お腹がいっぱいになったので、散策再開ということで鶴岡八幡宮方面へ向かいます。
もう大体予想はついてました。最初鎌倉駅に到着した時の混雑ぶり、八幡宮に近づくにつれて人が多くなってきていることもあって、これは…今回はじめて八幡宮スルーするしかないかも・・・と。
ということで、今回はここまでで、【扇ヶ谷エリア】終わりです。
次回は【雪ノ下・小町(鶴岡八幡宮周辺)エリア】になります。
今回は文字ばかりの史跡案内になってしまいましたが、次回はもう少し写真載せられればと思います。
では、最後に今回のルートを・・・。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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