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『㥯 《オン》(すぐそこにある闇)』第一節

  『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』     八木商店著

 

第一節

 

夕立は肌にまとわりつく湿った空気を残してどこかへ消えた。先刻まで吹いていた風は午前零時を境にぱたりと止んだ。暑さは虫や小さな生き物たちの鳴き声すらも奪った。エアコンの室外機の無機質なうなり声がやけに耳につく。ふと耳を澄ますと何処からともなくドアを激しく打ちつける音。

 

 ドンドンドンッ!

 

ただでさえ夏の夜は寝苦しい。こんな夜更けに一体何事だろう?

「加藤さん!」

 

 ドンドンドンッ!

 

「大家の山田ですけど、いらっしゃるんでしょ!」

 

 ドンドンドンッ!

 

今年七二才の山田よねは、松山市のほぼ中央に位置する城山の北側で、大学生を相手にアパートの大家として、この一五年間何も変わらない毎日を過ごしていた。東雲荘はよねが亡くなった夫から受け継いだ唯一金を生む財産だった。築三〇年木造二階建ての古いアパートは、一階に三部屋と二階に四部屋があり、一階の玄関を入ったすぐのところに共同トイレが設けられ風呂はなかった。周囲は目新しいワンルームマンションが墓石のように立ち並んでいる。そこの二階からは幾ら背伸びをしても松山城の天守閣は見えなかった。

八月に入って間もないこの日、よねが二階の角部屋の加藤の部屋のドアをけたたましく打ち鳴らすのには理由があった。大学は既に夏休みに入っていた。例年、夏休みにこの古いアパートに学生が残っていることはない。多くの者が帰省して部屋を空けていた。加藤は昨年は夏休みがはじまったとほぼ同時に新居浜の実家に帰省した。しかし、今年は帰らなかった。奇妙なことに彼は風通しの悪い角部屋に閉じこもったきり、外に出る気配すらなかった。大学が休みの期間はアパートは人の気配は消え、静けさが代わりに支配する。しかし、加藤の部屋から静けさが聞こえることはなかった。

 

 ドンドンドンッ!

 

「加藤さん! 今何時だと思ってるんです。夜中の一時ですよ! こんな夜中に狭いアパートを走り回るなんて非常識じゃありませんか! ご近所からもね、相当苦情がきてんですよ! お友達を招くなとはいいませんが、もうちょっと考えて下さらないと。あなたももういい大人なんですから!」

 

この日は朝からよねは気分が悪かった。この日、彼女を起したのは一本の苦情の電話だった。電話を切られた後も立て続けに玄関のドアベルが鳴った。よねは一人ひとりに丁重に詫びた。苦情の内容は一様に同じだった。夜中、アパートから大きな話し声がするという。それだけでなく板を打ち付けるような荒々しい騒音は、アパートを取り巻く近隣の家々の地面を伝って振動させた。恐縮して詫びるよねの脳裏に、この苦情を生んだ張本人の顔が過ぎった。この夏、アパートに残っているのは一人しかいなかったからだ。

 

「加藤さん!」

 

もう一度ノックしようとしたときだった。ギィーッという錆びた金具が擦れる不快な音がしたかと思うと、ドアが少し開き、濃い影を溜めた加藤の顔がヌッと覗いた。その瞬間よねは息を飲んで後退りした。廊下のおぼつかない裸電球の明かりが加藤の部屋にスゥーッと吸い込まれていった。すると明かりを灯さない四畳半の部屋がおぼろげに浮かび上がった。

 

「大家さん、今晩は。僕の部屋には僕の他には誰もいませんよ」

 

薄明かりの中、濃い影を落とした加藤の彫りの深い顔が不気味な笑みで囁いた。よねは奇妙に思った。彼女が知る加藤は決して彫りの深い顔立ちではなかった。むしろぽっちゃりとして頬に張りがあった。恐いもの見たさだろうか、意識せずとも開いた目がドアの隙間から部屋の中を覗き見ようとせがむ。確かに人の気配は感じられない。しかし、何か異様な雰囲気が漂っているように思えた。次の瞬間、開いたドアから加藤の体臭と生ゴミの腐った匂いがよねの顔に当った。

 

「く、くさい!」

 

瞬時に掌で鼻孔を塞いだ。

何なのこの匂い!

