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大阪府からしか入れない和歌山県の集落 『境谷集落』に行ってみた

こんにちは。おやしらずといいます。
僕は休日に原付で地図を見ずにプラプラと数十キロほど走る 所謂「お散歩ツーリング」をよくやるんですが、今回はそんなお散歩ツーリングをしていた時に迷い込んだ謎の集落についてのお話です。


さて、お話は数ヶ月前に遡ります。
いつものように原付に飛びのった僕は、泉南市からとりあえず男里川沿いにビーノを走らせました。

普段であればJR和泉砂川駅周辺を経て山中渓、雄ノ山峠を超えて和歌山県岩出市に至るコースです。

特に山道にこだわりが無ければ普通は新風吹トンネルのある府道(和歌山は県道)63号線を通るのが一般的ですが、トンネルが長く交通量も多いため、原付の侵入は禁じられています。

原付で63号線が通れない以上、大阪府岬町までぐるっと回るか、雄ノ山峠を通る険しい府道64号線へ迂回するほか道はありません。(国道26号線も原付通行不可です)

しかし

土砂崩れの為通行止めになっていた雄ノ山峠

普通に通行止めでした。
63号線を原付が通行できない以上、原付ユーザーは64号線か岬大回りしか方法がないところを、64号線まで塞がれてしまっては かなり長距離を迂回する岬コースしかありません。

しかし横浜市神奈川区生まれの僕は諦めません。この看板の脇を通り、突き進みました。
まぁ結果は普通に警備のおじ様に突き返されましたが
「いや、危ないから帰りなさい」
はい…

そこでしおしおと帰ろうとした矢先、何やら道が見えました。

←岩出市 境谷 0.8kmの表記

岩出市境谷?

初めて聞く地名です。
まぁ大阪府ですら1年くらいしか住んでないんですけど…

とにかく気になった方へ走るのがお散歩ツーリング。僕はそのまま進んでみることにしました。

ここがギリギリ和歌山県では無い事を示す看板

境谷方面へ曲がれる交差点を過ぎてから気付きましたが、交差点の位置はギリギリ大阪府。和歌山県の1地区である岩出市境谷へは大阪府からしかアクセスできないことになります。なんとも奇妙な話です。多分舗装のないガチの山道とか歩けば行ける

割と深い山の中にしてはある程度管理された道を走っていくこと数分。

境谷地区の入口
入口近くの石垣

なんかめっちゃ山奥なのに集落があんだけど?!

しかもただの田舎の村というわけでもなく、谷の一部に集中して家屋が立ち並んでいます。
家屋の外観も瓦作りの古民家といった風体で、築100〜150年くらいの建物と言われても遜色ないほど歴史を感じさせるものばかり。

普通山の中の集落って

大阪府 泉南市 伊達童子地区

こんな感じで、ある程度開けた平らな土地に田んぼがあったり、段々畑があったりして、ある程度明確に山間部切り開いて農地ドーン!家屋ちょっとまばら!みたいな場所が多いイメージがありますが、 この境谷地区は入口に少し畑があるのみで、ほとんど農地の類が見当たりません。

その割には神社や寺、薬師堂や後で調べたところ修験道の修業場があったり、更に近くには塞の神と呼ばれる道祖神信仰の碑があったかと思えば普通にお地蔵さんが居たり、何を祀っているのかすら分からない祠があったりとなんか宗教観がごちゃ混ぜな上に主要産業が謎という集落でした。

これは詳しく調べるしかない!と思い立ったものの、仕事が忙しく、また境谷の属する岩出市に手掛かりを求めて岩出市立岩出市民俗資料館へ資料がないか確認しようにも 土砂崩れの為岬回りでしか岩出市へ行く術がなく、中々手が出ない状況でした。

再訪

季節は巡り、最初に訪れた時は春だったのがいつの間にか秋になってしまいました。
そして

通行止めが一部車両を除き解除になっている
片側一方通行が解除されている

半年も経てば流石に土砂崩れの道も開通していました。 作業された方々には感謝ですね。

という事で再訪が叶った訳ですが、前回迷い込んだ時は日暮れが近かったこともあり、あまり満足に集落を歩くことが出来なかったため、今回は昼頃に訪れてみました。


(人の少ない集落や土地へ行く際、農地や牧場に絶対に近付かない、廃墟や家屋には絶対に入らない。を徹底してください。また、すれ違った住民の方へは挨拶をするようにしましょう)

山奥にしてはちゃんとした道を進む
到着。瓦葺の屋根が立ち並ぶ。
石垣も健在

半年ぶりですが、景色は変わらず 立派な家屋が立ち並ぶ集落です。
今回は前回行けなかった 地蔵寺、神社を抑えておきたいな、あと住民の方とお話してみたいな…!と思いながら 原付を降りて歩きます。

