10.1 ヨルシカ

最寄り駅に到着して会場に向かう途中から不思議な感覚があった。「俺、席前の方だから顔見えるかも」そんな風に話す集団の横を何度も通った。ライブってこんな感じだっただろうか。わからない。ライブに来るのは数年ぶりだ。入場を済ませ、することもないので席に向かうと、会場内の人はまだらだった。まだ静かな場内で、モニターに映る一輪の白い花に、聞こえてくるそよ風や小川の流れる音に想いを馳せた。

ほとんどの人が会場内に入った頃、近くに座る少なくない人がオペラグラスをぶら下げていることに気づいた。さっきの違和感がよみがえった。ライブってこんな感じだっただろうか。さっきからなんとなく居心地が悪い。

そこでふと、この数年間好きなアーティストのライブはいくつかあったのに、なぜ自分が応募すらしなかったのかを考えた。たしか、最後に行ったライブは、

小説みたいにキリの悪いタイミングでブザーがなり、n-bunaさんが登場して語りを始めた。語りが終わると同時にギターがかき鳴らされ、一曲目が始まった。

あぁ、そうだ。これだ。かき鳴らされた音が、筋肉を、骨を、感情を、一瞬のうちに最高潮に昂らせると同時に、私の中にいくつもの画がフラッシュバックされていた。数年前、最後にアーティストのライブに行った時のものだった。その瞬間、居心地が悪い理由も、ライブになぜか最近行く気になれなかった理由もすべて明確になった。そう、前回に行ったライブはwowakaさんの追悼ライブだ。

二年前の春。約一か月後にライブが迫った頃、wowakaさんの他界を理由にライブはなくなり、その数週間後の発表で、私が持っていたチケットは、ヒトリエのツアーチケットではなくなり、追悼式への参加チケットに変わった。

訃報を受け取った瞬間から回らなくなった頭で行ってよいのか分からなかったけれど、行かなかったら一生回らないままな気がしたので会場に向かった。ライブ自体はとても良いものだった。勝手で無責任なことを言わせてもらえば、wowakaさんも喜んでいたと思う。

しかし、ライブが終わって、楽器の音も響き終わった空間に響き渡る、泣き声や嗚咽。あのライブはファンにwowakaさんの不在を理解させることは出来たけれど、納得させることは出来なかったのだと思う。(もちろん納得させることなんて不可能で、批判の意思は一切ない) 私の脳は回るようになったが、その代わり私の中のどこか一つの感情が死んだか、凍てついたようなそんな感覚が漠然としていた。

suisさんが歌い始めて、数十秒のうちにそのことをすべて思い出し、一番のサビに入る前に私は大号泣していた。周りの人から見れば、変な奴だったと思う。

それでも私は実感していた。死んだと思っていた、凍てついていた心のどこかの部分が息を吹き返した。素直に嬉しかった。視界もクリアになったような気すらした。

そこから終演までは本当にあっという間だった。私がここでどんな誉め言葉を並べても、それは陳腐な修飾語にしかならないので深くは書かないが、楽器に細胞を殴られ、歌声に神経を舐められ、歌詞に心を撫でられ続けた、そんな1時間半だった。

終演後、改札までの道。「suisさんの顔が~」そんな風に話している集団をいくつも見かけた。こんな奴らにまであんな美しい空間を消費されるのは腹立たしい気もするが、こんなものは痛いファンの身勝手な感情だ。それでも、彼らがその濁った眼を必死に凝らして、詰まらせていた耳を後悔すればいいな、とは思う。

内容についても忘れないうちに書けたらいいなと思う。

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