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注目の的

   【注目の的】   八木商店著

 

 

 キ、キ、キ、キ、キィーッ!

「キャー!」

 ドンッ!

 急ブレーキの音がすぐ近くで聞こえた。

 振り返ると、赤いスポーツカーが五メートル先まで迫っていた。

 とりあえず慌てて悲鳴を上げてみたものの、私はスピードに乗った赤い金属の塊に激しくタックルされ、その場に鈍い音を残して大きく跳ね飛ばされてしまった。

 空中を舞ってる一瞬の間に、生まれたときから今にいたるまでの諸々の思い出を掻い摘んで見ていた。

 空中を飛んでいたから、最終的には地面に着地したんだと思う。でも、私には着地した記憶がなかった。

 私は今瞼を閉じ、うつ伏せの状態でいる。何処でうつ伏せになっているのかもわからない。まだ着地していないのだろうか?

 てことは空中に浮いてるのか?

 そんなことを考えている間に、今し方まで見ていた過去の記憶は色褪せ、意識もぼやけてきたような気がする。肉体的苦痛は全くなく快調なのはいいんだけど、つい今し方のことがもう思い出せないでいるのがちょっと気になる。

 なんだか何も考えたくない。何もかもが面倒臭く、鬱陶しく思える。

 多分、眠いからだ。

 でも本当に眠いのかどうかわからないのに、とりあえず今は眠った方がいいんじゃないかと思ってしまう。

 というわけで折角だから寝ることにした。

 今私は深い深い眠りに落ちていこうとしている。客観的に眠りに就く自分を観察している私は何者だ? とても奇妙だ。

 そのまま不思議に思いながらも、じっと目を閉じていたら、意識は何処かへ散乱してしまった。

 居心地のいい状態がどれくらいつづいたのかわからないけど、突然野太い男の声が耳元で大きく鳴り響いた。

「おーい! そこのぉ!」

 私の眠りを妨げようとするモノがいるようだ。

 男の声は耳元で聞こえたというよりも、頭の中でガンガンに鳴り響いていた。

 わざとそうしているのか、うるさく喚いている。目を開くと完全に眠りから覚めそうなので、力を込めて瞼を閉じた。というよりも、このところ睡眠不足だったから今のこの時を逃せば、今度はいつ快眠できるかわからない。だから私はその声を無視して、引きつづき眠りを楽しむことにしたのだ。

「おーい! ええ加減に目ぇ覚まさんかぁ!」

 尚もその声は大きな音を立てて嫌がらせをつづけた。

 私はそうされればされるほどムキになって、瞼を固く閉じた。力んだ目元が痛いくらいにだ。

 が! 頑なに騒音に抵抗したお陰で、完璧に眠りから覚めてしまった。

 だから余計に抵抗してやることにしたのだ。

「おーい! ほんとはもう起きとんやろ? わしにはたぬき寝入りは通用せんぞ。言うとくけどな、おまえは死んどる!」

 その途端、私は大きな円らな瞳を、これ見よがしに全開にした。

「え? 今、何つった?」

 すると目の前に一体の地蔵が立っていた。

 灰色のボディは滑らかな光沢を放ち、目を閉じてるのに私をじっと見てる感じがする。

 実に不気味だ。

 辺りは真っ暗闇で、私とその地蔵の他には何も見えない。

 何故か地蔵と私にだけスポットライトが当たっているのが妙に不自然。

「起きたか! 心配すな! おまえはもう死んどる! 往生せぇ!」

 恐ろしいことを言われたのに、全然驚きがなかった。

 何言ってんのよ! 私が死んでるですって!

 それに往生せぇやって、失礼ね!

 通りすがりの見ず知らずの小汚い地蔵に、そんなこと言われる筋合いなんてないわ!

 この私を誰だと思ってんの!

 私は失礼な地蔵に強い憤りを覚えた。

「皆まで言うな! もとい! 皆まで思うな! わしにはおまえが考えとることは全部聞こえるんじゃ! 小汚い地蔵で悪かったな!」

 ……

「お、おい! 何か言うか、考えるかせんかい! 何もわからんやろ!」

 私の考えてることがわかると豪語してくれたので、何も考えないで黙っていたら、凄い剣幕で怒られた。

 わけわからん?

 この地蔵、一体私にどうしてほしいんだ?

「そうそう、その調子その調子。おまえは喋らんかってもええから、何か考えときなさい! 遅れ馳せながら」

 そう言うと、地蔵は名紙を私に差し出した。

 それには真ん中に和名、地蔵菩薩と漢字で横に書かれていて、その上にJIZOHBOSATSUとローマ字のルビがふってあった。本名はクシティガルバだそうだ。

 地蔵ってのは芸名だったのかしら?

 電話番号やメールアドレスはなかったけど、ちゃっかり郵便番号と住所は書いてあった。

 住所って、これ何処の?

 単純に抱いた疑問だ。多分誰もが抱くだろう。

「あ、それね。それはわしが今立っとるここの番地。後まだ数億年は引っ越す予定なし」

 地蔵は当たり前のようにさらりと言いのけた。

「わしがここに立って、もうかれこれ三〇年になるかのぉ……。

 おまえが生まれる前から&死ぬ前からのことじゃ」

 失礼ね! 死ぬ前からってわざわざ強調しなくたっていいでしょ!

「ここは道路ができてから交通事故が多くてなぁ。人も犬も猫もetc.etc.兎に角よー死ぬんじゃ。去年は三人で今年はおまえが第一号よ。一番多い年で二〇人やったわい。この記録はまだ抜かれてない。

 忘れもしない、あれは今から三〇年前のことやったぁ! わしがこの地に赴任するきっかけとなった事故じゃ。その日、老人ホームの遠足で、歩道を仲良く手ぇつないで歩く年寄り集団がいた。そこに背に跨った主人の命令を見失い、荒れ狂う盲目と化した原付が突っ込んだんじゃ。その事故で平均年齢八七・八歳の二〇人の尊い命が犠牲になった。ちなみに加害者は八九歳の現役ライダーやった。正気を失った原付はその場で大破。八九歳のライダーは奇跡的に、かすり傷一つ追わず、駆けつけたポリスマンに現行犯逮捕されて今も服役中とのことじゃ」

 何の話をしてんだこいつ?

