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『㥯 《オン》(すぐそこにある闇)』 第四節

  『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』     八木商店著

 

第四節

 

祓橋から五分ほど曲がりくねった細い道を抜けると集落が見えてきた。集落が見えた途端、道幅は突然広がりを見せ、幅10メートルはあろう大きさで集落を東西に二分した。祓橋からつづくその道は南北に走り、数本の細い路地が東西に横切る形で走り、碁盤の目を形勢していた。南北に走る道に沿って建ち並ぶ民家はどれも隣と直に隣接することなく、必ず路地を挟んで建てられていた。不思議な町並みだった。まるで大昔に逆戻りしたのではないかと目を疑うような古い佇まい。どの建物も剥がれた土壁と朽ちて埃を吸った柱でどうにか崩れないように持ち堪えていた。その弱々しくも重力に反発する姿からは生命力が感じられた。まるで飢えに耐える老人のようだった。

無枯村に漂う時代錯誤な錯覚に、、井上は心の内側に埋没した忌ま忌ましい幻影が解放されていくように思えてゾッとした。不気味な胸騒ぎが心の奥底から這い登ってくるのがわかる。ふとした瞬間、セピア色に染まる古い街並みに心が奪われ、郷愁の想いに感極まって全身の体毛が直立するような暖かなものではなく、背筋が凍りつくような邪悪で危険な、忌まわしい物との遭遇に本能的に心が怯えているような感触だった。村に着いて早々、井上は旅の疲労感を忘れさせる程の底知れぬ不安を強く覚え、背を丸めて首をすぼめることになった。井上に限らず他の部員たちも皆同じ気持ちだったろう。

見上げると、空には祓橋で姿を見せた黒い雲の塊はもう見えなかった。山陰に隠れた無枯村では空を真上に見上げたところで、空は僅かにしか見えなかった。実に不思議な村里だった。昼間というのに不気味なくらい薄暗い。ふと目をやると昼間から街灯が灯されている。村里に降り注ぐ夏の陽射しよりもその街灯の明かりのほうが心強くさえ感じられた。古い街並みを一層演出するかのように、それはガス灯だった。

二泊三日の予定で世話になる民宿・無枯荘は、案内図に頼らなくともすぐに見つけることができた。無枯荘は南北に走る広い道路沿いに、大きな看板を掲げてひっそりと立っていた。そこは無枯村に一件しかない商店、無枯商店が民宿も兼ねて営んでいた。無枯荘にいち早く着いた四年生たちは店の前に車を停めて、タバコをふかしながら井上が到着するのを車外で待っていた。佐々木が空いた場所に車を停めるなり、主将の大沢は助手席の井上に手招きして話があると言う仕種を送ってきた。車から降りた井上の鼻にどこからともなく磯の香りが纏わりついてきた。耳を澄ませば波が岸壁にぶち当たって細かく跳ね返る音が聞こえる。どうやら海はすぐ傍のようだ。そんなことを思いながら井上は主将の大沢の許に急いだ。

 

「押忍! 先輩!」

「おまえなぁ、いくら低予算で海、山あって観光客の少ない場所を探せといっても、これはないんじゃないかぁ。おまえ今はまだ昼だぞ、なのになんだあの街灯は? あれ電気じゃないだろ?」

「押忍」

「それに全然人の気配が感じられん。ちょっと度が過ぎるぞこれは」

 

開口一番大沢は文句を並べた。井上は黙って大沢の文句に付き合った。

冗談じゃねえよな! 一々文句いってんじゃねえよ! 面倒臭えことを後輩に押しつけるから、内定ももらえねえんだよ! 先輩だからって、ふざけたこといってんじゃねえぞ! ここを探し出すのに俺たちがどれくらい苦労したと思ってんだ!

と心の中で叫んではみたものの、それを声に替える度胸はなかった。

 

「押忍! 済みませんでした!」

 

井上は深々と頭を下げた。

 

「他にももっと探したらいいとこあっただろ」

 

呆れた顔で大沢がタバコの煙を井上の顔に吹き付けた。

 

「押忍!」

 

あんならおめえが探しゃいいだろ! 畜生、どうして俺が注意されなきゃなんねえんだよ! おめえがいった条件は全部適ってんじゃねえか!