何かが祀られた祠と井戸

集落の中心辺りに祠がありました。
何が祀られているかは分かりませんでしたが、写真を撮らせて頂く手前 一応手を合わせて頭を下げておきます。

地蔵寺。集落で一番高い所にある。
寺へ続く坂

この時期 この地域は野生化した(?)彼岸花が至る所で咲いています。
キツめの坂を登っていくと、地蔵寺に着きました。

地蔵寺

坂を登り終えると、そこには下から見えた寺の建物の他、かなりの数の墓石が並んでいました。
写真は撮りませんでしたが、山の法面に二段の整地がされており、下の階層には集落の方の一般的なお墓が、上の階層には陸軍や海軍の階級の文字が見えたので、戦死された方のお墓があるようでした。墓地の面積の割に、上の段はかなり墓石の数が多い印象を受けました。

中でもいちばん大きなお墓には 「故陸軍中尉勲六等功五級」の文字が掘ってありました。戦時中にはこの集落からもかなりの人数が戦地へと向かった様です。

地蔵寺からの景色。集落が一望できる。

ひとまず地蔵尊に手を合わせ、坂を降ります。

集落の中央を通る水路
横向きに生える彼岸花

集落は所狭しと家屋が建っていますが、だからといって一軒一軒の坪数が少ない訳ではなく、名前に谷が着く通り 山に囲まれた谷をめいいっぱい使った集落という感じです。道はかなり狭いので車での移動は不可能かと思われます。

大字(おおあざ)境谷と読める

少し戻って集落の入口付近には集会所とその駐車場があります。
駐車場に原付を止めようと思い入ってみると、こんな看板を見つけました。

大字(おおあざ)と言えば1889年(明治22年)の町村制施行で合併された村にみられる文言ですね。
例えばA村とB村が合併してA村になった際、B村の土地は「A村 大字B」という地名になるケースが多かったようで、この境谷集落も他の村と合併して大字境谷と呼ばれた時期があったのでしょうか。

那賀郡青少年補導センターと書かれた看板

さらに見て回っていると少し面白いものを発見しました。
看板にある『和歌山県那賀郡』という表記ですが、和歌山県那賀郡は現在は存在しておらず、2006年(平成18年)に現在の岩出市が市制を開始したことで消滅しています。

試しにその場でインターネットで調べてみると、1889年(明治22年)に町村制が施行された事で、この境谷地区は山崎村(やまさきむら)という村に含まれたようです。上記の看板にあった『大字(おおあざ)境谷』という地名はこれ以降のものでしょう。

その後1896~1897年(明治30年)に郡が再編されると、山崎村もここに編入されます。
1956年(昭和31年)には上岩出村や根来村などと共に併合。岩出町に含まれます。
そして上記の通り2006年(平成18年)に那賀郡は消滅、岩出市となります。

少し話が逸れましたね。この看板は2006年の那賀郡消滅以前に設置されたものというのが分かりました。更に言えば、岩出町教育委員会の「岩手町」の部分に修正された形跡があるので、1956年の山崎村と岩出町の合併より前に設置された可能性があります。とすると最短でも68年モノ…?そんなわきゃないか…
或いは看板を作った担当者がうっかり昔の名前の文字を入れてしまったか…
真偽は謎ですが、看板を見るだけでここまでの情報が得られると嬉しいですね。
地名の変移が分かりやすい資料があれば良かったのですが、インターネットでは見つけられませんでした。

日吉神社

次は神社へ。
Googleマップのクチコミでは村の鎮守とあります。詳しいことはよく分かりませんでしたが、建物を見る限りかなりの歴史があるように見受けられます。蜘蛛の巣がめっちゃありました

階段と社の中心がかなりずれている
摂社。劣化が進んでいる。

Googleマップにある6年前(2018年頃)の写真を見ると摂社の屋根は健在のようですが、僕が訪れた2024年10月の段階ではかなりのダメージが見受けられました。

