中国・浙江省のおもいでvol,18
『変身』
お香を焚いているような心地よい薫りが鼻をくすぐって目が覚めた。ポコポコと沸かし終わったポットが次第に音を弱めてゆき、コップにトポトポとお湯が注がれてゆく音が部屋にばらまかれてやがて消える。起き上がってみるとシーが机の上でそれらの作業を優雅にこなしていた。
「おはよう。きみはあれかい?ナポレオンかい。全然寝なくて平気だと見た。」
起き抜けのまだハッキリしない他人に対しても、ズバズバと切り込んでくる彼女の人柄はまあ嫌いではない。
「おはようシーシャオジエ(シャオジエは中国語で女性の敬称)。本当ならアインシュタインくらいは寝てたいんだけどね」
朝からコッテリとした悪ふざけな会話が繰り広げられる。中国へ来てから、不思議と気を使わずに人と喋れるようになっていることに、話してからビックリとする。二人してクスクスと笑いながらお茶を飲んだ。ほのかに甘い緑茶で渋みはなかった。
「フェイは朝にすこぶる弱いのよ。だから前もって私に女子寮から安全に連れ出してくれって頼まれてるわけ。」
ホントにありがとうと礼を述べると、それじゃあ早速といった感じでシーが自分の衣装ケースをゴソゴソやり始めた。すぐに丈長の黒いダッフルコートを見つけて机に放り投げた。「何をしているの」と尋ねると「いいから座ってて」と返ってくる。今度はポーチと手鏡をもって机に広げた。
「いい?セキュリティーはかなり甘めの寮だけど、ばれたら退学なんてことになりかねないのよ。あんたは日本に帰ればそれで済む話だけど、あんたを連れてきたフェイはかなり不味いというわけ」
まだ理解できずにキョトンしてるぼくは、黒の目元まで隠れる大きめのカラスマスクをつけられ、その上からアイシャドウが引かれてゆく。「目をつぶってないと痛いよ」と言われ、必死に目を閉じていた。
鼻の上あたりにひんやりとした鉄の感触を感じた次の瞬間、まつ毛もろとも目の上部が引っ張られて「痛っ」と声をあげてしまった。もういいよと言われて目を開けると鏡の中にキランキランになった自分の顔(上半分)があった。すぐさまニット帽をかぶせられ、即席の中国人女学生が誕生する。
「いいねー!なかなか似合ってるよ。君背が低いから誰も男だとは疑わないだろうさ」
ショックと新鮮な驚きが半々で笑うことしかできない。そんな僕を尻目にシーはパシャパシャとスマホで写真を取っている。「退学」という脅しも周到な前置きで、シーの悪ふざけに口を挟ませない手段としか思えなかったが後の祭りだ。ダッフルコートを着込むと「完成」とシーが満足げにうなづく。
「さぁいこう!」
出発進行!と言わんばかりに思い切り部屋のドアを開けると、ぼくの腕をロックして引きづるようにしてエレベーターへ乗り込んだ。
「おはようシー、フェイは風邪でも引いたの?」
と、周りに聞かれてもシーはお構いなしにでたらめなことを吹聴している。1階に降り立ち寮監の前へ差し掛かると再び
「シー、きみに荷物が届いてるよ。フェイは風邪引きかい?」
呼び止められ、心臓の止まる思いをした。シーはケロッとして
「そうなんですよ。この子腹出して寝てたもんですから。いまから、医務室で見てもらってきます。ね?」
急に振られて、ぼくは、寮監と目が合わないように、うんうんと頷いた。
「そうかい、じゃあ帰ってきたときにでも荷物を持って行っておくれ。フェイちゃんもお大事にな」
人のよさそうな寮監をだますのは気が引けたが、ばれるかもという恐怖の方が遥かに勝った。
寮の敷地から抜け、南門あたりまでくるとシーが吹き出す。
「大成功じゃないの!にしても君のうろたえぶりは面白かった。フェイに伝えてあげなくちゃ」
と、しばらく笑いが止まらなかった。
「また遊びにおいでね。今度はもっとかわいくしてあげるから。」
そう言うとサッと踵を返してシーは行ってしまった「待って、服と帽子は?」と言いかけたがへとへとで声も出なかった。あっけに囚われるのも束の間、誰かに何か言われる前に帰ろうと自分のホテルにむかって歩き出した。
辺りは穏やかな日曜日に戻っていた。(「中国・浙江省のおもいでvol,18」『変身』)
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