 

「しかし、もうきた以上はどうしようもないよな。兎に角駐車場どこにあんのか訊いてこいや」

 

大沢のふてくされた態度は、空手の修行を通じて精神の鍛練が積まれているとは到底思えなかった。

大沢は部員たちの中でも一番空手歴が長い。はじめたのは三才のときだと聞いたことがあった。確かに経験が長いこともあって空手の腕前は他の誰よりも抜き出ていた。身長173センチ、体重70キロの大沢のテクニックは誰にも真似できるものではなかった。彼を羨む部員の誰もが思っていた。当然と言えば当然なのだろうなあ。なんてたって大沢さんにはマンツーマンで指導してくれる方がいるのだから、巧くならないほうが奇怪しいのだと。

村にきて大沢が怒るのもわからないでもなかった。井上自身、もしも誰か他の人間がこんな場所を合宿先に見つけてきたなら、一番に文句を言ったにちがいない。でも、これを機に主将も俺には面倒な仕事は押しつけたりはしないだろうと思うと、これはこれで良かったのかもしれないという浮ついた思いが過ぎり、注意されたことが逆手に取れて良かったと安堵感に気持ちを切り替えることができた。兎に角、井上は駐車場がどこにあるのか訊こうと無枯商店の入口の引き戸を開いた。ジャリジャリと音を立ててレールに挟まった砂を弾きながら、入口の引き戸はゆっくりと開いていった。

 

「御免下さい!」

 

井上は戸口から頭を覗き込ませて声を掛けた。経費節約なのか店内は明りが灯されず、とても暗い。耳を澄まして待つものの、店の人の反応が返ってはこない。

留守だろうか? おいおい、今日予約してんだぞ! ふざけんなよ!

 

「御免下さい!」

 

不安に煽られてもう一度大きな声を掛ける。店の中は外の薄明かりよりも一層暗い闇に包まれている。井上は店の中を見渡した。

それにしても薄気味悪い店だなぁ。本当にやってんのか、ここ?

しばらく待ってみたものの何の返答もない。井上は不安が的中しないことを祈った。

ほんとマジで誰か出てきてよ! もしも閉店なんてことになってたら俺の立場は最悪じゃねえか! マジで誰かいるんだろ! 隠れてないで顔見せろよ!

 

「御免下さい!」

 

更にもう一度、今度はありったけ大きな声で叫んだ。

 

「はーい」

 

暗い店の奥のほうから、微かに声が聞こえたような気がした。井上の心にパッと光が射し、天使が乱舞するのを感じた。

よかったぁ、ちゃんとやってたよ!

 

「御免下さい! 本日予約を入れていた者ですが」

 

井上は耳を澄まして返事が返ってくるのを待った。すると今度はすぐに店の奥のほうから、

「すんません! ちょっと今、手が放せんもんですけん、ちょっと待ってもらえますか!」

南予独特の強い訛りで温かみのある女の声が返ってきた。

 

 フゥーッ! 一時はどうなることかと思ったぜ。

井上は胸を撫で下ろして身体を店内に入れた。

入口の引き戸に凭れて待つこと一分。

 

「ああ、すんませんねぇ! お待たせしました! お連れさんらは表で待っとられるんですかねぇ?」

 

濡れた手をタオルで拭きながら四十代前半の色白の痩せた女が店の奥から姿を現した。感じの良さそうな田舎のおばさんだった。井上はその女を見て思った。先日電話に出たのはこの人だったのか。

 

「ええ。車を停めたいんですけど、駐車場はどちらですか?」

 

店の女は駐車場の場所を井上に知らせると、店内の蛍光灯に明かりを点けていそいそと店の奥へと引っ込んで行った。井上はドライバーたちに駐車場の場所を知らせると、残りの連中と店の前で待機した。程なくして車を停めたドライバーたちが無枯荘に返ってきた。

波の砕け散る音と引き潮の音が交互に村里に轟く。沖から吹き込む風は東の山に跳ね返り、南北にそそり立った崖に反響して獣の唸り声のような異様な音を立てた。部員の誰もが轟音が鳴り響く隔離されたその空間に、忌み知れぬ不快感を覚えた。誰もが不安を表情に浮かべて辺りを警戒するかのように見渡している。無枯村の暗さが部員たちの心にしまい込んだ不安を触発したそのとき、絶妙なタイミングでキッキッキッキッキィーッ! と鳴き声が僅かに見える空を素早く横切って木々の枝々を揺るがした。誰もが驚き、肩をびくつかせた。女性部員の中から、キャーッ! と空を駆けめぐった奇声よりも高い悲鳴が上がった。よく見ると悲鳴を上げたのは向井由香だった。

 

「何だよ。ビックリさせんじゃねえよ」

 

井上は女子部員たちに囲まれて介抱される由香を睨み付けながら、誰にも聞こえないように言葉を吐いた。

 可愛子振ってんじゃねえぞ!