階段を登ったところなので、住民による手入れが難しいのかもしれません。

日吉神社の景色 左手前の建物は集会所


階段を降りていると、公園のようなものがありました。遊具はあるものの子どもの姿は見えません。

公園


さて、そろそろ次の目的地へ向かいます。
最後に集落の入口にある薬師堂を拝んだら出発です。

薬師堂。薬師如来を祀っている

集落を出てすぐの所に、盆地のようになっている場所があります。もしかすると元々はこの辺りが集落の農地だったのかも知れません。

盆地 明らかに土地が低く低木しか生えていない
石垣のようなもの

資料探しへ

境谷集落を後にした僕はそのまま府道(県道)64号線を南下。めちゃくちゃカーブと傾斜が激しいです。

土砂崩れによる片側交互通行の信号
土砂崩れにより片側1車線が潰れている
ひたすら走る

土砂崩れの跡が色濃く残る山道を走り抜けたら、ひたすら走ります。

谷 Tani

余談ですが、和歌山県には信じられないくらい雑な地名がたまにあります。 谷とか 山とか

山肌にソーラーパネルが見える

走っていると視界にチラチラと光が反射してきます。 山には最近ソーラーパネルの設置がよく見られる様になりました。
木を切っての設置になるので、木の根が支えている土砂が崩れやすくなり、土砂崩れの原因になったりしているらしいです。まぁ使いようのない山を発電に役立てたい地主の気持ちも分からんでもないけど…

岩出市民俗資料館

なんやかんやで岩出市民俗資料館へ到着。
かの有名な根来寺(豊臣秀吉に討ち焼かれたりしている)のすぐ側にあるので、民俗資料館とは言っても展示物は根来寺関連ばかりであんまり期待出来ないかな…と思っていましたが、

岩出市の史跡マップ

民俗資料館としてはかなり満足度の行く展示でした。縄文、弥生、古墳時代の展示も数多く、今回調べたかった「宗教ごちゃごちゃなめちゃ狭集落」についての資料はほぼありませんでしたが、めっちゃ面白かったです。

特に根来寺のエピソードだと、高野山との対立でめっちゃ揉めた話とか、
戦国末期に豊臣軍と戦ってる時、根来寺の僧兵を岸和田の辺りで全て破った豊臣秀吉が遂に根来寺に攻め入ったら もう誰も居なくて 「じゃあ焼くだけ焼いとくか…」と貴重な文化遺産を焼いちゃった話とか、他にも色んなエピソードがあってめっちゃ面白かったです。

いやいや、
別に僕だってただ遊びに行った訳じゃなくて、ちゃんと資料探したんですけど、流石に現存の集落についての資料まではなかったです。
インターネット上で検索すると何件か記事がヒットする(神秘的、大阪からしか行けない等)程度には有名な境谷集落ですが、詳しく調べようとする人は少ないのか、情報に乏しいようです。

国土地理院地図

宗教観ごちゃまぜは置いておいて、謎だった主要産業について調べてみます。集落である以上は食料を調達するための農地、あるいは何かしらの産業があるはずです。

便利なもので、国土交通省のウェブサイト内にある地理院地図サービスでは 年代別の空撮写真を閲覧することができます。
和泉山脈の山深いところ、と言うのもあり、空撮が行われていない年も多いようでしたが、せっかくなので書き残しておきます。

現在の境谷集落

2021年頃の境谷集落

訪問した際には気付きませんでしたが、集落の奥に進むと川沿いに農地があることが分かります。(黄円)
集落入口の石垣のあった盆地(低地?)は2024年現在とそう変わらない様子です。木が生い茂り、ズームしてみてもよく分かりません。

1960年代の境谷集落

1960年代の境谷集落

国土地理院地図サービスで閲覧可能な一番古い境谷集落の空撮写真が1960年代のものです。

時代は高度経済成長期。現在は木が生い茂って森にしか見えない、集落の北部に田畑が見えますね。肝心の石垣のあった盆地(?)は…

集落入口の石垣が見えた低地

これは…!! 明らかに田んぼのように見えます。
やはりかつての農地、という予想は当たっていたようです。

1970年代後半の境谷集落

1976年~1978年頃の境谷集落

時代は1973年に発生したオイルショックにより、高度経済成長期が終焉した数年後。

人口のデータでもあれば集落の様子がもう少し分かりやすいのですが、この頃は全国各地で人口が三大都市圏に流れ込んだ後(もしくは最中)という事もあり、少なからずこの境谷集落でも人口は減少傾向にあるはずです。

空撮写真で見る限りでは家屋の明らかな減少や農地の放棄なども見られないため、1960年代と比較するとあまり変わりないようにも見えますが、この頃境谷集落が属していた山崎村の山崎小学校(現存)のウェブサイトを見ると、『昭和46年(1971) 境谷分校を廃止』とあります。

子育て世代の都市部への流入による地方の衰退…という時代背景からの予想にはなりますが、分校が廃止される程度には若い世代が減っていたことが分かります。

集落入口の低地

ちなみに集落入口の低地改め農地はまだ現役です。

2008年の境谷集落

2008年の境谷集落

時代は約30年後。かなり飛んでいますが、何故この30年間の空撮写真が閲覧できないのかは不明です。どうした国土地理院。

30年あれば赤ちゃんだって立派なおっさn…もとい、立派な大人になります。そのくらいの時間が流れた訳です。
この境谷集落にとっても30年という時代の流れは凄まじかったようで、1970年代後半に見られた北部の農地は森林と化しています。
また、この30年で家屋の増減が見られます。と言っても数は数軒に留まるため、都市圏の住宅街と比較すると驚くべき変化のなさです。