その匂いを嗅いだ瞬間、加藤に部屋を貸したことを後悔したと同時に、普段の加藤の生活が嫌な風に想像された。よねはおもむろに鼻と口を掌で覆い、顰め面で加藤を睨みつけた。そのときガサガサガサッと大きめの虫が、床を素早く過ぎったような音が部屋の中でした。瞬間的に心臓が一拍鼓動を打つのを躊躇ったのがわかった。

な、何、今の音! ゴキブリ?

 

「まさかゴキブリが湧いてるんじゃないでしょうね!」

「ここ、古いから湧いててもおかしくないですよ。フフフ」

 

加藤の不気味な笑みにさっと血の気が退いた。

 

「ご心配なく。ゴキブリは湧かないように毎日駆除してますから、この部屋にいるのは屍骸ばかりですよ。フフフ」

 

ゴミ捨て場のような匂いと加藤の不気味な笑み、それに加えて深夜一時の薄明かりの古い木造アパートが、よねに暑い夏の夜ならではの触れてはならない幻影を想像させた。

 

「じゃあ、い、今のは何なのよ! 虫じゃなかったとしたら!」

 

よねは不安を掃うかのように大声で問いただした。

 

「風ですよ。風。大家さんは僕を信じてくれないんですか? ほら、部屋の中をよく見て下さい」

 

静かな口調で加藤はそう言うと、部屋の天井に吊るされた裸電球に手を伸ばした。暗闇は一瞬にしてパッと白光の降り注ぐ明るい世界へと変わった。そるとそこに別人のようにやせ細った加藤が微笑んで立っていた。決して健康とは言えないその容姿。日に焼けていない皮膚の上で静脈の青い筋が蔦のような模様を描いている。青白く明りを照り返す額は皮膚を一枚めくれば固い頭蓋骨が現れることを容易に連想させた。加藤はまるで死を待つ病人のようだった。

よねはドアの隙間から恐る恐る首を伸ばし、まじまじと部屋の中を見渡した。不思議なことに加藤の他に誰かがいた痕跡すら見えない。意外にも部屋は綺麗に整頓され、異臭を放ったであろうゴミの山すら何処にも見当たらなかった。

 

「あら、ほんとだわ。誰もいないわねぇ?」

 

そう声に出してみたものの、疑惑が晴れたわけではなかった。そのとき、開け放たれた窓から風が迷い込み、畳の上を這うように長いレースのカーテンを大きくたなびかせた。

あの音は風だったのかしら? 家からここにくるまで、風はまったくなかったわ。あの風は一体?

風に揺れたカーテンが開いた本やノートに引っ掛かり、ガサガサと虫の這う音を立てている。確かにさっき聞こえた音のようにも聞こえるがどこかちがうような気がしないでもない。

 

「ね、ただの風の仕業だったでしょ」

「え、ええ」

「いつも僕は静かにしてますよ」

「本当に? 間違いない?」

「ええ」

「じゃあ、あの苦情は何だったのかしらねぇ…? 騒音はうちじゃなかったとしたら一体どこだったんだろうねぇ?」

 

よねは首を傾げて加藤に訊ねた。

 

「僕はいつも早く寝ますからわかりません。今も寝ていました。奇妙ですねぇ…? 僕は騒音で目覚めたことはありませんよ。ねぇ?」

 

加藤は含み笑いを浮かべてそう言うと、一瞬部屋の中を振り返って何かに微笑みかける仕種を見せた。そしてゆっくり首をひねり、よねの瞳に映った自分をじっと見つめた。

吸い寄せられるような加藤の眼差しに、よねは本能的に恐怖を覚えた。なぜだかここにこれ以上いてはいけないと感じた。

 

