悲しい事件に思う 〜“悲惨”の二字をなくしたい~
昨日、ウチの母が作ってくれたナポリタン🍝を食べながら観たワイドショーで、悲しい事件が取り上げられていました。
それは、中学3年生の女の子が、道端で人を刺してしまった事件。命は助かったみたいでよかった😭
(なるべく生々しい表現は書かないようにしますが、苦手な人は閉じてくださいね🙏)
ちょっと暗いテーマですが、僕自身とても考えさせられて、noteを書いています。
最後は希望に変えていきたい❗️お付き合いいただければ嬉しいです🙇♂️
女の子の動機
その彼女は、母親が好きでなく、その母親に似てきた自分も嫌いになり、母と弟と一緒に死のうと思っていたそう。
その予行演習として、道端の人を刺してしまったと。
悲しくて悲しくて、こうなる前にその女の子の近くで、話を聞いてあげらていたら、、と思う😖
もしかしたら僕の近くにも、そういう寂しい思いをしている人がいるかもしれない。たくさんの人に声をかけていこうって思います💡
この事件に解決法はあるか?
ワイドショーでは、コメンテーターたちが深い議論を交わしていました。
「家庭で悩む子どものための相談所やシェルターは行政でつくられていても、機能していない?」
↓
「犯行した子どもよりも、その親や家族に問題があるのでは?」
↓
「そういった親・大人たちが、幸せを感じれる社会、豊かになれる社会ってどうしたらつくれるのか。根本的な話なので、解決法とかは無いと思うが、、」
僕も同感です。「不幸な家庭を救える社会」も、「すべての大人が幸福を感じられる社会」も、国や自治体がつくれる訳じゃない。行政上で解決できる問題じゃない。
誰もが望む理想があっても、誰もそこへのアプローチは知らない。
苦しむ家族を救えるとしたら
そもそもこの事件は、「家族の幸・不幸」の問題だと思います。(幸せの定義は難しいですが、家族で悩んでいるというケースは決して少なくないと思います)
「家族」という領域には、政治や社会福祉も、なかなか入り込んでいけない。
しかし。
この難問に対し、僕は「創価学会の信心」こそが、希望の光になるんじゃないかと思うんです🤔✨
もし、苦しみのどん底にいる家族に「信心」があれば。
誰が助けてくれなくても、どんなに辛くても、1つできることがある。歯を食いしばって幸福を目指して、祈ること。
その時、人間の生命に“仏性”という根源のエネルギーが湧き、蘇生のドラマの第一歩を踏み出せるのではないでしょうか。🍀✨
または、その家族の地域に、信心している“お節介”なご近所さんがいたら。
声を掛け、話を聞き、同じように苦しみ、添え木のように支え続け、
共に幸福を目指して歩んでいけるのではないでしょうか。🤝✨
(↑この祈りの力や、学会員のお節介=慈悲の心は、今回のnoteでは書ききれないので、信心されていない方にはわからないかもしれません。
が、学会員さんはめちゃくちゃわかってくださると思います☺️)
苦しんでいる家族を救えるとしたら、それは他の何ものでもない、創価学会の信心しかない‼️と僕は確信しています👍
今の世の中、宗教に対して風当たりが強かろうが、胸を張って「良いものは良い‼️」って宣言していきたいと思っています😤✨
創価学会の歩む道
第二代会長・戸田先生は、終戦後一人、学会の再建に立ち上がり、
「この世から“悲惨”に二字をなくしたい」
と叫ばれました。
世界を包み込むほどの人間の器、カッコよすぎます🥹🌍(そんな軽い言葉で形容しちゃいけないですよね)
師匠が示してくださったその幸福と平和への道を
さらに前へ前へと歩んでいくのは、僕たち学会の青年部です🙋♀️🙋♂️
僕は、たくさんの人と自ら関わっていこうとするアクティブな学会活動の中で、
もし不幸に泣く家族がいれば、手を差し伸べられるような、“お節介”な人生を歩んでいきます🚲✨
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました🫶
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