【鎌倉 西御門(鶴岡八幡宮周辺)エリア(後編)】 久しぶりの鎌倉⑨ (2019.11.17)
(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事をほぼ転載しております)
鎌倉散策記事⑨。
今回は【西御門(鶴岡八幡宮周辺)エリア】の後編になります。
前回はこちら。
頼朝さんに久しぶりの挨拶を済ませ、今度は鎌倉政権重鎮の方々へ挨拶に向かいます。
頼朝の墓の石段を下りてすぐ左の舗装されていない道へ進みます(東へ)。すると左手にまた鳥居があり、そこをくぐって石段を上っていきます。
すると…。
はい。こちらが前回チラッと触れました北条義時の法華堂跡(新法華堂跡)になります。
北条義時は鎌倉政権第2代執権にして、その後の政権の礎を築いた人です。彼は貞応3年(1224年)6月13日に62歳(数え年)で亡くなりました。
『吾妻鏡』の元仁1年(貞応3年の11月に改元、1224年)6月18日条には義時を葬送した記事があり、それによれば、頼朝墓(右大将家法花堂)の東の山上を墳墓となすとあります。
そして、平成17年(2005年)に行なわれた発掘調査で、この地に8.4m四方の平面正方形の建物跡が検出されて、ここに何らかの建物があったことが確認されました。
解説案内板にはこれが義時の法華堂跡であるとして『吾妻鏡』の記述が裏付けられたと記されています。
なお、これは後にtwitterのフォロワーさんのツイートから知ったのですが、この写真の奥、つまりこの小山の東側斜面に2つやぐらがあり、そのうち1つが「よしときさん」と地元の人に呼ばれるやぐらなんだそうです。(もう一つは政子のやぐらとされているようです)
しかし、その2つのやぐらとも内部に五輪塔や宝篋印塔が建つわけでなく、ほぼ何もない状態のようで、そこへ行く道も消えかかって険しい斜面を登っていかなければならないようなので、果たして本当にそこが義時にちなんだやぐらなのかわかりません。
ですが、そのやぐらはちょうどこの法華堂跡の平場の地下に位置するため、今のところ全く関係ないものと言い切ることもできません。
ただ、義時やぐらの方はやぐら内が前室と後室の2つに分かれているということなので、ここにはかつて古墳があり、その盗掘跡なんではないかとも私個人としては思います。
ともあれ、この付近に義時は眠っているはずです。
今はなにもないただの原っぱですが、そちらに手を合わさせていただきました。(義時の墓についてはのちほどもう少しお話させていただきます^^)
さて、この義時の法華堂跡の写真で鳥居があるのがわかりますでしょうか。
その鳥居をくぐるとすぐにわざわざ二列にしてある少し長い石段が延びています。(写真撮っておけば良かっただよ…)
そして、その石段を上ると…。
3つのやぐら(鎌倉に多く見られる洞窟墓)が横一列に並んでいます。
上の写真はその内の2つ、手前が大江広元さんのやぐら、奥が毛利季光さん(広元の四男)のやぐらです。
そして、上の写真を撮らせていただいたすぐ右横には、あの薩摩島津氏の氏祖である島津忠久(惟宗忠久ともいいます)さんのやぐらがあります。
では、まず大江さんのやぐらから。
大江広元さんはもともと都の役人(太政官の役人〔権少外記、少外記〕など)を務めてこられた貴族で、治承・寿永の乱のさなかの寿永2年(1183年)後半~元暦1年(1184年)前半ごろに頼朝の招きに応じて鎌倉へ下ると、内政面で鎌倉政権を支えました。
そして公文所(公的文書を扱う役所)の初代別当(長官のこと)、のちに公文所が政所と改称(公文所は政所の一部局に)されると、その初代別当に就任し、鎌倉政権の政務を司りました。
つまり、この方をなくして、鎌倉政権が形作られることは難しかったと言っても過言ではないほどの重要人物です。
こちらは大江広元さんの左隣にある毛利季光さんのやぐら。
毛利季光さんは大江広元さんの四男で、広元さんの所領の一つであった相模国愛甲郡毛利庄(神奈川県厚木市毛利台付近、森荘とも)を譲られ、そこを名字の地としました。