 とりあえず話は聞いてやってたけど、完全に無視していた。

「武勇伝に決まっとるやろ」

 武勇伝って?

 言ってる意味がよくわかんないけど、声に出して言わなくても、マジで私の考えてることがわかるってことは理解できたわ。でもこんな所で地蔵の能力に感心してる場合じゃないのよね。そんなことよりも私が死んでるってどういうことよ! 死んだ憶えなんか全然ないのに。全然納得できないわよ!

「あのな、おまえ、さっき車に跳ね飛ばされたやろ。それで死んだんよ。もう忘れたん?」

 車って?

 車、車、車?

 その時一台の赤いスポーツカーが記憶の断片に、恥ずかしそうに顔を出したり引っ込めたりしてるのが見えた。地蔵が言ってるのはこいつのことかしら?

「そう、それそれ。そいつに跳ね飛ばされて死んだやろ。マジで憶えてないん?」

「ええっ! ウソォー!」

 久しぶりに声に出してみました。

「わしはこの世界では正直者で通っとる! 不慮の死におうたもんの冥福を祈り、現世利益を願う一般ピープルの悲願を満たして叶えてやるんがわしの仕事やがな。そんな重大な任務を任されとるわしが、おまえにウソ吐いてどうする。申し分なく庶民のおまえは死んどる」

 こ、この私が死んだ……。

 ウソよ! だって全然憶えてないんだもん!

 ショック!

 来年くらいにはブレイクするって近所で密かに噂されてた女優のこの私が、世間の期待に応えないままに死んじゃうなんて!

 そんなの絶対に嫌! 絶対に信じないわよ!

 私は女優よ! 失礼ね! 庶民扱いなんてよしてよね! 私は庶民から脱した女優なのよ!

 それにしても何でこんな田舎街で死ななきゃなんないのよ! 旅先で事故死だなんて、しかも地方のこれまた超田舎の草ぼうぼうの全然目立たない道路で。地蔵だっているのかいないのか、生い茂った雑草で隠れてわかんないじゃない。

 ここって交通の恐ろしく不便な場所なのよ! こんな所で死んじゃったら、ファンの人たちはしょっちゅう私に会いにきてくれないじゃない! 年に一度花束携えてくるのがいいとこだわ。その内行くのが面倒臭くなって、年月を追うごとに私は皆んなから忘れちゃうのよ。

 何それ!

 そんなの嫌よ! 何考えてんの、私ったら。

 どうせならもっと素敵な場所で、女優の私に相応しいドラマチックな死に方が良かったのに。超ショック!

「何がショックなんかわしにはよーわからん? 死んだことか、それともドラマチックな死に方ができんかったことなんか?」

「両方よ! でも強いて言えばドラマチックな最期で人生の幕を下ろせなかったことかしら。って下らないこと訊かないでよ!」

 興奮してたので声に出していました。

「すまん。すまん。しかし、ショックかもしれんが、死んだ事実はどんなことがあっても覆らんのじゃ。往生してこれからのことを考えや」

 私は将来有望な女優だった。はず、かも?

 あくまでもこれはまだ夢の域を脱していない。

 でも近い将来は自他共に認める超有名な女優になっているはずだった。と信じて疑わないわ。なぜならそんな予感がこの仕事を志した頃からしてたから。

 あれは四歳の頃だったかしら?だから少々のことでもへこたれなかったわ。精神的苦痛には耐えることができた。肉体的なものは尚更平気だったわ。

 でも、今私が置かれてる状況って、何よこれ!

 私はこの事実を正気の沙汰で受け留めなければならないってのかよ!

 じょ、冗談じゃないわよ!

 私は嫌だ! 死ぬのなんて嫌! 絶対に嫌! 兎に角嫌! おまけに、も一つ嫌! 今のままで死にたくないの!

 私は跪き瞼を閉じて手を合わせた。

 おぅ、神よ! 私の一生のお願いを聞きたまえ! もしこの願いが叶うなら、未来永劫私はあなたのしもべになろう! 私を生き返らせてちょーだい! ヨロピク!

「え、何? なんか呼んだ?」

 その時、祈りを捧げる私に神の声が聞こえた。

 願いは通じたのだ。私は知人を魅了しつづけてきた可憐な笑顔を作って目を開いた。

 がっ! そこにはさっきの地蔵がまだ突っ立っていた。

 神様らしき御姿は何処にも見当たらない。見えるのは灰色の小さな地蔵ただ一体。

 すまし顔の地蔵、こいつは私をからかいたいらしい。私は祈りによって静寂さを保っていた心を怒りで武装した。

「テメェは地蔵じゃねーか!私が祈りを捧げたのは神よ!」

 激しく荒れ狂う心のうねりは、声に代わり地蔵に攻撃しかけることを殊のほか望んだ。

「神様もわしも似たようなもんジャン。細かいことを気にすなジャン! 死んどるくせにジャン」

 ジャンジャン、ジャンジャン、なんだそれ! 下手にジャンなんか使ってんじゃねーよ!

 それに死んどるくせにジャンだとぉ!

 私は野獣のような目つきで地蔵を睨み付けた。

「死んだことを信じたくないその気持ちはよくわかるサ。わしはね、ここで君のような哀れな迷える仔羊たちを、何人も見てきたんだからサ。その度に多忙な時間を割いて、カウンセリングを施して心を癒してたくらいサ。今日は久々に時間的に余裕があるからサ。君にもカウンセリングを施してしんぜよう! まー聞け!」

 はあ?

