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窓に映る白い影

【窓に映る白い影】  八木商店


 その部屋の明かりに気づいたのは、つい最近になってからのことだった。


 その部屋を借りたのは若い女だった。


 俺の部屋の窓からはその部屋が一望できた。


 その部屋で事件が起きたのは、俺がここに住み始めて一年ほど経ってからだった。以来もう何年もその部屋に明かりが灯ったことはない。




 死体を発見したのはそのマンションの大家だった。


 その日いつもより早く目覚めた彼女に、留守電ランプの明滅が目についた。


 …誰だろう?


 最初に思ったのはそれだった。そして、現実を確かめるかのように、固定電話のディスプレーに目をやった。灰色の液晶画面に「0544」の数字が浮かんでいる。近年、家の固定電話にかかることは数えるほどしかない。留守電もそう。ふと、二年前の実兄の訃報を留守番電話で知らされたときの光景が脳裏を過ぎった。兄の葬式風景が目に浮かぶと共に、瞬時に嫌な予感が走った。


 …まさか


 鼓動が激しく打ちつけた。

 そう思っても仕方がない。先週から八〇過ぎた実母が、肺炎を拗らせて入院していたからだ。医者からも下手をすれば生命の危険があるかもしれないと注意を受けていた。


 …もしもそうだったらどうしよう


 眉間に皺を寄せて医者は説明した。そのときは、漠然と他人事にしか聞けなかった医者の予言が、今は繰り返し耳の奥で鳴り響く。次の瞬間、猛烈な寒さに身が震えた。咄嗟に手を当てた頬からは血の気が退き、指先は氷に触れたときのように、驚いて反射的に顔から離れた。

 病室のベッドで、鼻に管を通して横たわる母に、白くぼやけた数人の影が、覆いかぶさる嫌な映像が目に浮かぶ。途端に呼吸が乱れた。


「落ち着いて!」

 恐怖のあまり声に出して自分に言い聞かせた。そうしなければ、不安で自分の方が精神的に押し潰されそうだった。


 気持ちを落ち着けて電話に目を向けた。気持ちを何一つ察しない点滅ランプが憎らしい。留守電ボタンに伸ばした指先が懸念で震える。深呼吸を数回行い、一気に指を押し付けた。


 〈ヨウケン、ハ、イッ、ケン、デス、サイセイ、シ、マス〉


 電話機のぎこちない日本語に苛立ちを覚える。今まさに再生されようという一瞬の刹那に、彼女はゴクリと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。


 ピーッ!

 〈あ、夜分遅くにすみません。二〇四号室の渡辺です。

 あのぉ、一週間くらい前から、お隣の二〇五号室から変な臭いがするんです。

 あまりにも匂うから伺ったんですが、いつもお留守で、今日もそうなんですが、夜も眠れないほどでして。さっきもお隣に伺ったんですけど、居留守を使って出てこないんです。わたしも御近所の方とは揉めたくはないんですが、ちょっとねぇ…。

 ほんと常識を超える臭いなので、大家さんの方から厳重に注意して頂けませんか。おねが〉

 ピーッ!


 メッセージは途中で切れていた。

 ドッと疲れが出た。吐いたため息と一緒に、全身を縛り付けていた緊張も抜け出した。かけてきたのはよく知る若い女性だった。夜中ということもあり、囁くような声は篭もっていた。初め気遣いを見せていた声は、話が終わりに近づくに連れ、早口となり怒りを露にした。


「ああ、よかったぁ」


 揉め事の後始末を押し付けられたにもかかわらず、彼女の気分はすこぶる良かった。留守電の声の女性は部屋を貸している住人の中でも、感じの好い娘さんだった。会えば必ず丁寧に頭を下げ、優しい言葉をかけてくれる。そんな好印象の娘さんの普段見せない部分を見たことに、心が拒絶感に震え、良い印象がアブクが風にしぼんでいくように、ミルミル朽ちていくようで怖かった。大家は娘さんに嫌な想いをさせたばかりに、これがシコリとなり、嫌われてしまうのではと嫌な憶測の中にいた。そうこうしているうちに、いてもたってもいられなくなり、おっとり刀で家を飛び出した。


