生憎、あたしは器用じゃないのだ。
…
あたしは生物学上”女”の15歳だ。
別にLGBTのTとかでは無い。ただカッコつけて性の多様性を意識してみた。今の世の中における大きな課題だしね。あたし自身理解はある方だと思うしこの問題について人類はもっと思考を向けるべきだろう。
まあ所謂JKと称される代である。
そんなことはどうでもいい。先に理っておくけど、あたしが今からここに綴る内容は万人には理解され難いことだと思う。
”器用じゃない”
まさにそのまんまだよ。そのまんま。
いや、物理的にとかじゃなくてね。てかあたし自身手先が器用である自身は大いにあるし。だって小学は図工オールA、中高は現時点でオール5だし。ね。
この場合あたしが言いたいのは、器用に生きるのが苦手ってこと。
器用に生きることへの向上心はある。あるんだよ。
だから困ってんのよ
器用に生きようと思って頑張るのに、その思考に上手くからだが対応できないの。
例えばの話。誰かの相談に乗った時、その人に伝えたいことは頭の中にポンポン浮かぶし、説得できる分のワードは十二分に出てくる。
けどそれが「=(イコール)」にならない。
別に語彙力が欠けてる訳じゃない(と信じたい)。幼い頃から本が好きで人よりかは多く読んできたし、そのおかげで言葉の引き出し自体は多い方だと思う。
え、じゃあなんでなの?
それな〜〜〜〜〜〜〜〜〜。あたしも思う。てかあたしが1番聞きたい。
なんでだろ?なんでなんだろ?
結局自分が伝えたいことの核は伝えられずに終わるし、それであとから後悔するのが一連の流れ
根本的にいえばこれ(上記の一文)が、あたしが伝えたい”不器用”さなのだ。
誰かを助けようとした時、誰かの顔色を伺おうとした時、誰かと難しい話をしようとした時、誰かに自分の素直な気持ちを伝えようと来た時
いっつも空回りする。
自分の両親のことになるが、
思考がガキ同等の亭主関白な父、自分勝手なヒステリックな母
そんな二人の間に生まれ育った私は、いつしか人の顔色ばかり伺う人間になったわけで。(笑)
よく言えば気が使える人だけど、悪く言えばただの自我なし人間
最悪だよ。
考えればこの15年の人生、物心ついた頃から人の顔ばっか伺ってるなとは思う
ママ、父さん、保育園の先生、小学に上がってからは友達にも気を使うようになり、中学にもなればむしろ誰に対しても顔色を伺わない瞬間はなかったのでは?てくらいずっとずーっと人の顔色伺ってたし、高校生になった今もそう。気づけば他人に気ばっか使ってた。人生損してる気しかしね〜〜〜〜。
正直疲れる、疲れないわけないじゃん。自分自身を素直に出せないんだし。
あー、もっと素直になりたい。
でもそれが怖い
怖いんだよ。あたしひとりが人の顔色を伺わないばかりにその人をイラつかせて傷つけてしまうんじゃないか、そう考えたら怖い。
あと、父母みたいになりそうで。(笑)
笑えないわ。全然。
そういう両親の元で育ったあたしが、こうはなりたくない、コレになるのだけは絶対やだ、そう思って成長してしまった結果だろうと思う。
両親が嫌いなわけじゃくて、両親のそういう所が嫌いなのだ。
だからあたしは人に気を使って生きることがあたしにとっての”最善”だと思うし、その方が楽なのだとどこか自暴自棄になっているのだろう。
その結果生きるのに不器用になってひとりで空回りしてる。
でも、それでも、
もうちょっと上手に生きたいなぁ。
できればいいんだけどね。
できれば。
芥川龍之介の羅生門に登場する下人の”「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった”みたいに。
あたしの「こうなれれば」はいつまでたっても、結局「こうなれれば」なのだ。
だからいってるじゃないか。
”生憎、あたしは器用じゃないのだ”
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