由香は口元をハンカチで押さえていたものの、その目は好奇心旺盛な輝きを放っていた。

 

「鳥かなぁ?」

「いや、猿じゃないか?」

「こんなところに野性の猿なんていんのかよ?」

「じゃあ、やっぱ鳥じゃない?」

 

などと一年生たちは皆んな思い思いに姿なき雄叫びの主の詮索に追われている。皆んな空手の合宿ということを完全に忘れていた。

 

「おーい! 皆んな中へ入るぞ!」

 

大沢は奇妙な雄叫びも一年生たちもお構いなしだった。

 

「押忍!」

 

部員たちが一斉に応えた。大沢を先頭に入口の敷居を一人一人跨ぐ。店の土間を通り抜けて大人の膝の高さ程の床にぶち当たったところで、靴を脱いで揃える。床に上がったすぐ脇に階段があって、女が二階に上がるように促した。

 

「ようお越し下さいました。さあさあ、どうぞどうぞお上がり下さい。お部屋の用意は整っとりますから」

 

さっきの女が笑顔で部屋を案内してくれたが、井上にはどことなく女のもてなす仕種にぎこちなさを感じた。

この人、あんまり客を相手にしたことないんじゃないかな? こんなとこにやってくる人なんてなさそうだから。

部員たちは女に案内されるままに細くて急勾配の階段を昇っていった。二階に上がると洗面所とトイレがすぐに目に入った。階段を上がった踊り場を起点に、縦横にL字型に廊下が走っている。歩けばギィーギィー鳴り響く板張りの廊下と使用する部屋には既に明かりが灯されていた。二階は一階よりも明るく、外から陽が射し込むからだと思ったのは照明のせいだった。昼間の薄明かりの中に灯された廊下の裸電球の明かりは心もとない。この後、日が落ちて辺りが暗闇に包まれたなら明りは増すのだろう。そう思ったものの、この薄気味悪い古屋にはもう少し強力な明かりが欲しいと思った。

合宿に用意された部屋は二階の六部屋だった。無枯荘は一階が商店と店主らの家を兼ねており、二階が民宿になっていた。二階には一二畳の古い和室が七部屋あり、廊下に沿ってそれぞれ三部屋と四部屋に分けられ、L字の角に階段と洗面所、トイレがあった。商店の真上に三部屋が南北に連なり、それぞれの部屋は東側に大きな古い窓が設けられていた。窓にはガラスはなく、雨戸と障子という今時珍しいものだった。一方、残りの四部屋は北側に東西に並び、ここも同じく大きな古い窓が北側に設けられていた。どの部屋も窓の向こうは通りに面していたが日当たりは悪かった。

東に面した三部屋並んだ真ん中の部屋は、使えないように観音開きの扉が数枚の大きな分厚い木の板で封鎖されていた。その部屋は見るからに不気味な雰囲気を漂わせていた。近づいてよく確かめてみると、観音開きの扉に打ち付けられた板は変色してかなり古く、打ち付けた太い釘も同様に錆びが板に染み入るほど腐っていた。どうやら相当昔からこの部屋は客間として使われてないようだった。それにしても不気味だった。どうして三部屋の真ん中の部屋が使えないように扉が打ち付けられているのだろう? 部員たちの誰もがその部屋の異様な雰囲気におどろおどろしい想像を働かせた。

 

「なあなあ、井上、あの部屋って開かずの間だよな?」

 

水野が小声で誰にも聞こえないように井上の耳元で囁いた。あかずのま? 井上にはその意味がわからなかった。

 

「そうだな!」

 

訊かれた意味もわからないのに自信満々に井上は返した。途端に水野は顔を引きつらせると、

「マジかよぉ!」

と、弱気な声を漏らして辺りをキョロキョロ警戒して見渡した。井上には何故水野がそんな行動をするのかわからなかった。

部屋は男性四部屋、女性二部屋に分けられ、東に面した南の奥の部屋が四年生の男子、そして開かずの間を挟んで北側の部屋が三年男子、L字の角を曲がって階段を挟んだ東側から三、四年女子、一、二年女子、一年男子、二年男子とそれぞれ部屋が分けられた。