 私はマイペースに変な喋り方をする地蔵に怒りを通り越し、初めて体験する何処かやるせないもやもやした不思議な感情を抱いていた。地蔵はそんな私を無視して話を勝手にはじめてしまった。

「友人の一人にな、今ロンドンに仕事の関係で住んどるやつがおるんやけど。これはその友人から一昨日聞いた話じゃ。今から一〇年前にイギリスで本当にあった話らしい。

 世界的に超有名な女優になることを夢見とった女の話じゃ。おまえにピッタリの話や。その女は事実女優になり、超有名になった。しかし、有名にはなったものの、それは彼女が幼い頃から夢見とった形ではなかったんじゃ。

 現実と夢とは遥かに違うもんじゃ。脚光を浴びる以前、彼女はいくつかのテレビドラマに出演することができたらしい。勿論通行人の一人がええとこやったけど。オーディションは数限りなく受けた。それで役を勝ち得たのがただの通行人じゃ。それ以外は漏れなく落選しとった。

 彼女は落選する度に意地になった。そしていつか必ずスターになってみせると心に誓いを立てたんじゃ。次回は必ず受かってみせるわよ、なーんて。ついでに神にもそれに似たような台詞で祈りを捧げとった。

 でもそれは実際は神に祈るというよりは、落選した自分への慰めの言葉でしかなかった。いくら努力してもダメなもんはダメ! 演技力云々じゃなく、生まれつき持ったもの、見た目でダメなもんは容赦なく落とされる。彼女は落選するのは演技力が未熟やからやと考えた。でもそうじゃないことは本当は彼女にもわかっとったんよ。でも、わかっとったけどその事実を受け留めたくはなかったんよねぇ。なんでかわかるやろ?」

 私はしかとして聞いてない振りをした。

 勿論その間考えてることを読まれないように、何も考えないように注意を払った。

「何も言いたないようやな。まーおまえがそれならそれでもええよ。彼女が目指したのはスターじゃ。常にヒロインを演じるスターやないとダメ。でもそれは到底無茶な願望やった。彼女がいくら演技力に磨きをかけたところで、お客はインパクトに欠ける彼女に魅力の欠片も感じんかった。

 努力しても報われんことの方が世の中には多いんよね。彼女は毎晩眠る前に、手鏡に自分の顔を映しては語り掛けたそうじゃ。

『努力すれば私はもっと美しくなれるかしら? もっともっと奇麗になればスターの仲間入りも間違いないわよね』

 そんなことをしても手鏡が応えてくれるわけがない。当たり前やけど。もしも手鏡が喋ったら、彼女は女優の道を諦めて、その手鏡で見世物小屋を開いて一財産築いとったかもしれん」

 話が脇道に逸れてるぞ!

「あ、すまん、すまん。聞く者のハートを掴んで離さないわしのトークの魔力に、わし自身が魅了されとったわい。話を本筋に戻そう。彼女は実力もないのに、プライドだけは高かった。成功しない人間は皆んなそう。なんでそう思ったんか知らんけど、彼女は自分の顔が不細工やと思い込んどったんじゃ。でも彼女が思ってるほど極端に見れない顔やなかった。他人は十分にその顔で満足やったんじゃ。誰も彼女の顔を見て、目を背ける者はおらんかった。

 気にしとったんは彼女だけ。ただ単に自分好みの顔じゃなかっただけのことよ。気にすれば気にするほど、日に日に彼女は自分の顔に嫌悪感を抱いていった。彼女を知っとる人間の中には、彼女の顔を好きな者もおったのにな。それでも、彼女は日に日に嫌いになっていったんじゃ。

 容姿を誉められても、彼女は素直にそれを受け取らんかった。逆に嫌味に取って、益々自分の顔を憎んでいったんじゃ。鏡に映った自分の顔に、罵声を投げかけはじめた頃には、もう半分狂っとったんやろな。彼女の両親は本当に彼女のその顔が好きやったのに……。

 でも、彼女はその顔を捨てることにしたんよ。そうせんと完全に狂ってしまいそうやったから」

 顔を捨てるって。……何それ?

「捨てたと言うよりも、修正を重ねたと言う方がええかもな。自分の気に入る顔になるまで、整形を繰り返したらしいで。おまえの周りにもそんな人間、一〇人や二〇人はおるやろ?」

 整形してる人か? そんなの当たり前のようにいるんじゃないかしら。天然素材だけで勝負してる人の方が少ないと思うけど。

「そりゃそうやろな。彼女は自分の気に入る顔になるとイギリスを離れた。家族には勿論整形したことは内緒、誰にもその事実は言わんかったんじゃ。本当の自分、昔の自分を知っとる人の傍にはおりたくなかった。

 彼女はイギリスを離れて、自分を誰一人知らんアメリカに渡った。家族が心配するといかんから、アメリカで外交官のバイトしとるって嘘吐いとったらしい。毎月決まった額の仕送りを欠かさなかった彼女に、家族は何も疑わんかったそうじゃ。で、渡米した彼女は諦めてなかった」

 超有名な女優になることをか?

「そう。新しい顔で勝負を賭けたんよ。名前も変え、変えたのはそれだけじゃない。最終的には全ての過去の記憶も書き換えたらしいわい。要するに、不都合な思い出は忘れてやることにした。代わりに自分をヒロインに仕立てる都合のええエピソードでガードしたんじゃ。昔から彼女は面白い話を作って家族に聞かせるのが得意やったそうじゃ。その時の才能がこんなところで活かされることになるとは、彼女も想像してなかったんやろな」

 顔を変えた人間は、皆んな過去を変えようとするのだろうか。

 過去を変えたいがために顔を変える人も少なくはない気がする。

 今の世の中、そんな人は想像以上に多いのかもしれないわね。

「今の世の中案外そうかもね。突然ですが話を早送りして結論を言う! 彼女はアメリカで夢を勝ち取った!」

 マジかよ!

「驚くな! ここはまだ驚くとこじゃない! こんな話は何処の世界にも多くはないが、確実にあることや。彼女は顔を変えたことで生まれ変わった。顔を変えるということは、その人自体も変えることになる。喩えるなら、そうやな、流行ってない店が名前を変えて、改装することで繁盛するそれに似とる」

 名前と顔を変えたことで、彼女は完全に別人になった?

