㥯 《オン》(すぐそこにある闇) 第二三節
『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』 八木商店著
第二三節
「よし! あともう少しだ!」
一同が見守る中、ドアに打ちつけられた最後の板が慎重に剥がされようとしていた。廊下の隅には外された大きな木板が積み重ねられている。井上は懸命に作業に当たる佐々木たちを横目に、観音様の本当の正体について民宿の主人を問いただしていた。
「何です! そのヨリマシって?」
主人は身体を震わして頑に口を閉ざすばかり。
「奥さん! ヨリマシって何です?」
怯えて声の出ない主人に訊ねても埒が明かないと踏んだ井上は、女に訊ねた。
「私も今初めて聞いたんでわかりません」
女の声も震えている。主人が言葉を失ってしまったことからも、それが相当に危険な物であることは理解できた。
逃げなければ助からない。何故主人は仰々しくも助からないといったんだ? そのヨリマシってヤツに殺されるとでもいうのか? 理由をちゃんと話してもらわないと、どう対策を練ればいいのかわからないじゃねぇか!
井上はただ怯えるだけの主人を歯がゆく思った。
「ヨリマシが恐ろしい物なのかどうか、ご主人は実際見たことがないからわからないんでしょ! それも村の言い伝えじゃありませんか! 俺は最初、部員たちが奇怪しくなったのは、この村のしきたりに従わなかったから、この村に棲み憑いた亡霊たちの祟りに遇ってそうなっちまったんだと思ってました。さっき禊川で清めの儀式をしていたとき、いやその後もずっと祟りにちがいないと信じていたんです。
現実に俺たちは心霊現象を写した写真を供養してもらうときに、護摩壇の炎に投げ込まれた写真から不気味な腕が伸びてきたのを見ましたからね。そして更に追い討ちをかけるように、御祓いをして下さった住職が、炎に包まれて真っ黒焦げになるまで焼かれてしまいました。でも不思議なことに足だけは、足首から下の部分だけは炭になることなく焼かれずに済んだんです。
俺は完全にビビリましたよ。祟りなんてそんなの迷信で実際には起こりっこないと思っていただけに、本当にあることを知りかなりのショックを受けました。でも不思議だったんです。お年寄りの坊さんは、部員たちが奇怪しくなったのは祟りの仕業じゃないって断言しましたからね」
井上には息子さんを祟りによって亡くされた僧侶の哀れな姿が思い出されていた。
「でも、祟りとしか思えなかった。さっき禊川で清めの儀式をしてるときです。急に川下から突風が吹いて、それは段々強くなり、川の流れを逆流させてしまったんです。それを見たときもやっぱ不思議な物の力が働いているんだと思いました。でも、ご主人の話を聞いている内に、あることに気づいたんです。俺たちは自分たちに自分自身で暗示を掛けていたんじゃないかって。最初にこの村を知ったのは後輩の紹介だったんです。その後輩はほら、あそこで壁をガリガリしてるヤツですよ」
井上は壁に爪を立てる痩せこけた加藤を指さした。
「その頃、俺たちは合宿先を探していました。金に余裕のない学生にとって、彼から聞いたここはナイスでした。誰も文句はいわないと思ってました。でも紹介した彼一人が反対したんです。俺たちは加藤にその理由を訊きました。すると彼は昨年この村を旅した友人の話をしました。その友人もご主人がお手紙を頂いた方のような経緯で死んだそうです。加藤はそのとき部員たちには友人が死んだ話まではしませんでした。でも部員たちの心にある種の不気味な影が余韻を伴って残ったのは間違いなかったと思います。
その後、俺たちは彼に友人が死んだ経緯を訊こうともせずここにやってきました。村に着いたとき、誰もがこの立地条件に不気味なイメージを掻き立てられたはずです。真夏だというのに陽も射さず薄暗いんだから、何かあるんじゃないかって思うのが普通ですよね。ここの街並みもかなりの時代物だった。だから益々皆んな自分たちが昔から抱え込んでいる不気味なイメージと、つまり亡霊です、それと無意識に結び付けていったんです。誰もが見た瞬間に鳥肌が立つようなアイテムが、ここにはごろごろしてましたから。正直、俺も村に入った瞬間から寒けを感じていましたよ。そしていつもあることを考えるようになっていました」
主人は意識が定まらないままに怯えて震えていたが、女は真剣に井上の話に耳を傾けていた。