 自転車に跨り、兎に角急ぐ。時刻は午前六時を過ぎていた。苦情のあったマンションは、家から少し離れた丘を削った新開地にあった。夏の晴れた日の六時は眩しい。犬を連れて散歩する人の姿がちらほら見える。まだ街は目を覚ましていないかのように、排気ガスにまだ犯されていない綺麗な空気が清々しい。それを肌で楽しみながらも、ペダルを踏みつける足には、いつもに増して力が入いり、フツフツと沸き起こる怒りが足の疲れを忘れさせていた。

 上り坂で一旦降りて前のめりに自転車を押し進むと、見上げた空の際に問題のマンションの紺色の屋根が綺麗に映えていた。小高い丘の頂点に立ったそれは、この辺りの界隈を見下ろすことができた。

 アスファルトの照り返しに目を細める。普段使わない筋肉に負荷をかけたせいで、坂の途中で鈍痛に足を止めた。鈍く重い疲労感が、下半身と背中に重石となって圧し掛かり、一層感情を逆撫でした。朝っぱらからこんな想いをしたのも、全ては二〇五号室が原因なのだ。怒りの捨て場に急く彼女は、妄想の中で二〇五号室の住人を容赦なくいたぶっていた。

 問題の部屋は鉄筋三階建てのワンルームマンションの二階の角部屋だった。通りから二階を見上げたとき、ベランダ側の窓が少し開いていた。蛍光灯の灯りが擦りガラス越しに、白くて丸い光の環にボヤけていた。


 …朝日がこんなに眩しいのに蛍光灯?


 …一晩中、点けっ放しだったのかしら?


 そう心で呟き、彼女は先刻からの怒りを持続させたまま、今度は二〇五号室の住人の育ちや家庭環境までも蔑んでいた。どちらにしても借り主は居る。それを確認して自転車の鍵を引き抜くと、小走りで階段へ急いだ。



 ウッ!

 二階に近づくにつれ、猛烈な臭気が鼻を衝いた。

 息もできないほどの臭いに、すぐさま前掛けのポケットに忍ばせていたハンカチをマスクにした。とてもじゃないが空気を吸えない。

 次の瞬間、目の前を真っ暗な闇が覆った。階段を一気に駆け上がったのと、蒸せ返す熱気に立ち眩み、手スリに凭れかかるように踊り場にしゃがみ込んだ。朦朧とする意識に恐怖を覚えつつ、二階に目を走らせる。まだ立ち眩みが収まらないせいか、その階の空気が水の中に居るかのように不規則に揺らいで見える。


 こ、この臭い…

 ただ事ではないわ!


 恐怖と言うよりも危機感を抱かせる嫌な臭いだった。

 彼女はそう思い、ふらつく身体を起こし部屋を目指した。臭いはその部屋に近づくに連れ、色濃くなっていった。貸家でトラブルが起きる度に、呼び出される大家は楽な身分ではない。ただ大家というだけで、後始末をさせられる身分に苛立ちを覚える。

 臭いの原因が生ゴミでないことはすぐにわかった。息を吸うのが嫌になる臭い。想像力を掻き立てるこの臭いは、初めて嗅ぐ臭いじゃなかった。


 何処かで嗅いだ嫌な臭い。

 腐った魚と排泄物が混ざればこんな風になるかしら?


 しかし、それとこの臭いは微妙に違っているように思う。


 いつ嗅いだんだろう? 


 臭いを頼りに、記憶に埋没した映像を探る。それを思い出すのが怖い。しかし、その気持ちに反して、答えを見つけたいという嫌な欲求が顔を覗かせた。部屋に向かう足取りは重たかったが、確実に一歩一歩目的地に迫っていた。



 部屋の前までくるとそこは別世界だった。

 もう息ができるできないとかの問題ではない。本能的に身体がそこの空気を吸いたがらなかった。吐き気を催す臭気の塊が、見えない姿でそこに居座っているかのようだ。そのときふとある記憶が蘇った。


 この臭いはあのときの!


 彼女の脳裏に小学生の頃、飼っていた猫が、腐って変わり果てた姿で垣根の裏で見つかったときの映像が飛び込んできた。その映像にはハッキリと、あのとき嗅いだ嫌な臭いが色褪せることなくコビリついていた。

 あのときも季節は夏だった。

 まさかこっそりペットを飼っていて、死なせてどう処置したらよいかわからず、そのまま放っているのでは。マンションはペット禁止だ。先刻までの彼女の懸念は即座に怒りに変わった。しかし、


 住人の苦情にペットの話はでなかったと思う。


 ただの思い過ごしだといいんだけど…


 だとしたらこの臭いは?