 でもそれは別人になったつもりでしかないじゃない。別人に変ったつもりでいるけど、本人は心に偽りを持ちながら生きつづければならないはずだ。

 彼女自身は自分が何一つ昔のままだということを知ってたはずだわ。彼女は見知らぬ土地で好きな御面をつけて、自分が理想に描く女を演じていただけにすぎないのよ。

 彼女は私生活でも、理想の人間像を演じることに徹しただけなんじゃないかしら。

「彼女は完全に過去を消し去ってしまった。まるで記憶喪失になってしまったかのように」

 記憶喪失って、またまた大袈裟な。理想の姿を演じることで、自己暗示か何かでそこまで自分を持っていくことができたら大したものだけど。記憶喪失と言っても、それは本当にそうだったのかどうかはわからないじゃない。演技だったのよ。と言うよりも、それ以前にアメリカで彼女と知り合った人たちは、彼女の口からしか昔の彼女を聞き出すことはできなかったみたいだしね。彼女は自分の都合の良いように、自分を美化した昔話を吹聴してたのよ。本当に彼女が記憶喪失だったかどうかなんて、誰にもわからなかったはずだわ。

「まあな。でもな、最期には彼女は確実に或る記憶をなくしてしまったんじゃ」

 彼女の昔を知ってる人以外には、彼女が本当に記憶喪失になったのかどうかなんて確認できないわ。病院で検査したとしても、いくら診断結果が異常なかったと言われても、彼女は記憶喪失に悩む女を演じればそれですむんだもん。

 彼女は顔を変えて別人を演じなければならなくなっただけの女だ。整形した事実は一生涯自分の顔を鏡に映し出す度に思い出したに違いない。いくら記憶喪失の真似ができたとしても、手術した事実までは忘れることはできないのよ。彼女は記憶喪失のふりをしていただけのこと。でも最期に或る記憶を完全になくしてしまって何よそれ?

「事故やった」

 何だ突然に! 事故って何んだ?

「アメリカに渡った彼女は成功して、そこそこ名の知れた女優になれたんじゃ。だが、彼女はようやく掴んだ成功も儚く死んでしまった」

 何だとぉ! 勿体無い!

 事故であっさり死んでしまったのかよ。しかしよくわからん展開だ。

「観衆の前でヒロインを演じるのが夢やった彼女は、そうなる前に悲劇のヒロインで終わった。マスコミは彼女の死亡を小さく取り上げた。でも彼女が期待しとったほど観衆は関心を寄せんかった。最期まで徹底して演じたのに。演出もなかなか上手い具合にやったのに。彼女は女優になる夢は叶えられたが、やっぱりアピールに欠けとったんよな。

 彼女はプライドだけは人並み以上やったから、こうと決めたら絶対にそうでなきゃ駄目やったんじゃ。彼女はな、絶対に自分は主演女優やないといかんという強い願望に呪われとった。主役はまだ演じてなかったけど、脇役としての演技は、ええ評価を受けとったらしいで。でも、彼女は他人の評価なんてどうでも良かったんよ。他人の引き立て役なんて、初めから御免やったし。

 結局のところ、彼女は自分に注目してくれる無数の目が欲しかっただけ。彼女は大勢の観衆から注目さえされれば良かったんよ。別に女優なんてなる必要もなかったんかもしれん。注目の的になりさえすれば、何も顔も変える必要もなかったんじゃ。

 彼女が女優に憧れたのはチヤホヤされるその姿に羨望を抱いたからじゃ。自己顕示欲という厄介なやつが、彼女を間違った方向に走らせてしまったんや」

 自己顕示欲か……。

 わたしにもそれはある。あるのが当然だ。なければこんな仕事に就こうなんて思わなかった。

 でもそれは私がこの仕事に就いてるからそう思うんじゃない。どんな職業の人でも、皆んな自己顕示欲は持っているはずだわ。なければ生きていないと思う。

 老若男女、皆んなそれがあるから生きてられるんだと思うけど。生きている以上はどんな人でも、皆んな彼女のように誰かに注目されたいはずよ。

「それが人なんやろね……。

 話に戻るが、誰からも注目されてないと思い込んだ彼女は、或る時自分を記事にすることを思いついたんじゃ。自作自演の自動車事故。でも彼女の計画にはちょっとしたミスがあった」

 自作自演の自動車事故……。なるほど、まさかその事故で死ぬとは思わなかったのね。

「違う違う。彼女は最初から死ぬつもりやった。死亡ニュースで注目を浴びたろと思ったんじゃ。だから死なない程度の事故ですますつもりは毛頭なかったんよ」

 ええ!

 何考えてんだ、その女!

 死んでしまえば、元も子もねぇじゃねーか!

「彼女の死亡ニュースは瞬く間に全米を駆け抜けた。だがそれは、

『ただ今入りましたニュースによりますと、最近ちょくちょく映画やテレビに出てる○○という女優が、自動車事故で亡くなったみたい。危険ですので皆さんも車の運転の際にはシートベルトの装着を忘れずに!次のニュースです』

 とまー、こんな短いもんやった」

 最後まで観衆の目を自分に釘付けにすることはできなかったのね。

「僅か一〇秒ほどやったけど、彼女を知らん連中からも注目を浴びることはできた」

 まあね、報道された一瞬ね。

「さっき、彼女の描いた計画にはちょっとしたミスがあったって言うたやろ」

 うん

「実を言うとな、彼女は自分自身の死亡記事なんてそんなもんはどうでも良かったんよねぇ」

 え、じゃあ一体彼女はどうしたかったのよ? 全く彼女の行動は理解不能だわ。単純にわけわからん! どう言うことよ?

「彼女が亡くなった後にな。或る噂が流れはじめたんじゃ」

 噂?

 実は彼女の死亡は自作自演の要するに自殺だったってことがバレたってことか?

「いーや、違う。彼女が生前通ってたスタジオにな、頻繁に幽霊が目撃されるようになったんじゃ。収録したフィルムのあちこちに知らん女の幽霊が写るようになったそうじゃ。御茶の間でテレビを観とった視聴者からも『変な物が写ってるぞ! ありゃなんだ!』って問い合わせの電話が殺到して、一時は局の電話がパンク状態になったとのこと」

 死んだ彼女は幽霊になっても懲りずに注目を浴びようとしたのね。

 凄い執念だわ。でも何か話が変?地蔵は知らない女の幽霊が目撃されたと言ったけど、彼女だったんでしょ? そいつ。

「その幽霊は頻繁に現れるようになって、関係者にはえらく恐れられたらしい。そんな時、或るテレビ番組でその幽霊をカメラに収める企画が起こってな。番組のスタッフは幽霊がよく目撃される場所に数台のカメラを設置した。その中には暗視カメラと赤外線カメラ、それにサーモグラフィーもあった。同時にスタジオの至る所をパチパチ写真撮ったんやって」

 で、写ってたんだ。

「そりゃーもう、まるで幽霊の方から写してくれと言わんばかりに、どのカメラにも山ほど写っとったらしいわい。勿論現像した写真にもモロにその顔がな。面白いことに色々な表情で、ポーズまで作っとったらしいで」

 だから、その幽霊って彼女だったんだろ! 早よ答え言え!

