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マリア様が見ている

オーディオブログURL:https://www.youtube.com/watch?v=k3T6IxQCB8s

以下、原文。

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これまでの人生において、僕はよく女性の家から追い出されてきた。加えて、語学が堪能であるがゆえに、世界中の女性の家から追い出されてきた。

だからと言うべきか、僕には追い出された際の習慣があった。それは、追い出された足でキリスト教の教会へ行き、マリア像の前で懺悔することだった。

世界中のどこの街にも必ず一軒くらい中華料理屋があるように、教会も必ず一つくらいはある。

一度落ち着いた場所で頭を冷やす。そういった意味で教会の環境は適しており、クリスチャンではない僕にも開かれていた。

「本当に君には申し訳なく思っている。今一度ちゃんと謝る機会を与えてほしい」

今回も僕はまっすぐ家に帰るのもおさまりが悪いので、一度教会をはさみ、ほとぼりが冷めるのを待つことにした。

そして、僕を追い出した女性にそうメッセージを送ると、グーグルマップで近くの教会を検索した。もちろんこの町にも教会があったので、僕はウーバーを予約した。

僕は仕事の関係で、今インドに駐在している。このインドにおいても、やはり中華料理屋があるように、教会があった。

最寄りの教会に到着し扉を開くと、そこはオーソドックスなバシリカ型建築の教会だった。十字型のホールの正面には十字架が飾られており、その脇にマリア像がある。

そうそうこれこれ。僕は特に信仰心がないのだが、勝手知ったる様子でズカズカと中に進み、マリア像の前にひざまずき十字を切った。

デリーのマリア像も他と同じく、慈悲深い表情をたたえ僕を見下ろしている。

そうそう、このお顔だ。

僕ら日本人は海外で当地の料理に胃が疲れ、慣れたものを欲した時、その土地に日本食屋がなければ中華料理屋に入るだろう。

そこで、「ラーメン」と頼めば、多少現地のニュアンスが入っているとは言え、必ず「ラーメン」が出てくる。

僕はインドのマリア像の表情にもそうした安堵を覚え、不遜にも中華料理屋と教会にはやはり共通点が多いと感じながら、手を合わせていた。

ここはインドの首都、ニューデリーにある教会だった。僕はここにもう三年間駐在している。独り身の海外駐在であり、まだ20代の僕は、誰も僕のことを知らないこの土地で海外生活を満喫していた。そのせいか、インドに赴任して、これが4回目の「反省」となった。

インドにおいて、多数派の宗教はヒンドゥー教だ。次いで、イスラム教、キリスト教とシク教などの宗教が混在している。宗教と生活の距離が非常に近いこの国では、至るところにこうしたキリスト教の教会、ヒンドゥー教の寺院、イスラム教のモスクなどがある。

何かに祈るという行為を通して頭を冷やすのが目的であり、宗教や宗派はどうでもよかった。そう言えば2回目の時は近くに教会がなく、シク教のグルドワラで御本尊に跪きお祈りした。

「僕はまた、同じ過ちを繰り返してしまいました」、と。

インドはイギリス当地時代が長かったせいか、植民地時代の建築物が今でも多く残されている。おそらく、このデリー中心部の教会もその一つだ。また、クリスマスが明けたばかりの今日、まだ片付けられていない教会の中には五芒星の電飾やクリスマスツリーが依然飾られていた。

祭りの後の教会は閉館時間が迫り、中には数名の職員と、一人の老婆がベンチに座っているだけだった。

そのインド人の老婆は、熱心に祈りを捧げている風のアジア人である僕を見ていた。

「God bless you」

神様のご加護がありますようにと、老婆は僕に語りかけた。僕は振り返り、涙ぐんだ目で老婆に微笑んだ。

追い出されたことのない方はわからないかも知れないが、追い出された直後、誰かがかまってくれることが一番染み入るのだ。

「何かありましたか」。老婆は僕の哀れな姿を見てか、単にインド人特有のおせっかいなのか、インド人らしくないブリティシュアクセントの英語で僕に問うた。

実は、と僕は内心嬉しくなり話し始めた。

「僕は人を愛する事ができないのです」

僕は続けた。

「そして自分を制することも出来ず、常に己の欲望のままに振る舞い、大切な人を傷つけてしまうのです。気がつけばいつも独りです。まるで荒野を彷徨う、飢えたトラのように」

要するに僕は彼女に浮気がバレて、追い出されました。などと直接的な言葉でご婦人に伝えられないので僕は婉曲表現を用いた。

「祈り続けるべきです。祈り続ければきっと神様は助けてくれます」

老婆は、そんな月並みなアドバイスを僕に寄越した。もう少し面白いことが聞けると思っていた僕はすこしがっかりした。

僕は教会の壁に飾られている、処刑前、重い十字架を担ぎゴルゴダの丘を登るイエスのレリーフを指差した。

「祈り続けろたって、僕にはこんな忍耐はありませんよ。僕ならきっとゴルゴダの丘の二合目あたりで、『もうここで磔てくれないだろうか?』とローマ兵に懇願してしまうでしょう」

そう僕は冗談めかして言うと、彼女は笑った。

ふざけてみたものの、今回僕は今まで以上に落ち込んでいた。

前回は、お互い遊びだと思って付き合っていた女性に、「信じられなくなった」という理由で追い出されたし、その前は出張先にて、都合が良いので居候していた女性に「もう出ていけ」と追い出された。

最初はもうよく覚えていない。今回の彼女から返信はまだない。

こうも毎回女性から嫌われていたら、さすがに図太い僕でも落ち込んでしまう。

また、この後すぐに別の女性を見つけ、そしてその人からも嫌われてしまうだろう。そう僕は思っていた。こんな自分の社会性に何か大きな欠損を感じずにはいられなかった。

「僕はどうしたら人を愛することが出来るんでしょうか」

僕は再び老婆にそう問うた。

キリストの生まれた馬小屋の藁にでもすがりたい気分だった。

「さっきも言ったでしょう、祈り続けることが大事なんですよ」。

そう老婆は再び子供を諭すような口ぶりで語った。

教会で少し気分が落ち着いたので、僕はウーバーを呼び家へ帰ることにした。彼女からの返信はまだない。

せっかく年末、明日から二人で旅行する予定だったが、この分だとキャンセルした方が良いかも知れない。

そう思い、僕は休暇の代案を考え始めた。

「そうだ、イスラエルへでも旅行してみるか」。

 

僕はふとそう思った。まるで昼食の讃岐うどんが美味しかったから、旅行先を本場の香川に決めるような軽い気持ちだった。

そう思うと、たしかにキリスト教の発祥地は、イスラエル・エルサレムにある。本場のマリア像はまた一味違うかもしれない。

何より、このインドからだとヨーロッパや中東への航空券代がとても安く抑えられる。おそらく日本から飛行機に乗った場合の二分の一、三分の一程度だろうか。これがインドという発展途上国で働く、メリットの一つだった。

そう考える僕の気持ちは、もうすでにイスラエルに行くことしか考えてなかった。旅行の事をどうするのか相談するため、もう一度彼女に電話してみると、また切られてしまった。

「明日のチケット、キャンセルするね」

僕はそうメッセージを送ると、さてイスラエルは何があるのか。と検索を始めた。

次回へ続く。

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