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【美術展鑑賞報告】村上隆 もののけ京都

2024.05.02 村上隆 もののけ京都

2024年GW。京都へ帰省した際にこちらの美術展に訪れた。村上隆さんの個展は初めてだったので興味を持っていたためだ。華やかで派手な作品が多く純粋に楽しめる反面、これらの作品を自分の中でどの様に咀嚼して味わえば良いのかわからず困惑した。しかし、それから2ヶ月近く経って様々な村上隆さんの動画などを見る中で自分の中でこの美術展について上手く咀嚼できてきた。そうすると、一つ一つの作品に愛着が湧きまた行ってみたいなと思える様にまでなった。村上隆さんは真に策士である。

洛中洛外図 岩佐又兵衛rip


まず展示会場に入って目につくのが洛中洛外図 岩佐又兵衛ripである。非常に大きな作品で、非常に細かい描き込みがなされているため観客はその迫力に圧倒されて釘付けになる。そうして、実はこの会場の一番初めの展示作品である大仏オーバルを素通りしていく。しかし、私はこの作品にこそ展示会を貫くコンセプトが隠されていると考える。こちらは英国の伝承童話に登場するハンプティ・ダンプティというキャラクターと日本の現代アニメキャラそして仏像のイメージを掛け合わして作られた作品である。その大きな頭には無数の目がありこちらを見つめている。そして、最も重要なのが後ろの顔である。表側の顔は穏やかな顔をしているけれども、後ろの顔はどうだろうか。烈火の如き怒りの表情なのだ。私はこの世界のあらゆる全てのものの二面性を上手く表現しているのではと思う。穏やかな空は、時に大きく荒れて雷や突風を引き起こす。大地や海も、地震や津波といった形で牙を向く。自然のみならず人々の営みも、一見平和そうに思えたとしても、次の瞬間戦乱の只中に入ることがある。一個人としても、常に穏やかな聖人君主などおらず、その一人の中に穏やかな面と怒り狂う面が共存する。このあらゆる存在に共通するこの二面性を本作は表している。そして、その展示会場での本作の配置場所を考えると、村上隆さんの「ドロドロとした闇や憤怒の思いなど負の感情を原動力として作品を私は生み出しています」という自己表明の様に思えてならない。負の感情を押し殺さずうまく昇華していくことこそこの不条理でカオスな世界に生きる我々にとって大切なことじゃないかという提言に思える。

大仏オーバル(正面)
大仏オーバル(正面の顔アップ)
大仏オーバル(背面の顔アップ)

そして、次は先ほども少し触れた洛中洛外図 岩佐又兵衛ripについてである。こちらの作品は国宝である岩佐又兵衛の洛中洛外図を元に作成された作品である。元絵よりもかなり大きくなっており村上隆さんのキャラクターが所々に潜んでいる。しかしそこはあまり重要ではないと思う。ではどこが重要なのか?それは実は先ほど大仏オーバルで触れたことと同じことなのだ。一つ目は生と死が表裏一体であるということ。華々しく描かれた京都に生きる人々その人々の描写と共に画面には金の雲が描かれている。その金の雲にはよく見ると髑髏のキャラクターが描かれているのだ。元絵も大坂夏の陣の直前の京都の街を描いており、作品の右には豊臣の方広寺が左には徳川の二条城が配置してありその戦火の予感を感じさせているのだ。また京都という街自体が歴史が深く華やかな都という側面と死屍累々たる歴史が共存している街でもある。2点目は、眼差しについてである。元絵と比べ人々の眼差しの描き方が異なる。元絵とは違い本作では眼差しが上空に向かう。より直接的に言えば我々の方に向けられているのだ。一方的に対象を見つめるということは対象を支配することにつながる、しかし眼差しを感じることで相手を自立した存在として認識することができる。あらゆるものに神は宿るというアメミズムはあらゆるものからの眼差しを自覚することに他ならない。西洋の一神教的な世界観は世界をある一点から眼差しそこに交差する眼差しは存在しない。だからこその一点透視図法であり、科学技術の発展があったのではないかと私は思う。この元絵からの眼差しの変更こそが西洋と東洋の世界観の違いを浮かび上がらせるスーパーフラット的変更だと考える。