彼は文筆の家の出身でありながら、もう武士そのもののような活躍をされた方で、承久3年(1221年)5月の承久の乱では北条泰時・時房率いる主力・東海道軍の一翼を担って活躍、大いに戦功を立てました。そして、のちに執権となった泰時の信任を得て評定衆(政権の政策運営を評議決定(裁断)する中枢機関)の一員にも抜擢されました(天福1年〔1233年〕11月3日〔『吾妻鏡』)。
しかし、宝治1年(1247年)6月の三浦氏の乱(宝治合戦)では三浦方に属して敗北、三浦一族と共に自刃してその生涯を閉じました。
なんでも、この季光は娘が北条時頼(第5代執権・泰時の孫)に嫁いでいることもあって、時頼を助けようと北条方に味方するつもりであったのが、妻が三浦義村の娘で、三浦氏の縁者であったためにそんな彼女から義に背くと引き止められて三浦方についたと言われています(『国史大辞典』)。
大河『北条時宗』でも、毛利季光の妻が兄上(三浦泰村(義村次男で三浦氏惣領)を助けるように懇願する様や、時頼が季光を味方にするよう、金沢実時(北条一門)を再三再四遣わして、普段冷静沈着な実時もなんとか季光には生き延びてもらいたい気持ちをにじませながら説得にあたってる様子が描かれていました。
(この当時はあまりよく見ていませんでしたが、その辺のシーンだけはなぜかよく覚えています。みなカッコよかったからかも。笑)
あ、ちょっと長くなってしまいましたね。
この大江広元さん、毛利季光さんの話はまた改めて人物紹介の時にでもじっくりお話しできればと思います。
で、最後はこちらの方。
はい、こちらが薩摩島津氏や信濃島津氏などの氏祖になる島津忠久さんのやぐらです。
(ちなみに、このやぐらだけ他の2つのやぐら(季光・広元の供養塔)とは二重の玉垣で仕切られて独立した形になっています。)
忠久さんの話も長くなってしまうので、かなり省略していきたいところですが、島津忠久さんは頼朝の御落胤という話があり、そんなところから前回お話しした島津重豪さんが江戸後期に、頼朝の墓と合わせてこの墓を整備しました。
この方はそうですね…、もう南九州を一手に引き受けていた印象ですね。薩摩・大隅・日向の三ヶ国(今の鹿児島・宮崎両県)守護にして、その地域での地頭職として預かる荘園も三ヶ国で8000町歩にも及ぶ広大なものだったそうです(『国史大辞典』)。
一旦、建仁3年(1203年)の比企氏の乱(比企能員の変)で連座させられてつまづくものの、やがて立場を回復させて南九州で勢力を保ちました。
また、この忠久は南九州の他にも越前国や若狭国(今の福井県)や越後国(新潟県)や信濃国(長野県)などにも所領を有してその地頭職になり、越前国では守護職にも任じられて、鎌倉時代前期ではかなり巨大な勢力を誇る御家人でした。
あと、これは余談ですが、この方は『古文書学』とかをやると、結構な確率で名前を知ることにもなります。「源頼朝袖判下文」という文書の例として、この島津忠久を伊勢国波出御厨の地頭職に補任(任命)するという下文が使われることが多いのです^^
とまぁ、長々とお三方の話をさせていただきましたが、ここで盛大なる実も蓋もない話をしたいと思います。
実はこのお三方の墓、実際のところそれという確証はなく、一体誰が眠っておられるのか、それとも単なる供養塔なのかわからないので~す!ヽ(^o^)丿
鎌倉市の公式HPによれば、
島津忠久の墓は島津重豪が鶴岡二十五坊(鶴岡八幡宮寺の院家、塔頭、子院に相当する寺社の総称)の一つであった相承院の伝承に基づいて、それと比定。
大江広元の墓は江戸後期長州藩士・村田清風が文化14年(1817年)9月17日から23日にかけて相承院、浄国院にある大江広元と毛利季光に関する史料となる古文書や位牌の調査、旧蹟の発掘作業などの考証を行い、その結果、確たる証拠は見つけられなかったものの、伝承が残っていることを縁として大胆に墓所を決めたとしています。
また毛利季光の墓に関しても八幡宮の西側の鶯ヶ谷の該当地から出てきた墓の臺石(台石)を根拠にしたとしています。
まぁ、わずか1週間足らずの調査で発掘作業もどの程度行われたのか甚だ疑問で、もうほとんど後世の書物と口伝・伝承などで決めてしまったのでしょう。
鎌倉市のHPにも、