それぞれが与えられた部屋に姿を消し、井上も割り当てられた部屋に入った。観音開きの扉を開けた途端、ツンと饐えた匂いが鼻を衝いてきた。向かって正面から大きな古い窓が目に飛び込んできた。部屋の中央には小さなちゃぶ台が置かれている。右手に押入れのふすま越しに床の間が見え、覗き込むと壁には羽を広げた鶴が描かれた掛け軸が掛けられ、ススキの穂が細長の花瓶に活けられていた。部屋の北側は一面手垢やヤニに黄ばんだ壁で、凭れることが拒まれるほどだった。畳はもう何年も取り替えてないのだろう、畳一面に茶色の染みが絵柄のように付いている。中が腐っているのか足の裏が畳の表面に埋もれる感触が妙に気持ち悪い。黒光りする柱と裸電球を吊るした天井の梁は時代を感じさせているが、レトロと言うよりは薄汚かった。天井は高く、梁の向こうは光が届かず濃い影にぼやけていた。

井上は一先ず荷物を下ろすと朽ちた畳の上に大の字に寝ころがった。すると、先程から不安気に部屋の中に目を配らせていた水野が、部屋の中を何やら突きはじめた。床の間の前で、「こういうところが一番怪しいんだよな」とぶつぶつ呟くと、掛け軸や花瓶をずらしはじめた。

何してんだ? ぶつぶつ独り言なんか言って落ち着かねえ野郎だなぁ。

水野の奇妙な行動に不審を抱いた井上は訊ねた。

 

「おい、水野。おまえ、さっきから何してんの?」

「ちょっとなぁ、あると嫌だから、ないことを祈りながら調べてる」

 

井上には水野の行動が理解できなかった。そこで佐々木にも訊ねてみたところ。

 

「盗聴器でも探してんじゃないか?」

 

佐々木の返答は滑稽だった。どうしてそんな物が仕掛けられてんだ? と、尚も井上は不審に思いながらも、常に冷静な佐々木の言うことだからそうなのかもしれないと思い、わかったような振りをした。

 

「おーい、水野。盗聴器見つかったか?」

 

井上は畳の上をゴロゴロ転がり、水野に近づきながら訊ねた。

 

「えっ、盗聴器って? なんでそんなもんがこの部屋に仕掛けられてんだ?」

 

一瞬驚いたものの、作業の手を休ませることなく水野は応えた。水野の驚いた姿に井上は首を傾げた。

佐々木の答えはハズレだったようだ。しかし、奇怪しいなあ? 水野は一体何を調べてるんだ?

井上がそうこう考えを巡らせているあいだ、水野は「掛け軸の裏、よし! 花瓶の下、よし!」と号令を掛けながら点検を済ませていった。そして、「最後はここだ」と言って、押入れを開けて中から布団を全部引っ張り出しはじめた。流石に理解の及ばない水野のこの行動に度肝を抜かれた井上は、「おいおい、何を調べてんのか知らんけど、ちょっとやり過ぎじゃない?」と言ったが、水野は井上の注意にも耳を貸さず布団を全部畳の上に投げ出してしまった。そして、押入れの中に入って、「押入れ、よーし!」と号令を叫ぶと、満足した顔で出てきた。安堵感から頬が弛んだ水野の顔は不気味に見えた。

 

「水野、布団ちゃんと片付けとけよ!」

 

呆れて佐々木が注意した。

 

「ああ、悪い悪い、ちゃんとやっとくよ」

 

悪気なくそう返す水野を井上は呆気に取られて見ていた。

ところでコイツは結局のところ何がしたかったんだ?

井上の水野に抱いた疑問はまだ解決されてなかった。井上のそんな気持ちを察してか、佐々木が水野に訊ねた。

 

「おまえ何調べてたんだ?」

「御札だよ」

「御札?」

「ああ。幽霊が出る旅館の部屋には御札が貼られてあるそうじゃない」

「ああ、確かになぁ。そんな話、聞いたことあるよ」

「この部屋には御札は見当たらなかったけど、まさか…、壁の中に塗り込まれているとか? ま、それは冗談としてこの民宿は何か出そうじゃないか?」

「そうだなぁ」

「隣の部屋なんて無茶苦茶怪しいよな。この部屋には御札がなかったから安心だけど、案外先輩の部屋にはそこら中に貼られてるかもしれないぞ」

 

水野はワクワクしながら楽しそうに話していた。そんな水野を見て井上は思った。

御札くらいで何ビビってんだよ! 御札なんて坊主や神主が小遣い稼ぎに落書きした紙切れじゃねえか。水野は御札でお化けが出るとか出ないとか思ってるみたいだけど、お化けなんて滅多にお目にかかれるもんじゃねえからなぁ、遇えるものなら見てみてえもんだよ。この民宿の雰囲気が不気味だからといって、、空手マンならビビってんじゃねえよ! 修行が足りねえな!