集落入口の農地

集落入口の農地は大部分が放置されてしまったようです。拡大してみると少しだけ畑のようなものが見えるので、2008年時点では完全に放棄された訳では無いようです。

2021年〜現在の境谷集落

2021年の境谷集落

ここでもう一度現在の様子を見てみましょう。
先程の2008年の写真から約10年後。集落自体は2008年から特に変わりなく、変化は集落入口にある薬師堂の辺りに倉庫のような建物が建てられたり、集落の家屋が建て替えられたりしているくらいのようです。

2024年10月現在のGoogleマップの衛生写真


2008年時点では辛うじて利用が見られた集落入口の農地ですが、そこから10年以上が経ち、冒頭で僕が見た通り、人に使われていた形跡はあるものの、ただ低木や草木が生い茂る謎の低地となってしまったようです。

土地の持ち主が農業を続けられなくなり、耕作放棄地となってしまったのだとは思いますが、土地の登記簿まで確認した訳ではないので、詳しい事は不明です。

考察

微量ながら情報っぽいものがあったので、後発の研究者(居ればですが)に伝えたい情報としては、ただの山間部の集落と言うだけではなく、修験道の修行場としての側面や、街道上にある集落としての価値があったのでは無いか。というのが僕の考えです。

修験道の修行場としての側面について述べます。
境谷集落の入口に当たる府道64号線の分岐近く
には「さくら地蔵」と呼ばれる史跡がありますが、

https://maps.app.goo.gl/LH8r1sBfGNaXsDMF7?g_st=com.google.maps.preview.copy

この史跡、調べてみると飛鳥時代の修験道の開祖 "役小角"が大乗仏教の法華経八巻二十八品を埋納した経塚の1つらしく、確かにさくら地蔵の看板には「葛城二十八宿 第四番経塚」との表記があります。
これについては阪和高速が建設された際に移設された、との情報がインターネット上で散見されるので確定ではありませんが(どこから誰の手で移設されたか不明であるため)、ある程度の至近距離と考えれば、近くの集落である境谷集落へもかなりの数の行者の訪問があった可能性はあると考えれます。

また、街道上の集落と書きましたが、雄ノ山峠は熊野古道、南海道、紀州街道などの名だたる街道に重複する箇所であり、古代から今日に至るまで重要な道として扱われてきました。
境谷集落はこの街道に非常に近い位置にあり、交易の中心とは行かないまでも、和泉山脈を超えるあと一歩の位置。熊野参りや参勤交代の休憩地としての側面があってもおかしくはないと考えることが出来ます。

また、産業については他の集落と同じく農業や狩猟が主なものだったのでは無いかと思います。
時代の流れによってそのほとんどが森に飲まれたとはいえ、半世紀前の写真には数多くの農地が写っていました。狭い範囲にぎゅうぎゅうに家屋が立ち並ぶ光景も、山に挟まれた谷で有効に土地を使い、少ない平地で食料を生産するための術だったのではないでしょうか。

行政区分としての境谷村が消えてから135年。地名は未だ残り、住民もまだ数多く住んでいるものの、その歴史について詳しく知ることは叶いませんでした。
本当は境谷の地名の由来とか知りたかったです。谷は分かるとして境はなんの境だったんだ。国の境?それとも……?

独自でまとめた町史が存在しているかすら分からないのは非常に悔しく、せっかく迷い込んだのに調査の結果は芳しくありませんでした。
情報を小出しするだけして「よく分かりませんでした」で締めるの、まるでアフィカスのまとめサイト かのようです。こんな終わり方になってしまって申し訳ないです。

調査は一旦終えることにしますが、情報をお持ちの方、調査に興味がある方など居ればぜひ連絡お願いします。次の狙い目は岩出市立岩出図書館です。


おまけ

ねごろ歴史資料館 資料の保存についての展示がアツい
道の駅 ねごろ歴史の丘のソフトクリーム うまかった


産廃汚染液の川へ?(岩出市)


岩出市公式ウェブサイトの記載
ちょっと無理があるだろ



出典

岩出市民俗資料館 展示
岩出市民俗資料館 公式ウェブサイト

国土交通省国土地理院ウェブサイト 地図・空中写真閲覧サービス


岩出市立山崎小学校ウェブサイト 「山崎小学校の歴史」


阪南市公式ウェブサイト「葛城修験道とさくら地蔵」

泉南市観光ウェブサイト


Wikipedia 「岩出市」「修験道」「那賀郡」

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