「変なことが起こらなければいいなってね。どう考えてもここには誰もが不安を募らせる要因が詰まってました。言い方を換えれば不安を煽る物しかなかった。誰もがこの村、この民宿に入った瞬間に頭に過ったはずですよ。加藤が何故ここにくることを拒んだのか、わかったような気がしました。誰も彼の話を最後まで聞いてなかったんです。だからこそ自分たちで勝手な妄想を描いてしまった。くどいようですが、この村、この民宿は充分に嫌な妄想を駆り立てる要素がありました。
俺は彼から友人が亡くなったことを聞かされてましたけど、その結果がこの村と関係あるとは思えませんでした。死という結果を知ってたから、他の連中のように妄想を働かせることもありませんでした。でも、それでもここは充分に寒けを感じさせてくれましたよ。部屋には御札、造りは古く至る所に修繕した後がはっきり見える。おまけに開かずの間まで用意してくれてるんですからねぇ…。十分に歴史をイメージさせてくれましたから。簡単にその歴史を築いた人たちの生前の様子を想像することができたんです。基本的にその人たちはもう生きてないでしょ。仮にいたとしてもそれは亡霊となってだ。
皆ここに着いた瞬間に、忌み知れぬものが取り囲んでいるんじゃないかと思ってしまいました。暗示です。条件は余すところなく揃っています。村に足を踏み入れた瞬間には既に、意識の中の決して押してはいけない自身を不安と狂乱に追い込むスイッチを押してしまってたんです。確か合宿は二泊三日の予定でしたが、足だけのお化けが出たってことで一日切り上げて帰ったはずです。そのときご主人はそんな幽霊なんて見たことがないっていわれましたよね?」
主人はこくりと頭を縦に振った。どうやら話は聞いていたようだ。
「結論からいいますと、ご主人のいわれた通りだったんです! ここには幽霊なんて昔からなかったんですよ! 俺たちは自分が自分自身に掛けた暗示によって、幻覚を感じるようになっていたんです。普段住み慣れた環境とは異なる状況に置かれれば、普段感じない神経が妙に研ぎ澄まされるもんじゃないですか。俺たちはそいつを自分たちが昔から心に抱いていた怖いもの、つまりお化けだの幽霊だのというものに結びつけてしまったんです。だから皆、自分の冷静さを欠いた思考によって操られてしまったんです。皆、自分が幼い頃から心に抱いていた忌み知れぬものによって、精神と肉体をむしばまれていったんです。多分、俺とあそこにいる二人もご主人から不安を解くお呪いを教えてもらわなかったら、連中のように奇怪しくなっていたのかもしれません。
俺たちはご主人の言葉で理性を取り戻すことができたんです。足を洗えってやつでね。そのときは意味はわからなかった。でも回りで他の部員たちが奇怪しくなっていく内にわかったんです。どうして俺たち三人だけが無事でいられたのか。それはご主人の忠告を守ったからだって。でもそんな俺たちにも写真に異常がはっきりと見えてました。でもあれは見えてたんじゃない。見せられてたんです。というのも写真を見せられる前に女性部員から断りがありました。写真が変だってね。そして後輩が真先に写真を手にした。
後輩は女性部員の言葉によって妄想を抱いたんです、妄想を駆り立てたすぐ後に見た写真には異常が見られていた。後輩は写真が奇怪しいことを皆にいいました。女性部員や後輩の一言によって、連鎖的に回りの連中にもはっきりと写真の異常が確認されてしまうようになったんです。俺たちはそのときはまだお呪いの意味を知らなかったから、連中と同じだったと思います。
大学はその後すぐに長い夏休みに入りました。どういうわけか俺とあそこの二人は合宿のことを忘れることができてたんです。多分、お呪いが効いてたんでしょう。でも他の部員たちは合宿のときに植え付けた自己暗示から解かれることはなかった。夏休みも終わり、後期がはじまりました。そのときはじめて知ったんです。部員たちの様子が奇怪しいって。部員たちは皆、加藤の友達が辿ったように奈落の底に転がっていきました。夏休み前に写真を皆で見たときに、そのとき初めて加藤が友人が死んだ経緯を皆に話しました。再び皆は不安を煽られたんです。だって、不思議に見えた写真や加藤の話は充分に人間の理性を蝕む要因になり得ましたから。写真は暗示に掛かっていない人が見たら、普通の写真に見えたと思います。