井上が水野と佐々木の話を聞きながら呆れているときだった、ギィヤーッ! と突然、女性部員の悲鳴が二階に響き渡った。すぐに「なんだ!」と男性部員の叫ぶ声と共に、ドアを慌だたしく開き、バタバタと廊下を駆ける振動で床が揺れた。どうやら四年生や一、二年生の男子が悲鳴を聞きつけて、女性部員の部屋に向かったらしい。

 

「どうする? 俺たちも行ってみるか?」

 

イベント好きで調子者の横山登が、好奇心に駆られた顔で訊ねてきた。井上たちは一様に目で、「行ってみよう!」と合図を送ると、横山が真先に駆け出した。

女性部員の部屋の前には先に駆けつけた男性部員たちで犇めきあっていた。何やらガヤガヤと男の怒鳴り声に紛れて女性の泣きじゃくる声が聞こえる。着いて早々何事だあ? 井上は階段の踊り場の壁に凭れて様子を伺うことにした。人込みを縫って横山が下級生に何が起こったのか訊いてきた。

 

「横山、何だって?」

 

水野が訊ねた。

 

「おまえが探してた紙切れが押入れの天井に貼ってあったそうだ」

 

横山の話を聞きながら井上は思った。

ということは他の部員たちも水野のように御札が貼ってあるかどうか調べてたのか…。ったく臆病者ばかりだ! 何のために空手やってんだよ。精神を鍛える前に派手な技ばかりに気を取られてるから、御札見つけたくらいでビビったりするんだよ!

 

「一年と二年の部屋にも貼ってたらしいぞ。…男子も女子もだから、この廊下沿いの部屋全部ってことになるな」

 

目を輝かせて興奮して語る横山は、御札云々よりもイベントが起こったことが嬉しいようだった。

 

「てことは、幽霊が出る部屋ってことか?」

 

井上は無表情で訊ねた。

 

「そうかもしれん」

 

そう返す横山には幽霊なんてどうでもいいって感じだった。横山にしてみれば幽霊もイベントに繋がれば、それはそれで良かったのだろう。

井上は不気味な感触を凭れた壁伝いに背中に感じていた。

俺たちの部屋には御札はなかった。押入れの天井で見つけたって言ってたけど、水野は押入れの天井もちゃんと確認したんだろうか?

そう思うと意思とは関係なく、不意に動悸が加速したのに驚いた。こめかみが締めつけられるように痛い。

あれ? どうしたんだ? なんで頭が。急に寒けも感じはじめた。もしかしてお化けのせいなのか? しかし、そんなもんねえだろ! でも、もしそうだったらどうする? 水野は本当に確認したのか?

井上は突然の体調の異変に不安を駆り立てる悪いことばかりが思い浮かんだ。そして堪り兼ねて水野にそのことを確認することにした。部屋に戻って押入れの中を確認すれば済むことだったが、誰もいないあの部屋に一人で入る勇気はなかった。

 

「み、水野。ちょっと!」

 

井上は御札が貼られていた部屋を一部屋一部屋確認して廻る水野を大声で呼び戻した。

 

「なんだよ」

 

井上に呼ばれた水野は不機嫌な様子だった。興味津々に後輩たちと御札を覗き込んで楽しんでいる最中に呼ばれたことに気を悪くしているようだった。

 

「おまえ、押入れの中もちゃんと確認したよなぁ?」

「ああ。おまえも見てただろ」

 

水野の視線は後輩たちに向けられたままだった。

 

「天井もちゃんと確かめた?」

 

井上はこれ以上水野の機嫌を損ねないように様子を伺いながら優しく訊ねた。

 

「なかったよ」

 

素っ気なく応える水野は後輩たちの動向が気になってしょうがないらしい。

 

「そうか」

「もうあっち行っていいか?」

 

水野は後輩たちをアゴでしゃくった。

 