「写った幽霊の顔からは、誰なんかわからんかったそうじゃ」

 え?

 どういうこと?

 幽霊になって別人に変身できる能力が備わったとか。或いはやっぱり別人だったとか。でもそうだったら、今までの彼女の半生を綴ったこの話は意味ないよねぇ。ここまで引っ張っておいて、全く関係ない話でしただなんて言わせないわよ!

「心配すな! ちゃんと理由があるんじゃ。話は最後まで黙って聞きなさい! さっき、その幽霊の正体が彼女なんかどうかって考えとったけど。幽霊の正体は彼女よ」

 やっぱりそうじゃない。でも、何故こんなに回りくどく言ったの?

「ここまでは計画通りやった」

 ここまでは?ここまではって何処までだよ?

「ここまで言うたらここまでじゃ。彼女は注目を浴びたかった。事故で死ねば記事になる。でも、そんな事故の話は翌日になれば別の事故の話に代わってしまう。そう長くは注目されないことを彼女はちゃんと知っとった。実にしたたかな女や」

 ということは何、彼女は死んだ後、幽霊になってスタジオに出没して、カメラに自らの意志で写ることを初めから計画してたってことなの!

 まさか、そんな狂ったことを考えてたなんて。私には信じられないわ! 自分の命を一体どんな風に考えてたのよ!

「まさかじゃない。彼女は生前に真剣にそのことを計画したんじゃ。死んで幽霊になったら思う存分画面に出たるで! 未来永劫に語り継がれる女優霊になったるんじゃ! って。時代を超えて多くのファンから、存分に注目してもらいたかったんじゃな」

 そこまでするとは、本当に凄い執念だわ。

 私はただただ彼女の強烈な執念に感心するばかりだった。でもまだ腑に落ちないことがあった。どうして皆んな彼女ってわからなかったのか、そこがいまいち理解に苦しむのだ。地蔵はスタジオに現れた幽霊の正体を、最初は彼女だと誰も気づかなかったと言った。でも結論は幽霊の正体は彼女だったのだ。

 さっぱりわからん! 一体、どういう話なの?

「でも、幽霊は彼女だったんだよね?」

 黙って考えるのに飽きたので、声に出してみました。

「そう。人騒がせな幽霊の正体は間違いなく彼女やったよ」

「何故誰も彼女だと気づかなかったの」

「アメリカ人には気づく者がおらんかったんよ」

 アメリカ人には気づく者がいなかったって、何じゃそれ? アメリカ在住のジャパニーズやチャイニーズ、その他大勢にはわかってたってことかしら?

「いや、そう言う意味やない。説明が面倒臭いから話を進めることにする。幽霊の正体が彼女だと判明したのは、そのテレビ番組がイギリスで放送されたときやったんじゃ。アメリカで放送された半年後のことよ」

 イギリスで放送?

 どうしてイギリスで放送されて、幽霊の正体が彼女だとわかったんだ?

 イギリスと言えば彼女の故郷じゃないか。彼女は故郷を捨ててアメリカに渡ったのよ。イギリスで幽霊の正体が彼女だとわかっただなんて、どうやって?

「イギリスで判明したって、どういうこと? アメリカで成功した彼女は、イギリスでの一切の過去を捨てたんじゃなかったっけ? イギリスではアメリカで成功した彼女のことは知られてたの?」

「勿論、アメリカで成功した彼女はイギリスでも結構知られとったよ。でも、それはイギリスにいた頃の名前で知られとったわけやない。顔も違うし、あくまでもアメリカで成功した新しい名前と顔で知られとったんよ。イギリス人は彼女をヤンキーやと思ってたみたいやし」

 アメリカで成功した名前と顔?

 イギリスで知られていたのは、アメリカに渡ってからの彼女の名前と顔だった。

 イギリスにいた頃はアメリカで成功したときの名前でなければ、その顔でもなかったのよねって。てことは、ま、まさか!

 突然、暗い闇の中を強烈な閃光が駆け抜けたような気がして、私はハッとした。

 私に或る考えが降臨したのだ。

 ひらめいた!

「まさかとは思うけど、イギリスで放送されたとき、彼女だと気づいたのって一体どんな人たちだったの? もしかして」

 わたしの考えに間違いなければ……。

「最初に気づいたのは彼女の家族で、それから彼女と交友関係があった人たちかな」

 やっぱりそうだったのか!

「もうわかったと思うけど、フィルムや写真に写っとった幽霊は、どれも彼女が整形する前の顔やったんよ。イギリスの彼女の家族はその日一家五人揃って夕飯を摂りながら、『怪奇特集! スタジオに棲みついた悪霊!』を観ていた。怪談話が大好きな彼女の家族は、前の晩からその番組を観るのを楽しみにしとったんじゃ。

 番組は静かにスタートして、一時間が過ぎた辺りでその悪霊の映像が放映された。その時だった! 一家揃って、『オーマイガーッ!』と雄叫びを上げ、画面に映し出されたその顔に釘付けになってしまったのだ! 後は言わんでもわかるやろ」

 皆んなショックだっただろうね。まさかアメリカで外交官のバイトしてると思ってた娘が、整形して女優になってただなんて思いもしなかっただろうし、おまけに死んで悪霊になってからは、番組で特集が組まれるほどの大物になってただなんてね。当然初耳だったんですもんね。一度にダブル、いやトリプル以上のショックがあったはずよ。

「その後、母親の証言で彼女の過去は全てマスコミに暴露されてしまった。ついでに母親は彼女の暴露本を出版し、エジンバラの古城を買ってしまうほどの富豪になったそうな。

 彼女はそこまでは計算してなかったんよね。整形したことや、イギリスでの隠しておきたかった過去がマミーに暴露されるとは。まあそんなこと以上に、死んだ後の幽霊の顔が整形前の顔に戻ってたとは流石に計算外やったみたいやけど。

 隠しておきたかった昔の顔と、アメリカで築いたサクセスストーリーの両方で、彼女は死後超有名な幽霊になるとは考えてもみんかったと思うで。でも或る意味計算ミスしたお陰で、これから先の世も彼女が想像した以上に注目を浴びることができるようになったんやもんなあ。そう考えるとこれはこれで案外成功やったんかもしれん」