俺たちは後期になって奇妙な噂のあるアパートの話を、外部の者から知りました。そしてそのアパートが加藤のアパートじゃないかって思い込んでしまったんです。そこから部員たちが奇怪しくなったんじゃないかって思うようになりました。現実に自己暗示に掛かった連中は奇怪しくなってましたよ。大学で広まったアパートの噂を聞いてから、写真を確認したんです。写真を確認する前に俺たちも再び噂を信じたばっかりに暗示に掛かったんだと思います。でもお呪いの効果は健在だという気持ちもありました。確認した写真は更なる変化があるように見えていました。でも実際は何もなかったんだと思います。
御祓いをしてもらおうと写真を住職やお年寄りの坊さんに見せたときも、なんか変な顔をされましたからね。変といっても今思えば多分こうだったと思います。この写真のどこが奇怪しいの? ってね。でも俺たちは完全に祟りだと思い込んでいた。そりゃそうでしょ、原因がわからないままに部員たちは皆衰弱していってたんですから。おまけに子供の幻覚を相手にぶつぶつ独り言を呟いてるんですから。子供の幻覚は多分村で目撃した粗末な恰好の子供が、強烈な印象で脳裏に焼きついてたからだと思います。ご主人は村には子供はいないとおっしゃられました。そうです。この村には子供はいないんです。恐らく俺たちが見たのは、あれは余所の町の子供たちだったんでしょう」
井上は自分の推理を話しつづけた。
「子供は、子供は本当にこの辺りにはおらんのです!」
呻くような声で主人が言い、井上の腕を強く掴んだ。井上はその手を優しく包み返して再び語りはじめた。
「そうです。ご主人がおっしゃられるとおりです。余所の町の子じゃなかったとして、俺たちは子供の幻を集団で脳裏に作りだしてしまってたのかもしれませんからね。皆、村に人気がないことに妙に敏感になってました。心の中で人気を求めてたんです。それが不気味なこの村から受けたインスピレーションによって、子供の幻影を作ってしまったんでしょう。
この村の不気味さはこの立地条件と、度重なる土砂災害によって大きな被害を受けてきたという歴史の上になりたってます。それらの情報を俺たちは自分勝手に様々な不気味なものと結びつけて、歪曲させて新しいものにして幻覚を生み出してしまったんですよ。ご主人がいわれたこの村に伝わる挨拶もそうでした。俺たちにはその意味がわからなかった。だからこそ勝手に悪いイメージに結びつけて解釈しようとしたんです。
この村は閉鎖された環境にあります。だからこそ情報化の波に飲まれることなく、現代に至っても尚、過去の亡霊に捕らわれて不確かな習わしだの言い伝えだのといった迷信に縛られつづけたんです。ご主人もその暗示に掛かっているんですよ! ここが迷信に縛られた土地なのは、ご主人のような暗示に掛かった人がいるからなんです。冷静になって目を覚ますんです! ここは怖いことなんて何もない土地なんです!
部員たちの体調が急速に老化した原因の一つに、この村にだけに生息した細菌がいたのかもしれません。これは完全に俺の推測ですけど、その細菌は足の爪の間や毛穴から体内に侵入し、村から出て異なった環境で突然変移を起こしながら宿となった肉体を侵していったのかもしれません。どういうわけかその細菌は真水や石鹸で洗っても落とすことはできないが、あの川、禊川の水では洗い落とすことができたんです。多分、あの川の水にその細菌を殺す成分が含まれていたからでしょう。
科学が発達していなかった大昔から、あの川で洗えばいいことはわかっていた。昔の人間は老化させる物がウイルスとは知らなかったから、何故あの川で洗えば平気なのかという確固たる理由はわからなかったんです。わからないから迷信に結び付けて、村に残して習わしとして受け継がせたんです。でも、科学が発達した現代に至っては、原因究明は必至でしょう。お手紙にもあったように、病院で精密検査をしても原因がわからなかった。だからといって祟りだと短絡的な結論に至るのは、事実が見えていないってことですよ。
恐らくその細菌はこの村にしかいない新種なんです。だから今の現代医学でもまだその処方が掴めていないだけなんです。あの川の成分検査をすれば治療薬も作られるはずです。環境の変化に伴う細菌の突然変移が、宿となった人の身体から栄養を過剰に奪い取った。ただそれだけのことだったんです」