「ああ、悪かったな。いいよ」

 

井上は水野の機嫌を損ねたことを心配するよりも、御札が押入れの天井にも貼られていなかったことが確認できて良かったと思った。そのとき、ギィーッ、ギィーッ、ギィーッ! とゆっくり木板の擦れ合う音を立てながら無枯荘の女が階段を登ってきた。

 

「どうかされましたか?」

 

女は怪訝な表情を浮かべ、踊り場に佇む井上に訊ねた。井上はことの成り行きを話した。

 

「御札が、ですか」

 

女は言葉に間を置くと、思い当たる節があるかのように語尾をはぐらかせた。井上は女の顔をじっと見ていた。女の表情からして何らかの理由があるのは明らかだった。井上はつぶさに女の表情の乱れを逃さないように注意して見ていた。フゥーッとため息のような長い吐息を吐いたかと思うと、女は視線を落として小さな声で語りはじめた。

 

「ここら辺りはどこの家庭も皆、全部の部屋に貼っとんです。ここの風習を知らん、お客さんらには気色悪かったかもしれませんね」

 

力なく語る女の視線の先には御札を見つけて廊下で泣きじゃくる女性部員がいた。女性部員たちは廊下に荷物を纏めて部屋の中には入ろうとしなかった。井上は泣きじゃくる女性部員を、肩を落として弱々しく見つめるしかない民宿の女が不憫に思えてならなかった。

 

「実際のところどうなんです? 幽霊って出るんですか?」

 

井上は女の心中を察して気を遣いながら訊ねた。

 

「幽霊なんか、ここにはおりません!」

 

語気を荒げた女の声が悲しみで震えているように聞こえた。

 

「そうですか。なんかお騒がせして申し訳なかったです」

 

井上は女に悪い想いをさせてしまったことに罪の意識を感じた。

 

「ようおられるんですよ。お客さんらのような方が」

「はい?」

 

井上には女の言っている意味がわからなかった。

 

「御札があるということは何か出るんやろが! いうて物凄い剣幕で怒鳴って、こられたその日に帰られるお客さんが」

 

女の声にはきたときに見せた感じの良い田舎のおばさんの優しい響きはなかった。井上には女のその変わり様が一層不憫に思えてならなかった。

 

「でも、幽霊って出ないんでしょ。それならちゃんと説明すればいいんじゃないですか」

 

井上は女を励ますつもりで言った。

 

「ええ、そうなんですけどね。何度もお客さんにわかっていただけるように説明したんですが、皆さん怒っとるもんですから話をちゃんと聞いてくれんのです。宿泊代が一泊二千円いうんもお化けが出るけんやろが! と、そういわれましてねぇ。頭にカーッと血が昇ったお客さんには何いうても焼け石に水です」

「あのぉ、くどいようですけど気を悪くされないで下さいね」

 

女に断りを言ってから、井上はもう一度御札を貼った理由を訊いた。女は涙が零れそうな目尻を小指でなぞると話しはじめた。

 

「じゃあ、ちょっと僕が主将さんに理由を話してきますから。ほんと気を悪くされないで下さいね」

 

井上は女に訊いた御札の説明を主将の大沢に告げると、大沢は部員たち全員に説明しはじめた。

 

「御札は各部屋に貼られてるそうだ。しかし、これはその部屋で誰かが亡くなったから供養のために貼られたのではなく、この地域の昔からの習わし事で、どの家庭も部屋の一ヵ所に御札を貼って魔が寄らないように護ってもらっているとのことだ。だから、皆んなが想像しているようなお化けだの幽霊だのとは一切関係ないからもう心配しなくても大丈夫だ。先入観から民宿の方には大変なご迷惑を掛けてしまった。今後はそういうことで民宿の方を困らせるようなことがないようにしてくれ! 押忍!」

 

主将の大沢の説明は効果的だった。気が動転して冷静になれないでいた女性部員も泣くのを止めたた。

 

「じゃあ、皆んな胴着に着替えて十分後に店の前に集合! 皆んなサポーターとグローブも忘れないように! それから一年生はミットを運ぶように! 以上、押忍!」

 

大沢は気を取り戻してすぐに合宿のメニューの消化に当たった。大沢の合図で部員たちがそれぞれの部屋に帰ろうとしたとき、民宿の女が部員たちを引き止めて言った。

 

「あのぉ、ここらにあるもんは、なんもうつさんといてくださいね」

 

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