人生をひとことで
先日思わず失礼なツイートをしました。
オモコロライターのARuFaさんが中学生から続けている「ARuFaの日記」、21歳のARuFaさんが読者の質問に答える回をたまたま読みました。
「ARuFaの日記」は読んだことはありますが、ちょいちょいつまみ食いしてるだけで、系統立てては読んでません。
内容は8年以上も前、たぶん大学生のARuFaさん。ブログの読者からの質問に答えるという内容で、現在のARuFaさんから見ると隙だらけでいかにも元気な大学生の兄ちゃんといった感じ。
最後の質問が、“貴方にとって『人生』とは如何(いか)に。”
それに対してARuFaさんの答えは、
「共有」するものです!
え、“共有”……?
共有といえば……駐車場・病院の待合室・喫煙所・雑居ビルのトイレ・アパートのポスト前などの共有スペースのイメージがまず浮かびました。
不特定多数が行ったり来たりするイメージが突きつけられ、人生というのは人間の生きる道筋のことだとなんとなく解釈していた私は、人間が非人間的な「空間」に例えられたと思い、その違和感にビビってしまったのだと思います。
そして、現在、ARuFaさんは確かにひとことで言えば自分を「共有」させるという、全くその通りの活動をしていると気づいて更にぞくぞくとしました。
現実に、完全に、ARuFaさんは「共有」の人生を歩いているではないですか。21歳の時に既に見えていたのか? このスタイルを?
……。
私も度々RTしながら、ARuFaさんを共有してきました。加担していました。
自分を共有させるという思想は、一般人にはなかなかない発想だと思いました。博愛、無私、奉仕……といったワードが類語として周辺にあるように思える、でも、それらとは明らかに異質でもある。
なんとなく思い出したのがよしながふみ先生の「愛すべき娘たち」。
個人的にめちゃくちゃ怖い本だったので、1~2回しか読んでいませんが、非常に印象深い作品です。
調べてみると、3話の若林莢子ですね。この人を思い出していました。
父親の影響で人を平等にしか愛せない女性です。そういえば、ARuFaさんに何度会っても、心の応接間にしか通してもらえないという話を聞いたときにも、同じように彼女を思い出したことがありました。
(いつ会っても、何度あっても、人をもてなしするテンションで迎えられるという意味に解釈)。
不特定多数とのシェアの拡大というスノッブな価値観に邁進する姿に、平等・博愛といったものを重ねて見ているのはおかしな話ですが、ARuFaさんの周到な準備と段取りを見ていると、妙に納得させられてしまう自分がいます。
なんだかんだ書きましたが、純粋にファンです。これからもばんばん応援したい(RTしたい)と思います。
ねんどろいどが出たら、2体買おうと思っています。出してほしいなあ。31歳の誕生日とかに……。
以上おわり。