㥯 《オン》(すぐそこにある闇) 第十四節
『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』 八木商店著
第十四節
「確か、この寺だと思う」
そう言って佐々木は井上と横山を引き連れて、道後公園裏の寺院の門を潜った。
前日、例の写真を整理した後、三人は話し合って写真諸共お寺で御祓いをしてもらうことにした。その日の朝早く、大学の門が開くのを待って三人は部室に写真を取りに行った。佐々木が知る寺は大学から歩いて一〇分のところにあった。寺に着くなり三人は、住職に事情を話した。住職は四〇歳くらいの落ちつきのある男だった。手渡された写真にこれはただ事ではないと感じた住職は、朝のお勤めを中断して三人をすぐ様本堂へ案内した。お線香が焚かれている。普段嗅いだことのない独特の甘い香りがそこ一帯を占めている。そこにいかなければ感じられない異空間の感触を覚えながら、三人は住職の後につづいて本堂へと足を踏み入れた。
「おいおい、なんだあの仏像?」
井上は本堂に飾られている数体の仏像の中でも、中央に飾られている一際背の高い険しい顔の仏像を指さして二人に訊ねた。
「不動明王だよ」
佐々木が小声で応えた。住職は微笑んでここに座って待つように告げると、小走りで本堂を後にした。一〇分くらいして住職が派手な衣装に着替えて現われた。三人は思わず、住職の変わり様に驚いたが、その驚きも束の間、住職は一刻の間も惜しまぬようすぐに御祓いに取りかかった。
本堂には読経と共に護摩壇に炎が焚かれた。炎はオレンジや赤で燃え盛り、本堂を包んでいたお線香の甘い香りを掻き消すかのように、木が焼ける匂いが煙と共に立ち込めた。祈祷が行われているあいだ、三人は初めての光景に好奇の目を向けていた。だが正座を組んだ足の痺れを我慢することができなくなり、すぐにその興味は失せてしまった。普段、空手の稽古で正座には慣れているつもりだったが、そのときは生憎三人はジーンズを履いていた。三人が三人とも祈祷に集中する汗だくの住職を余所に、足の痺れに気を取られて顔を歪めていた。
早く終わんないかなぁ。
誰もがそんなことを真剣に頭の中で巡らせているときだった。突然どこからともなく、
ギィヤー!
ヒィーッ! ヒィーッ!
ソンナコトヲシテモムダダァッ!
苦しみ叫ぶ男とも女とも言えない不気味な声が、本堂の中を通り過ぎていった。
「な、なんだ今の!」
確かに変な声が聞こえた! まさか俺だけに聞こえたわけじゃあ…!
奇声を耳にした井上は心臓の鼓動の速まりを感じながら、他の二人を見た。顔を引きつらせて佐々木と横山が耳を両手で塞いでいた。どうやら二人にも聞こえていたようだ。三人は恐る恐る本堂の中を隅々まで見渡した。
「なんだったんだ? 今の」
住職の唱える読経に掻き消されるように、佐々木の震えた声がした。
「おい! あそこ!」
横山が叫びながら護摩壇を顎でしゃくって示した。
「ウワーッ!」
井上は声を上げて目を背けた。
「しゃ、写真から腕が出てる!」
見ると住職によって炎に一枚一枚投げ込まれている写真から、薄っすら透けた腕が無数に伸びていた。
祈祷する住職の顔にも焦りの色がはっきり見える。三人は急いでその場から逃げようとした。しかし、腰を抜かしてしまい這うことしかできなかった。汗だくの住職が必死にそれらの腕を振り払おうとしているが、腕は一向に消えようとしない。それどころかどんどん腕の数は増えるばかりだった。
オマエモコロシテヤロウカ?
複数の男女の入り乱れた声が本堂に響き渡った。住職が一瞬その声に臆した表情になった。
ソンナモノデナニガデキル!