 亡くなった彼女は自分が整形前の顔に戻ってることに、一人だけ気づいてなかったんだね。

 なんて哀れなんだろう。

「彼女の幽霊は今も相変わらず頻繁に目撃されとるらしい。昔の顔に戻っとることにも気づかず。誰もそのことは霊能者を介して彼女に伝えてないらしいわい。あの世で整形されると面白ないからと言ってな」

 いくら整形して自分を変えたところで、やっぱり実際は何も変っちゃいなかったのね。幽霊となって現れた彼女は、自らの意志で捨てた過去をその捨ててきた彼女を知る人たちに暴かれてしまっただなんて。そしてそうなるまでは有名にはなれなかったんだもんね。整形したことは彼女にとってどうだったんだろう……。

「幽霊になった彼女は自分の意志で画面に出とるつもりじゃろうが、実はそうじゃない。結局は見世物されとるだけやからな。最近では彼女の亡霊が現れるスタジオは観光スポットになり、新たなビジネス展開で成功しとると聞く」

 結局、彼女は女優霊じゃなく、ただの間抜けな幽霊で有名になってしまったのね。

「そう言うことぉ」

 なんだかどっと疲れたわ。

 私は眩しく照らすライトに目をやった。

 ああ、眩しい!

 そうか、私も死んじゃったのね。この先私はどうすんのかしら?

「彼女のように死に恥を晒しながら、永遠にこの世に止まるもよし! 或いはさっさと死を認めて、あの世でわしに仕えるのもよしじゃ。仕えると言っても、わしはおまえをパシリには使わん。ただわしと一緒に仲良く並んで、ここに立っとったらええだけのこと」

 彼女のように笑い者の幽霊になるのはお断りだけど、地蔵に仕えるのって何じゃそれ! そっちの方がもっと嫌だわ! なんで私がこんな地蔵に永遠に仕えなきゃなんないのよ! アクティブな私が、ただじっと立ってるだけのあの世での人生に満足するわけないじゃない!

「それがここで死んだ者の定めじゃ!」

 定めってあんた! ここで死んだ人って、私以外にも結構いるって言ってたのに、何処にもその人たちの姿が見えないじゃないのよ! 他の人たちは何処へ行ってしまったのよ!

「愚か者どもは前者を選んだのじゃ」

 前者って、彼女のように死に恥を晒してってやつ? つまり幽霊になって、この世を徘徊するってやつね。

「その通り! それでわしは一人でここに立っとったわけや。あいつらわしの有り難い忠告を無視して、幽霊になることを選んだんじゃ。ったく折角カウンセリングしてやったのに、あの愚か者どもは一体何を考えとんじゃ! 恩を婀娜で返しおったわい! どんな育てられ方したんか親の顔が見てみたいわい!」

 カウンセリングって、それってただの脅しだったんじゃない! つまり地蔵は一人でここで立っていることが淋しいってわけだ。

「恥ずかしいからわしのことは考えるな。それよりもおまえはどうするんや? おまえも愚か者の仲間入りするつもりか? もしそうなればサービスとして、今後未来永劫ここで死人が出る度に、おまえの半生をわしの脚本でドラマチックに書き換えて語っていくことになるが、それでええんならそうしなさい。わしは去る者は追わん竹を割ったような気持ちのええ性分の地蔵や」

 どうやら私は軽く脅しをかけられてるみたいだ。

 去る者は追わないって、言ってることとやってることは無茶苦茶じゃない! 地蔵のくせに性格は最悪だ。私は今とりあえず、今後の身の振り方をどっちにするのかその決断を迫られてるみたいなんだけど、死んで間もない私にはそんな重大なことをすぐに決めることなんてできないわ。でもはっきりわかっていることは、ここで地蔵と一緒に立たされるのは嫌だってことだ。

 中二の春、数学の宿題を忘れて一度だけ授業中立たされたことがあった。あの時は一時間に満たない時間だったけど、私のプライドはズタズタにされてしまったのよね。私にとって立たされることはトラウマなの。絶対に立たされっぱなしの人生なんて御免だわ!

「そこの迷える仔羊よ! 時間は無限にある。短絡的に決断を下す必要はない。納得のいく答えがでるまでゆっくり考えなさい。はい、これどうぞ! お代わりはお好きなだけO・Kですので」

 そう言ってどういうわけか御茶と和菓子を出してくれた。

 なんか急に地蔵の物腰が低くなった感じがする。私がここに残るのが嫌だと知って、慌てて低姿勢になったみたいだ。御茶に和菓子か……。こんな物で私の気を引こうとしても、ダメなものはダメだよな。御茶と和菓子くらいで、中二の春のあの忌まわしい思い出は拭い去られないのよ。

「あ、言い忘れておりましたが、御茶以外にも御飲み物は何でも取り揃えてございます。御菓子も洋菓子も取り揃えておりますので、何なりと御好きな物をどうぞ」

 食べ物で釣ろうってのかよ! それに何だその言い方! さっきまでの人を見下したような言い方とは、一八〇度違ってるじゃないか。そうまでして私をここに置いときたいのかよ。そうされると余計に嫌なんだよな。

 もし私が地蔵と一緒にいる生き方を選んだ場合どうなるのかしら。多分、ここで死人が出る度に地蔵は説教をして、私はというとその新人の死人さんに地蔵の付き人のような感じで見られるんだろなぁ。そして新人の死人さんに、この御仕事に就かれてもう長いんですか? なーんて訊かれそうな気がする。

 なんなのそれ! そんな生活なんて嫌よ!

 私は女優なのよ!

 何で私が地蔵の付き人をしなきゃなんないのよ!

 変わり物の地蔵とこの先ずっとこんな事故の多い場所で、二人並んで突っ立ってるなんて絶対にお断りだわ!

 私は死んでしまったのかもしれないけど、でも、それでも注目を浴びたいの!

 私は死んでも女優に変りはないのよ!

「ちゅ、注目ならここでも十分に浴びることができますけど」

 地蔵は急に弱々しくなった。

 こんな所にいて人々から注目を浴びるなんて、どう考えても有り得なかった。ここは地方の全然メジャーじゃない通り。まあ確かにここから二〇〇メートルくらい先に、観光名所の隠れキリシタンの教会があることはあるけど、この辺りで有名なのはそこだけじゃない。もしそこで事故に遭っていれば、女優の私の哀しいエピソードが付け加えられて、この先も多くの観光客に悲劇のヒロインの物語として私は語り継がれたんだろうなぁ……。

 しかし! それは理想でしかないのよね。私は教会の前の通りじゃなく、雑草に隠れて地蔵が直立不動で待ち構えていたここで死んじゃったの!