井上は一連の現象を辿る中で至った自分勝手な推測を話し終わった。
「お客さんがそれで満足するんやったらそれでかまいません」
主人は肩を落として言った。井上に向けられた主人の顔には呆れている様子が見られた。
「迷信に縛られては駄目です! 今もいいましたが、すべて科学的に解明されるんですよ。科学はもう迷信を確信へと変えるところまできているんですから!」
「わしはこの村で生まれ、あの事故が起こるまで住んどりました。しかし、この家で幽霊を見たとか気配を感じたという話は聞いたことはありません」
「はい。ここにはそんなものはいませんからね!」
「しかし、これだけはいえるんです。そこに祀られとる憑坐は、あれだけはお客さんが話してくれたような科学で解明できるもんとはちがうと!」
「ヨリマシが何なのか知りませんが、ご主人はそんなに怖がる必要はないんです! 必ずそれも科学的に証明されるはずですから」
主人は断固として井上の考えを聞き入れようとはしなかった。
「これは家内にもいうとらんことです。わしの家系は憑坐を守るのが昔からの役目やったんです。これは家内も知っとることです。でも本当の役目は開いた扉を、絶対に中から開かんように板で封鎖するのが役目やったんです。憑坐が動きだしたら誰にも止められんのです。
五〇年に一度憑坐は乗り移る相手を変えるんです。わしらはその新しく乗り移った憑坐が、あの部屋から出て悪させんように扉を板で打ちつけたんです。扉が開くと憑坐は新しい身体を求めますんでな。一旦捕まったらもう絶対に逃げられません! これはわしのオジイから聞いた話ですが、憑坐が新しい身体を選らんどるあいだは、わしらのようにお役目を持った家の者はすべての儀式が終わるまで、自分の意志では身体を動かせんようになるそうです。恐らく憑坐に身体を操られてしまうんじゃろというとりました。
憑坐を納めるときは選ばれた限られた人だけじゃないといかんのです。憑坐が気を悪して、怒らさんようにするためにです。一度怒らせたら誰にもそれは抑えられせん。そこらにおる者は多分皆んな命取られるか、もうまともには生きられんじゃろ」
主人の目は真剣だった。井上はその目に自分が力説した持論をもっても拭いさることのできない心の呪縛があることを知った。
「もう話はええけん、あんたは早よお逃げなさい! あの板が外される前にここから立ち去るんじゃ! ぐずぐずしとったら憑坐に移られるぜぇ! 板を外した人らはもう駄目じゃ。憑坐の扉が開いたら、わしら夫婦も恐らくオジイがいうたようになんもできんようにならい。もうまぁ開くでぇ。開いてしもたら、わしはあんたを助けられんようになる。まだわしの身体がまともな内に、ここから早よ逃げなさい!」
井上は主人の鬼気迫る訴えに全身に鳥肌を立てていた。
「そ、そういわれましても表は土砂が」
「土砂よりももっと恐ろしいことがこれから起こるいいよんんじゃ! 表に出たらなんとかなります! 一刻も早よここから逃げな、本当に取り返しのつかんことになるぜぇ! お客さん! あんた、もう家に帰れんようになってもええんかな!」
なんとも言えない筋肉の硬直感が井上の全身を包んだ。
民宿の主人がそこまで恐れるヨリマシって一体何なんだ! まるで生き物のような話し振りだ。得体が知れないだけに、心臓が引き裂かれるような怖さを感じる。不安は消えることなくどこまでも追いかけてきて、逃げ場のない緊張感が全身に走るのが気持ち悪い。
「あ、あの、ヨリマシって一体何なんです?」
顎が震えて思うように声にならないのが、井上には恐かった。井上の掌は汗でまみれていた。そして何かに頭が締めつけられるような痛みも感じられた。
一体どうなってんだ俺の身体は? 身体が思うように動かない。あのときお寺で腰を抜かしたときは、まだ反射神経は有効だったけど、今はそれすらも停止しているみたいだ。
「憑坐はの、霊媒に使う子供や、人形じゃ! 今ここにおるんは子供に似せた人形じゃ! 災いが村を襲ったときに、昔からここでは物の怪を憑坐に移して、村の災いを治めさせる儀式が執り行われとったんじゃ!」
そう主人が叫んだ瞬間、井上は主人に腕を凄い勢いで強く引っ張られて階段の下に突き落とされてしまった。井上は階段からけたたましく転げ落ちて土間まで転がり、水が噴出す入口のドアの敷居に頭をぶつけてようやく止まったが、同時にそのまま意識を失って伸びてしまった。