そう聞こえた瞬間、住職が力尽きて炎で燃え盛る護摩壇の中に、正面から倒れ込んでしまった。忽ち炎が住職の衣を包み、一際大きな火柱になった。常識では考えられない現象を目の当たりにして、何が何だか頭の中が完全に混乱してしまった三人は、住職を助けようともせず腰を抜かしたまま、ただ呆然と炎に包まれる住職を見ていた。
ハア、ハア
息が詰まって呼吸が思うようにできない。
「このままだと坊さん死んでしまうぞ!」
震える井上に佐々木の泣き叫ぶ声が届いた。
炎に包まれる住職を助け出せるほどの理性はなかった。怯えるばかりの三人はただただ誰かに助けを求めようとできる限りの声を張り上げるだけだった。三人の叫び声を聞いて一人の年老いた僧侶が裏庭から駆けつけた。僧侶は火の海と化した本堂を見るなり、水も被らず駆け込んでいった。三人は本堂から離れた中庭の影まで這って逃げ、動揺を抑えながら呼吸を静かに整えた。すると、
「きゅ、救急車! 早く救急車呼んで下さい!」
本堂から僧侶が助けを求める泣き叫ぶ声が聞こえてきた。佐々木は急いで携帯電話を取り出し、救急車を手配した。そして、「誰か手を貸して!」と本堂から再び声がした。三人は震えが納まり切らない足を引きずって急いだ。扉が開け放たれた本堂の中は煙がもくもくと立ち込め、赤々と燃え盛る炎は天井を波打つように走っていた。
「誰か!急いで!」
年老いた僧侶の泣き声が悲しみと怒りの入り交じって聞こえた。三人は立ち込めた煙で前が見えない本堂に入った。
「ここです! この子を早く外に!」
煙で目が痛むの堪え、三人は僧侶に渡されたぐったりとした住職を立ち込める煙の中から外に引きずり出そうとした。煙が鼻を衝き、喉を刺激して呼吸がままならない。本堂の中は立ち込める煙で、どこに何があるのかすらわからなかった。三人は光の射し込む開いた扉から転げ落ちるように外に出た。無我夢中でぐったり力を失った住職を日陰に引きずり出し、横たえて休めようとしたそのとき、はじめて住職のその姿を目の当たりにした。
「ウワッ!」
変わり果てた住職の姿に、思わず目を背け反射的に喉にこみ上げる吐き気を抑えようと両手で口を押さえた。炎を全身に浴びた住職は、皮膚はただれ、炭になっている箇所さえあった。井上は目を背けようと努めた。しかし、その想いに反し衝動は抑えられなかった。怖いもの見たさだった。井上はマネキンのように固まった住職を見た。そしてあることに気づいて、息を飲んだ。
あ、焼けてない!
井上は炭と化した住職の身体に焼け残った部分があることに気づいた。
「足は焼けてない!」
井上は思わず叫んでいた。
「えっ!」
井上の声に二人も住職の足元に目をやった。
「こ、これは」
と、言いかけて井上はその先を声にするのを止めた。井上は部員たちが無枯荘で見た不思議な亡霊の話を思い出していた。加藤から聞いた無枯荘の亡霊は足だけだった。それも踝から下のちょうど靴を履いたときに隠れる部分。横たわる住職の身体で炭にならなかったのはそこだけだった。
「あ、さっきの坊さん、出てきたぞ!」
横山が本堂から庭に命辛辛這いだした僧侶に気づいて二人に告げた。辺りには煙が立ち込め、まるで狼煙のように青空に立ち昇っていた。本堂の屋根を這う炎は勢いよく燃え盛り、離れていてもその炎の暑さで頬が焼けるように痛かった。次ぎの瞬間、本堂の屋根が轟音を立てて焼け崩れ、地面を揺るがせた。消防車のけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。
庭に転がり出た年老いた僧侶の顔は、真っ黒に煤に塗れて目も開けられず、喉も詰まって声が出せないでいた。脱水症状を起こしたのか、飲み物を乞うジェスチャーを仕切りに繰り返した。井上は急いで塀の傍にある井戸からバケツに水を汲んで渡した。僧侶はバケツに口を付けると嗽を数回して、ゴクゴクと満腹になるまで喉の渇きを潤し、残った水を頭から被って身体の熱りを和らげた。そして大きく肩を上下させて数回深呼吸をすると、神妙な面持ちで三人に訊ねてきた。
「これはお宅さん方のですか?」
僧侶は燃え盛る炎に投げ込まれたはずの写真の束と小さなプラスチックのチップを三人の前に差し出した。三人は手渡された写真を見て心臓が止まる思いだった。
嘘だろっ! あの炎でなんで灰にならないんだ!