 臭いは確実にその部屋から漏れていた。彼女の脳裏に、家を出る前に観た死体遺棄事件のニュースが駆け抜けた。人気のない山小屋で、登山客によって女性の死体が発見された。死体の損傷は激しく既に腐乱し、顔面は更に腐敗が進み白骨化していたという。年齢の特定はまだできておらず、一五歳から六〇歳と、とりあえず一人で行動できておかしくない女性の年齢が報道されていた。


 まさかうちのマンションで…


 そう思うのと、二の腕から頬にかけて鳥肌が波打ったのは、どちらが早かっただろう。彼女は耳の奥で早打つ鼓動に生唾を飲み込み、震える声で般若心経を唱えはじめた。


 恐る恐るドアをノックする。

 しかし、返事がない。金属製のくすんだ青いドアに耳を押し当て、部屋の中の様子を窺う。早朝とは言え、朝日を浴びたドアは驚くほど熱い。微かにジー、ジーと家電製品に通う電気の音が聴こえる。誰かがいる気配は感じられない。

 先刻くる途中に、目に焼き付けた、開いた窓から覗いた蛍光灯の白い光の環が無意識に目の前を過ぎる。部屋の住人が、今このドアの向こうで身を潜めているのかと思った途端、激しい吐き気を催し、咄嗟に奥歯を固く噛み締めた。口の中に胃液の酸味が広がる。行き場を失ったスッパイ吐息が鼻腔から外に漏れた。

 こんな中で正気な人が生活できるはずがない。部屋を貸したことへの後悔は、二階に上がった時点で起きていた。無反応の部屋に一層後悔が募る。

 しかし、その想いとは別に、彼女には疑問だった。この部屋の住人は普段から身なりも清潔で、家賃を滞納したこともない。それに、会うと必ず向こうから挨拶してくれる感じの好い娘さんだった。ゴミも分別し、出す日も守り、決して溜めるような人ではなかったのに。


 生ゴミを出し忘れて、長い間留守にしているのかしら?


 一瞬そう思ったが、部屋に居るのは確認済みだったことを思い出した。電気を点けっ放しで、しかも二階とは言え、無用心に窓を開けたまま長期間、家を留守にするとは思えない。それにこの臭いは昔嗅いだ猫の腐った臭いだ。大家にはもうそうとしか思えなかった。

 様々な憶測が駆け抜け、現実に今、先ずしなければならないことを思い出し、不安に怯えつつも勇気を奮いだして、大声で名を呼んだ。しかし、いくら呼んでも、ドア越しに返ってくるのは無音だった。彼女の声に何事かと思い、ドアを少し開けて覗き見る住人の姿に、なぜか声援を受けたようで嬉しく思い、怯んだ気持ちに覇気が芽生えた。


 さては大家と知って居留守を使うつもりなのかしら?


 そう思った途端、激しい怒りが湧き起こった。そして間髪入れずすぐさま合い鍵でドアを開いた。


 ドアが開くや否や、熱っされた腐敗臭が襲いかかってきた。それはまるで意思があるかのように、彼女の全身の毛穴という毛穴に入ってきた。何が起こったのか彼女にはわからなかった。鼻を覆うどころか、目が開けられないほどの強烈な悪臭は、たちどころにその階を埋め尽くした。次の瞬間、大家の全身の体毛が逆立った。そしてその場に腰を抜かし、見開いた目を閉じることさえ忘れ、狂ったように悲鳴を上げた。


 臭い部屋の中で、男が一糸纏わぬ格好で、彼女に向かい合う形で窓辺に凭れて、足を前に投げ出して座っていた。カーテンレールから、弓の弦のようにピンと張った黄色いナイロンの紐が首に巻き付いていた。男はタイの或る部族の女性のように、異常なまでに伸びた首で大家を見詰めていた。ゆでタマゴのような白濁の目の玉が、今にも零れ落ちそうだった。鼻の穴や口の周りは赤く爛れ、その上に炊き立ての御飯粒のような蛆が蠢いていた。無数にうごめく幼虫の餌にされた男を目の当たりにして、大家は気がフレてしまった。



 警察には大家の悲鳴で駆けつけた住民たちによって、即座に通報された。男の死は検死解剖の結果、自殺と断定された。男はその部屋で死んだまま一ヶ月以上座っていたとのことだ。