「そう。夜分お休みのところごめんなさいね」

 

そういって一礼すると、すぐさま部屋を後にした。

部屋を離れながら後ろ目に加藤の部屋の灯が消えるのがわかった。その途端に薄暗いアパートに独りだけ取り残されたことに強い恐怖感を覚えた。歩みを意識的に早める。何か影の塊が背後からついてくるような嫌な感触がする。一歩進めばその影も一歩前に進み、立ち止まればその影も立ち止まってよねが動くのを待っている。腋の下の汗は冷たく二の腕に垂れ、張り詰めた緊張は老年のよねの心臓を痛く突いた。よねは深呼吸を二度ほどして思いきって階段を駆け下りた。玄関に揃えたサンダルを履いている余裕はなかった。急いでそれを手掴みするとドアを開け放ち、脇見もせずに一気に駆け出した。

角を曲がり、アパートから見えない通りに出たとき、ようやく緊張感から解放された。煌々とライトを照らすジュースの自販機の明りに救われた気がした。激しく打ちつける鼓動がよねを今見た奇怪な光景を思い起こさせた。

加藤君のあの仕種は何だったのかしら? あれは確かに誰かに微笑みかけていた。でも、部屋には誰もいなかったわ。

今しがた廊下で感じた不気味な影。何かが私の後ろにいた。もしや加藤君はその影に?

あの影は、まさか幽霊!

そこまで憶測を働かせ冷静に考え直した。

 

「あら、やだ、私ったら幽霊だなんて何を言ってるのかしら。誰一人としてあのアパートで亡くなった学生さんはいないじゃない。加藤君がげっそり痩せ細ってお化けみたいだったから、変なことを考えちゃったんだわ。廊下の影もよくよく考えてみれば、あれは私の影だったのよ。やっぱり夏だからこんな風についつい恐いことを考えてしまったのかしら? 加藤君は確かに一人だったわ。ご近所からの苦情、あれはうちのアパートじゃなかったようだし」

 

よねは額の汗を指で拭って自販機に背を着けて凭れかかった。

 

「フゥーッ。うちにとってはいい迷惑だわ。一体どこの誰なのよ! 皆んなこの暑さで気が立っているのね。加藤君には申し訳ないことをしちゃったわねぇ」

 

そう呟きながらよねは足を引きずるように家路についた。

 

「もういいよ! 出ておいで!」

 

加藤は灯を消した暗い部屋の中央に立つと、物陰に声を潜めて隠れていた子供たちを優しく手招いた。

 

 ガサガサガサガサッ! スーッ! 

 

畳の上を這う音が聞こえたかと思うと、狭い四畳半の部屋のどこにこんなに隠れていたのかと驚くほど、部屋のあちらこちから子供たちが加藤の傍に駆け寄ってきた。

 

「なぁなぁ、お父ちゃん、あのオバァ、誰でぇ? お父ちゃんのこと怒っとったけど。悪い人なんけ? お父ちゃんを怒る悪い人やったら、わしらが殺しちゃろか?」

「いやいや、お父さんは怒られてたわけじゃないんだよ。大家さんの勘違いなんだ。あの人はね、悪い人じゃないんだ。だから悪戯しちゃ駄目だよ」

 

加藤は満面の笑みを浮かべて身体に絡み合うように纏わりつく子供たちを優しく諭した。

 

「もう遊んだらいかんのか?」

「夜中は静かに遊べばいいんだよ。遊んじゃ駄目ってわけじゃないからね」

「お父ちゃんの家は静かにせないかんのじゃな」

「あそことちがってこの街にはたくさんの人が住んでるからねぇ」

「でもあそこよりましじゃ!」

「寂しくないかい?」

「なぁーんも寂びしない。あそこのほうが寂しかったわい」

 

夜の帳が下りる中、加藤は十数人の子供たちを相手に親子の語らいをつづけた。

 

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