三人は意識が遠退きそうなるのを堪えるのが精一杯だった。
「ど、どうして燃えてないんだ!」
井上は狂ったように叫んだ。写真の無傷な状態に膝が音を立てて震えた。辺りは気がつかない内に黒山の人だかりとなっていた。
「あ、あの子は駄目でしたか?」
涙を目に溜め、僧侶が肩を落として力なく吐いた。
「外に出したときにはもう」
佐々木が僧侶の心中を察して小さく応えた。僧侶はその場に崩れ落ちて地面に顔を押し付けて嗚咽した。恐らく炭になった住職はこの老人の息子さんだったのだろう。炭になった我が子を見つめる老人の姿はあまりにも忍びなかった。しかし井上たちを前にして僧侶は気丈にも自身の使命を果たそうとした。
僧侶は涙を掌で拭うと、何故このような事態が起きてしまったのか三人に詳しく説明するように訊ねた。燃え盛る本堂目掛けて数ヵ所から勢いよく放水が行われている。土砂降りのように降り注がれた水流は、本堂の中に詰まった炭の塊をどんどん外に押し流した。それは井上たち三人に無枯村を幾度となく襲った土砂崩れの光景を連想させた。三人はできる限り詳しく経緯を話した。僧侶は三人が話し終わるまで黙って黒焦げになった息子を見つめていた。
「そうですか。わかりました」
僧侶はそう言うと、眉間に深い縦皺を作って考え込んで、
「これはここでは祓うことはできん相当強い霊です。お話の中にあった祓いの場」
「祓橋ですか?」
透かさず井上は訊ねた。
「ええ。その橋で清めん限りはどうにもならんようですな!」
「やっぱり、祟りですか?」
井上は矢継ぎ早に訊ねた。
「いやこれは祟りじゃありません。強い霊ですが、祟りを起こすような悪いものは感じられません!」
僧侶は横たわった息子が救急車に運ばれるのを横目に、強い口調で言った。
「じゃあ、何だったんです!」
不安に駆られた佐々木が詰め寄った。
「救いを求めておるのでしょう」
僧侶は空高く舞い上がった煙を仰ぎ見た。年老いた僧侶によると、村を出るおり取った行動は、あの世から救いを求める者たちの想いを妨害したのではないかということだった。無枯村の子供たちは死の世界から救いを求めてきた。そしてその手段として、村を訪れた外部の者に助けを求めて、苦しみから連れ出してもらいたかったのではないかと。あの村で亡くなった者たちは、祓橋から伸びる県道に繋がる道は見えなかった。何故なら彼らがまだ此の世に生きていた頃には、その道は開通していなかったから。誰もそのことを知らなかったのではなかろうか。
寺を訪れた三人は、祟りに遇いたくない一心で御祓いを頼んだだけだった。決して部員たちを救いたいと願ったのではなかった。だが、井上たちが取った行動は、死の世界から此の世に救いを求めた者たちにとっては救いを妨げる行動になってしまったようだ。僧侶の立場からだと亡霊たちも救わなければならないのだろうが、井上たちには亡霊たちを救うことよりも、現実にまだ祟りを受けていない自分たちの身を守ることのほうが大事だった。
「じゃあ、部員たちはもう助からないんですね」
横山が言った。
「わかりません。いえることは、私たちの力ではできんこともあるということです。お仲間の方々を救えるかどうか、やってみないことにはわかりませんが、この写真と一緒にお仲間の方々も連れて、もう一度その村に行って祓いの場所で清められたほうがよいのかもしれません」
「そんなことしても平気でしょうか? 仲間の部員たちは皆家から一歩も出れないんです。家族の者が出さないようにしてるみたいだし」