 その日は梅雨明けが宣言された、茹だるように暑い日だった。夏は腐るのが早い。もう一週間発見が遅れていたなら、男は蛆に喰われて骨になっていたかもしれない。できることなら、大家は、骨になった男を発見した方がショックは少なかったのでは。この世の中で、生き物の腐っていく過程ほどおぞましい変化はない。女性専用のマンションで起きたこの不可解な事件。一層不可解だったのは、この部屋の借り主である女性が行方知れずになっていたことだ。


 その部屋の明かりに気づいたのは、つい最近になってからのことだった。


 その部屋を借りたのは若い女だった。


 俺の部屋の窓からはその部屋が一望できた。


 その部屋で事件が起きたのは、俺がここに住み始めて一年ほど経ってからだった。ここへ越してもうどれくらいになるだろう。指折り数えるがもう両手では足りないくらいだ。


 窓辺に寄りかかり、明かりの灯るその部屋を眺めながらふと思う。その部屋の借り主は、当時短大出立ての二十歳そこそこの女性で、OL生活にようやく慣れはじめた頃だったという。女の失踪後、部屋に放置されたままのあの死体が、女の帰りを待っていたとしたら…。何とも悲し過ぎる。俺はいつしかそこで死んだ男の目線で物事を考えていた。


 男は当時、事件現場となったマンションのすぐ近くのアパートに住む二四歳の大学院生だったと聞いている。その男の人生を思うと何とも言いようのない空しさを覚える。男の親は息子の死をどう受け止めたのだろう。親は多大なる期待と夢を抱いていたに違いない。親の心中を察すると心が痛む。


 しかし、


 なぜ男はその部屋を死に場所に選んだのだろう?


 聞くところによると、この部屋の女と男とは面識はなかったという。この界隈で二人が一緒にいるところを目撃した人は誰一人いなかった。警察の捜査からも二人に接点が完全になかったことが明らかにされている。このことは事件を知る全ての人に、不可解なシコリとなって様々な憶測で飾られることになった。


 ふとこの話を誰から聞いたのかと記憶を辿る。

 もうかれこれ一〇年以上も前のことなので、記憶が曖昧になっている。


 憶えていることと言えば、ただこんな不可思議な事件が、この部屋から見えるすぐそこで起きたと聞いたということだけで、よくよく考えれば、果たしてそれも本当に人伝えに聞いたのかさえ曖昧だった。


 もう二度と夜、蛍光灯の光に浮き上がることはないあの部屋。夜になるとその部屋だけが明かりを灯さず、ポッカリと口を開いた洞窟のようで、深く濃い闇は、街灯の心もとない薄明かりに浮かび上がることはない。



 その部屋の明かりに気づいたのは、つい最近になってからのことだった。


 その部屋を借りたのは若い女だった。


 俺の部屋の窓からはその部屋が一望できた。


 その部屋で事件が起きたのは、俺がここに住み始めて一年ほど経ってからだった。ここへ越してもうどれくらいになるだろう。指折り数えるがもう両手では足りないくらいだ。


 無防備にも、帰宅すると女はレースのカーテンを閉めただけで着替えをはじめる。社会人だろうか? いや、おしゃれに気を遣った感のない普段着から察するに、近くの短大に通う女子大生ではなかろうか。蛍光灯が煌々と照りつける中で、惜しげもなく着ていた物を脱ぎ捨て、下着姿のままその娘は朝までいた。隣の部屋の厚いカーテン越しの部屋の明かりが影に見えるほど、その部屋は光を発していた。恥じらいに欠けるところから察するに、この女はその部屋を何物からも守られた鉄壁の城のように思い込んでいるに違いない。いつしかその部屋を覗き見するのは日課になっていた。



 その部屋の明かりに気づいたのは、つい最近になってからのことだった。


 その部屋を借りたのは若い女だった。


 俺の部屋の窓からはその部屋が一望できた。


 その部屋で事件が起きたのは、俺がここに住み始めて一年ほど経ってからだった。ここへ越してもうどれくらいになるだろう。指折り数えるがもう両手では足りないくらいだ。


 あの日は部屋に明かりが灯らなかった。


 自分でもわからない。


 なぜ、あんなことをしてしまったのだろう。



 その部屋の明かりに気づいたのは、…


                              了

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