洛中洛外図 岩佐又兵衛rip (拡大1)
洛中洛外図 岩佐又兵衛rip (拡大2)
洛中洛外図 岩佐又兵衛rip (拡大3)


また、なぜ京都をここまでフューチャーするのかという点について。会場内の村上隆本人による言い訳ペインティングでは盟友である京セラ美術館の高橋さんに依頼され断りきれなかったと赤裸々に書かれているけれども、やはり村上隆さん自身が江戸期の京都の作家に影響を受けているからだろう。また、私としては京都という街/人の二面性の共存性が村上隆さんのスーパーフラットという概念とも共鳴するからだと勝手に考えている。街の歴史のその華やかさと死屍累々についてはすでに触れているので省略する。人の二面性の共存という点で言えば、本音と建前、いけずな京都人といった点だろう。これらは悪く言われがちな京都の文化であるが、限られた土地の中に入り乱れるカオスな街の中で生み出された巧みな他者を慮りつつも自己主張をする文化だと思うのである。受け入れつつ受け入れず、主張せず主張する。ますますカオスになり対立しつつある世界情勢の中、新たなる共生のあり方は京都という文化に眠っているのではないか?と私は思う。自分語りに最終的になったが、この展示でそんなことを考えた。

第二室へ

玄武 京都
青龍 京都
白虎 京都
朱雀 京都

第二室は平安京遷都の理由ともなった四神が東西南北の4面に大迫力に設置された部屋である。中央には京都六角堂を模したモニュメントが鎮座しており、金色の髑髏がそこからキノコ雲の様に蠢く。煌びやかで大きな作品が支配するこの部屋の壁は黒い。この一見真っ黒な壁紙をよく見ると実は髑髏のキャラクターが無数に潜んでいるのだ。第一室では京都に生きる人々を上から覗き込む形だったけれども、第二室では逆に四神に覗き込まれるようになる。キャラクターを覗きキャラクターに覗かれる。それが京都という街なのだ。この部屋の展示についてもう少し深掘りすると、中央の六角堂を模した建造物のモチーフは六角堂だけではなく会津の栄螺堂でもあるという点が非常に重要。栄螺堂がある場所は会津若松市の飯盛山であり、ここはかつて戊辰戦争の際に白虎隊が自刃した場所なのだ。我々の生活はこれまでの多大な犠牲の上に存在している。この上で享楽的で空虚な資本主義を皮肉っているDOB君などを見つめるとまた一層味わいが深くなる。また、もう一点言うとすれば、白虎の図には数えると14匹の虎が描かれている。14という数字は同じく戊辰戦争時に二本松城の戦いで亡くなった二本松少年隊の死者数なのである。災害や戦争などが続く今の世界の見つめ方を今一度考える機会をくれる。いつの世界も犠牲になるのは弱き者たちである。昔も今も変わりはしない。トレーディングカードやふるさと納税を活用して美術展費を確保する村上隆さんは一部からは守銭奴など酷いことを言われているが、本展を学生(大学生以下)に対しては入場無料にしているところにも目を向けるべきである。

中央の六角堂モチーフのモニュメント


最後にこの展示会の看板作品である、金色の空の夏のお花畑に潜む泣いているお花のことを考えながら振り返りを終わろう。

金色の空の夏のお花畑(拡大)

喜びも悲しみも怒りも苦しみもすべて同じ世界に存在する。対立概念の表裏一体性という意味でのスーパーフラット。悲喜交々さまざまな歴史が十二単の様に重なるこの京都という街で開催される村上隆展は何度も足を運ぶだけの価値がある。

皆さんもぜひ。

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