横山が言った。
「ご家族の方に事情をよくよくお話しして、ご同行願えるよう頼むしかないでしょう。ご家族の方も必ずあなた方のお話をわかって下さるはずです。親という者は子供が自分よりも先に死ぬなど決して考えたくないものですからな…。
救えるものなら、できる限りの手を尽くさなくてはいけません。私も息子を今亡くしたばかりです。救えるものならなんとしても救ってやりたかった。
この写真、私にはこの写真から邪悪な霊気は何も感じられんのです。写真から出てきたという腕は、恐らく亡くなった子供たちを見守っていた親御さんのものだったんでしょうなぁ……。あなた方はこの親御さんの気持ちを考えもせず、祟りだと決め付けて無闇に魔として祓おうとしました。この写真から出てきた腕の持ち主の方々の気持ちが、今の私には痛いほどよくわかるんです。その村にお仲間の方々を連れて行き、清めることができるかどうかはわかりません。それは村で子供さんを亡くされた親御さんの気持ちを踏みにじることになりますからな。じゃが、此の世で生きられるのは生きている者だけなんです。そのことを十分に理解してもらうように、清めのあいだは祈りつづけなさい。亡霊といえども、元は生身の身体で生きていた者たちなのです。あなた方がお仲間を救いたいと願う気持ちと、子供を救いたいと願う親御さんの気持ちには通じるものがあるはずです。必ずわかって頂けるはずです。兎に角急いでお仲間の家族の方にお話しして、一刻も早くその村で清めることでしょうな」
三人にそう言って一礼すると、僧侶は駆けつけた警察の許に力なく歩いて行った。
井上は正直あの村に行くのは御免だった。
なんで俺がアイツらを救うために、わざわざあの村まで御祓いしに行かなきゃなんないんだ! 皆民宿のおやじのいうことを素直に聞かなかったからそうなったんじゃないか! 空手の試合だってそうだろ! 審判の指示に従わなかったら駄目って、いつもいってるのによぉ! ったく面倒臭ぇなぁっ! いっつも俺に厄介な仕事ばかり押しつけやがって。ふざけんなよ! 勝負の世界は生き残った者が勝者なんだよ。注意を守らなくて、死にそうになってんのは自業自得だろ! ったくムカつくよな。皆さっさと死んでしまえばいいのに! なら俺は行く必要がなくなるんだからな。
井上の想いとは反対に、横山は正義感が漲ってきたのか、村に行く気でいた。一方、どんなときも慎重な佐々木は、行くことを躊躇っているだった。井上は思った。
基本的に行きたくないけど、これで大沢たちを救えたならアイツは一生俺に頭が上がらなくなるな。神様、仏様、井上様って感じだ。そう考えると行ってやってもいいかも。でも、あの川で御祓いしたところで助からなかったとしてももう知らないからな! 俺は観音様じゃないんだから。救いを求められても誰でも彼でも助けてやれないよ。情けは捨てろ! それが大沢から教えられたことだったから。あーあ、部屋に閉じこもっているからといって、悪さしてるわけじゃないんだから、その内ミイラになって死ぬんだから放っておけばいいんじゃねえか! 部屋の中で一人静かにいるのも、なかなかいいと思うんだけどね。
寺を去り部室に向かう道中、横山は村に発つ計画をあれこれとしゃべっていたが、井上は憂鬱で全然聞く気がしなかった。佐々木は始終黙っていた。
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