と書いてある通り、長州藩の宝暦の藩政改革を遠祖・大江広元や毛利季光の威力で推進するためにも、遠祖の墓地の発見再興と祭祀の継続こそが目的であって、この時の調査も単なるその墓地の箔付けを行ったに過ぎないもののようです。
ちなみに、この3つのやぐらが現在のような形に落ち着くまでには薩摩藩と長州藩でかなり協議が行われ、紆余曲折もあったようで、最終的に落着したのは江戸時代もとっくに終わった大正10年(1921年)12月のことだったようです。
(なぜ階段が2列になっていたのか、なぜ3つの内1つは玉垣で仕切られていたのか・・・そういうことです。)
あ、そうそう。
ちなみにこのお三方の墓の一つは北条義時の墓であると地元の人の言い伝えがあるようですよ(鎌倉市HP)。
江戸後期の地誌『|鎌倉攬勝考《かまくららんしょうこう》』(文政12年〔1829年〕)という本の中に、「土人(土地の人)ら大江広元の墓なりというは訝しき説なり」という注釈があるそうで、北条義時の墓である可能性も示唆しているとのことです。
これ、私も思ったんですが、最初の方でお話しした『吾妻鏡』の義時葬送(元仁1年〔貞応3年〕6月18日)の記事には、頼朝法華堂の東の山上とあるのだから、むしろこのお三方のやぐらの一つが実は義時のものなんじゃないの?と思います。(やぐら自体が島津や毛利に整備される前からあったとしたら)
しかし、それにしても鎌倉という土地は伝承ばかりで未調査の土地が多いので、もう少し本腰入れて発掘調査とかすれば、わかることも多いような気がするんですけどね…。
ってことで、お墓の話はこれくらいにして、もうかなり長くなってきているので、駆け足で西御門エリア終わらせたいと思います。
鎌倉青年団の石碑その18(上)とその19(下)。「大蔵(大倉)幕府旧蹟」と「東御門」です
まず大倉幕府旧蹟の石碑は今の私立清泉小学校の南西端に建っていて、頼朝の墓所からまっすぐ南に200メートルほどのところにあります。
そして、東御門の石碑は清泉小学校の北東端をほんの少し進んだところに建っています。東御門というのは大倉御所東の門ですね、今は西御門という地名になっていますが、石碑が建立された大正時代には東御門という地名もあったようです。
ともあれ、まさにこの清泉小学校の敷地は大倉御所があった場所ということになります(実際の御所の敷地はもっと広大だったと思われ、現在の西御門地区(鶴岡八幡宮東側)一帯は御所の敷地と考えて良さそうです)。
大倉御所は何度もお話ししているかとは思いますが、改めて。
ここは源氏三代(頼朝・頼家・実朝)の御所で、治承4年(1180年)12月12日に頼朝が新しく造営されたこの大倉御所に入って以来、嘉禄1年(1225年)7月に北条政子が亡くなり、同年12月20日に三寅(三寅丸。のちの鎌倉政権第4代鎌倉殿・藤原頼経)が宇都宮辻子御所に移るまでの46年間、鎌倉政権の中心的な場所でした。
ただここもすべてを発掘調査しているわけではないようなので、まだこのあたり一帯に眠っている貴重なものがまだ地下にあるんでしょうね…(uдu)
それと近年、「大倉幕府問題」として、この御所跡地の一角にマンション建設の話があり、それをどうするかでもめているようですね。
まぁ、鎌倉市が鎌倉を世界遺産都市にしたいのなら、その世界遺産の中心的位置づけになると思う大倉御所跡地にマンション建設は認可してはいけないとは思いますが、私は別に世界遺産になってもらいたいとは正直思わないので、しっかり調査発掘した上でマンションにしたらいいと思います。
(鎌倉に何でもかんでも遺跡として残していったらそれこそ現代の人は住めなくなります。難しい問題ですけどね…)
ということで、今回で西御門エリア終わりで~す。(写真少ない上に説明長くてすみませぬ・・・)
次回は多分一回で終わらせられると思いますが、【二階堂エリア】となり、それで今回の一連の鎌倉散策記事は最終回です。
では、最後にルート。
(あいかわらずよくわからない上に、今回はゴチャゴチャと…(´艸`*)まぁ、だいたいこんなふうに歩きましたよってことで)
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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