 あーあ、なんでこんなとこ歩いてたんだろう。あの時はその教会に行こうとして地図を見ながら、もたもた歩いてたから事故に遭っちゃったのよね。

 早歩きだったら、教会の前で事故に遭ってたかもしれないのに。

 なんかそう思うととっても悔しい!

「わしは仏教プロダクションに所属している身。もしわしがイエス様サイドの身であれば良かったのだろうか?」

 いや! そういう問題じゃない!

 あんたのことなんてどうでもいいのよ。

 私は女優として生きたかったの!

 もっともっと女優として人生を横臥したかったのよ!

「し、しかし、死んだ事実は覆らんのじゃ。もういい加減、諦めなさいな」

 嫌だね!

 私は諦めないわよ!

 生きてたときもそうだった。女優を目指す私に心無い周りの人たちは、今あんたが言ったような言葉を何度となく浴びせ掛けたわ。でも私はその度に不屈の精神で、不死鳥のごとく甦ってきたのよ。そして夢を現実のものにしてきたの。そうよ、最後まで諦めなければ絶対に夢は叶うのよ!

 私は諦めない!

 どうせ地蔵のあんたにお願いしたところで、あんたには私を生き返らせる力はないみたいだから頼まないけど。私、そこの教会までいって、イエス様に願い事を叶えてもらえるように拝み倒してみるわ。イエス様って、確か死人を蘇らせたことがあったわよね?

「余所の団体のことは知らん」

 いや、これは独り言なの。もうあんたなんか相手にしてないんだからちょっと黙っててくれる! 気持ちを整理しているのに集中できないじゃない! 邪魔だからあっち行っててよ!

「あっち行けと言われても、自由にあっち行ったりこっち行ったりできるもんならとっくにやっとるわい。わしは動きとうても動けんのじゃ。何故なら地蔵だから」

 じゃあ、黙ってて!それよりもそうよ、イエス様は十字架に貼り付けになって串刺しにされても、何日かして自力で生き返った方なのよ。なんて凄い生命力なんでしょう!

 多分彼は殺された時、今の私のように自分に言い聞かせたのよ。

「生き返るのよ! イエス!

 大丈夫よ! イエス!

 私ならできるわ! イエス!

 だから絶対に諦めないでね! イエス!」

 イエス、イエスって恐ろしくポジティブな名前だったから、知らぬ間にモチベーションを上げていけたのね。自分にエールを送りつづけたイエス様にできたことが、私にできないはずがないじゃない!

 確かイエス様はただの大工だったはずよね。私はというと女優なのよ! 大工にできたことが、女優のこの私にできないはずがないわ! 私も大昔の大工を見習って、蘇ってみせわよ!

 幼い頃はイエス様よりもサンタクロースの方が親近感あって憧れたものだったわ。でもその憧れはサンタクロースの正体がお父さんだってことに気づいて、脆くも消え去ってしまったわ。けど、この際そんな夢のない話なんてどうてもいいの。死んだ今日からは、イエス様を心の友として信奉することに決めたんだもん!

 てなわけで、そこの薄汚い地蔵さん! もう二度と会わないけど、ちゃんとキョーツケして立っとけよ!

 じゃーねぇ!

「あ、ちょ、ちょいとお待ち!」

 わしの呼び止める声を振り切って、死んで間もない女優は教会へと満面の笑みを浮かべて駆けていった。

 あーあ、またわし一人になってしもた。

 周りの雑草さえ刈り取ってくれたらなぁ……。ここでも十分に通りを行き交う連中の注目を集めれたと思うんやけどなあ……。

 年寄りや小さな子供なんかは、わしの前を通り過ぎるときなんか、わざわざおじぎまでしてくれるのに。それにドライバーには否応無しに、わしのこの花束で着飾った出で立ちは目立ってるはずなんやけど。

 わしと一緒に立つんがそんなに嫌か!

 どいつもこいつも、何でわしと一緒に立っとくんが嫌なんやろ? こんな楽な仕事ないのに。

 わしには理解できん! 恐らくわしが思うに、あの女優のように小・中学の頃、先生に叱られたのがトラウマになっとんと違うやろか。授業中注意された時や宿題忘れた時、その他多目的に使われてきた先生のあの一言!

「立っとけ!」

 多分そうや!

 皆んな立つという神聖な行為が、罰ゲームやと思い込んどるに違いない。

 ここで死んだ人間は皆んな幽霊になって、プータローみたいにふらふらする生き方を選んだけど、それにしてもあの女優はちょっと変っとったなぁ。死んでキリスト教に改宗した人間は初めて見た。やっぱりちょっと普通の感性と違っとったもんな。

 それはあの女が女優という特殊な業種の人間やったからなんやろか?でも同じ女優でも、去年婚約者に整形しとったことがバレて、わしに車でタックルして自殺した女は幽霊になる道を選んだのに、何でやろ? 理解できん。そう考えると仕事の種類は関係ないみたいやね。

 まあしゃあないな。もうあんなわけのわからん女優のことなんか忘れよ。

 

 女優が事故して数ヶ月が過ぎた或る日のこと。

 キ、キ、キ、キ、キィーッ!

「ウワー!」

 ドンッ!

 おっ! また事故か?

 おや? まだ死んではないようやな。死にかけか。

 今度は男やな。年の頃は二十代前半ってとこやろか? 死んだら今度は逃がさんようにせんといかんわい。とりあえず余計な事は言わんようにせんとな。

 ということでそろそろ起こしたろかな。

「おーい! そこの若ぞう! いつまで寝とんじゃ! 早よ起きんかぁ!」

「わっ、ビックリッ! お地蔵様が喋った!」

 わしが喋るんがそんなに珍しいんけ。

 まあ確かに、人間の感覚ならそうかもしれん。

「目ぇ覚めたか」

「は、はい」

 こいつ何かえらい緊張しとるみたいやけど、何ビビッとんやろ? わしのことそんなに恐いんやろか?

「あのなぁ、初めに言うとくけど。おまえ死んどるぞ!」

「ええっ!」

 まあここで驚くのはいつものパターンや。まだ死んでないけど死んどることにしとこ。

「もう死んどんやからな、素直にこの事実を受け留めて往生せぇよ!」

「し、死んじゃっただなんて。もっと生きてたかったのに……。でも死んじゃったのなら仕方ないよな。この事実を真っ向から受け留めよう」

 なんじゃこいつ。えらい素直な子ぉやのぉ。なんかこうあっさり認められると、いつもと勝手が違ってやり難いがな。とりあえず職業だけでも訊いとこか。

「ところでおまえ仕事は何しとんや?」

「まだ学生です。一応来年の春卒業で、就職の方も一流企業に内定が決まってます。でも僕はそこに就職するのってあまり気が進まないんですよねぇ……」

「と言うと?」

「はい。友達が僕を誘ってくれてるんです。今一緒にこの道歩いてた彼なんですけどね」

 彼?

 あー、こいつの友達は無事やったようやな。かすり傷程度ですんだようじゃ。ピンピンしとる。

「で、そのピンピンしとるお友達が何て?」

「はい。彼が一緒に会社興さないかって」

「ベンチャーか?」

「まあ、そうですね」

「やめとけ、やめとけ!折角一流企業から内定貰ったんなら、そこに就職する方が無難やぞ」

「そうでしょうか?」

「ああ。ベンチャーで苦労するよりも楽した方がええ。わしはこの世界では正直者で通っとる。不慮の死にあったものの冥福を祈り、現世利益を願う一般ピープルの悲願を満たし、叶えてやるんがわしの仕事じゃ。そんな重大な任務を任されとるわしが、おまえのような素直で哀れな迷える仔羊にウソ吐いてどうするんじゃ。

 わしはここでおまえのような人間を何人も見てきた。その度に多忙な時間を割いてカウンセリングを施し、心を癒してきたんじゃ。今日は久々に時間的に余裕があるから、おまえにもカウンセリングしてやってもええんやけどどうする? 受ける気ぃあるか!」

「折角ですから是非お願いします」

「そうか。ほんならよー聞け! 今のおまえにグッドタイミングで入手した話がある。これはな、今モスクワに住んどる後輩から昨日聞いた話なんやけどな。今から一〇年前にロシアで本当にあった話じゃ。宗教に狂った女の話でな。話はその女が死んだ時からはじまる。

 生前その女はそこそこ名の知れた女優やった。或る日、ボウッとしとって車で跳ね飛ばされて死んだんじゃ。死んだ女は暗闇の中で一筋の光に照らされ目を覚ました。そして天女たちの囀りが華やかに響き渡る中、一人の偉大な存在の大いなる声に心の平安をもたらされることになる。

 女が目を覚ますと、そこには大いなる声の主が姿を現わしとったんじゃ。女はその光り輝く存在を前に、ひれ伏して祈りを捧げた。人知を越えた存在との初めての遭遇に、畏敬の念を払わずにはおれんかったんじゃな。女は神秘との遭遇に恍惚間を覚えた。そして瞬時に宗教心に芽生えたんじゃ。

 女が生前一度足りとて宗教心に気を取られることはなかった。が、しかし、偉大な存在はそんな迷える仔羊の心をも、瞬く間に虜にしてしまったんじゃ。女は即日入信を決意した。

 まあ確かに入信の際に偉大な存在から誘いの一言がなかったわけではないが、結局入信を決意したのは女の決断やった。女はいかなる時も、鳴り止まぬ偉大な存在の語る説法に耳を傾け、悟りとは何ぞやと心の修練に励んでおった。しかし、そんな女の心に魔が刺す一大事件が起きた。

 昔付き合っとった元彼が、女の死後数年後に死んだ。そして死後の世界で二人は再び再会してしまったんじゃ。元彼は悟りの境地に間もなく達しようとする女の耳元で、甘い吐息を吹き付けて囁いた。『ねえ、そんなつまらない修行なんか辞めて昔の二人に戻らないか』と。女の心は激しく揺れ動いた。そして」

「そしてどうなったんですか!」

「女は元彼に走った」

「なんてことだ! 折角悟りの境地に達しようとしてたのに。彼女は一体何を考えてたんだ!」

「おまえの怒りは予のハートにも響いたぞよ! そこの若いの! 荒ぶる魂を鎮めよ!」

「愚かな女の愚行に、つい僕としたことが取り乱してしまいました。失礼をお許し下さい!」

「元彼に唆された女は愚か者となった。悟りの境地に達する寸前には、いつも必ずクリアしなければならない大きな試練が現れるものじゃ。女はそれを見破ることができなかった」

「で、その女はどうなったんですか!」

「女は元彼が起こしたベンチャー企業で作った借金の返済に追われ、遂には夜逃げしたとのことじゃ。もし悟りの境地に達しておれば借金苦に悩まず、夜逃げもせずにすんだものをのぉ。借金は生きてる時にするもんじゃ。死んでから借金してどうする! これがベンチャーに夢を見た者たちの結末じゃ!」

「ベンチャーって危険を孕んでるんですね……」

「断定はせんが、ベンチャー企業で苦しむよりも一流企業で塩梅ようしとる方がええで。予はそう思うぞよ」

「そ、そうですね。あ、あーあっ!」

「な、何じゃ、何じゃ! 突然大声出したりして、ビックリしたやろがぁ!」

「誰かが僕を呼んでいます! こ、この声は友達の彼です! 僕に会社設立を誘ってきた彼の声が聞こえる! あ、段々声が大きくなってきた!」

「な、ならぬぞっ! その声を聞いてはならぬー! 耳の穴を塞ぐのじゃあ! おまえはもう死んだんじゃあ! その声の方に行ってはならぬぅーっ!」

 わしの呼び止める声も聞かず、死にかけの若ぞうは生き返ってしまった。

 あーあ、またわし一人になってしもた。この先多分まだまだここで死人が出ると思うけど、その度にわしはこんな惨めな思いせんといかんのやろか。

 なんかもう嫌やなぁ。

 ここで立っとんも、なんかアホらしなってきた!

 大体こんなしょうもないとこで事故なんかすんなよな! 事故なんか起こしたから、わしがここで立たんといかんようになったんやろ!

 どうせならもうちょっと賑やかなとこで立ちたかったなぁ……

 あーあ、ったく全然目立たんやん! ここ

 

 

                                                  了

 

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