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㥯 《オン》(すぐそこにある闇) 第十六節

  『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』     八木商店著

 

第十六節

 

 井上たちから連絡をもらったその日の夜、加藤の両親は電話の内容には半信半疑だったが兎も角新居浜を発った。高速を飛ばしに西へ、カーラジオの時報が午後一一時を知らせると同時に松山の夜景が見えてきた。加藤の両親は予てから松山で一人暮らしする息子に不審を抱いていた。夏休みは帰省すると事前に連絡があったものの今年は帰ってこず、おまけにこの数ヶ月携帯が繋がらない。父親は東雲荘の向いに車を停め、妻が息子を呼びに行っているあいだ車内でタバコを吹かせながら待っていた。時刻はそろそろ午前零時になろうとしていた。静まり返った東雲荘に母親のドアをノックする乾いた甲高い音が鳴り響いた。

 トントントン!

「健ちゃん!」

 夜中の訪問に母親は小さな声でドア超しに声を掛けた。

 トントントン!

「健ちゃん! いるんでしょ。お母さんよ。お父さんも外で待ってるの」

 トントントン!

「さっきね、健ちゃんの大学の先輩からお電話頂いてね。健ちゃんを連れてどうしても一緒にきてもらいたいとこがあるって」

 トントントン!

「いるんでしょ! ここにくる前に、大家さんに電話したらいるっていってたわよ。なんか感じ悪かったけど、あなた何か問題起こしたんじゃない? 大家さんは何もいってくれなかったけど。健ちゃん!」

 一向にドアは開かない。苛立つ母親はついつい隣近所が寝静まっていることも忘れて声を荒立てた。

 トントントン!

 ノックする手にも自然と力が入る。

「健ちゃん! 早く開けなさい!」

 トントントン!

「なあなあ、お父ちゃん、お父ちゃん! 誰か戸ぉ、叩きよるでぇ。開けんでかまんの?」

「あの声は僕のお母さんだ」

「お父ちゃんのお母さん? ほんならわしらのオバアけ?」

「そう。君たちのお婆ちゃんだ」

「わし、オバアに逢うたことない。逢うてみたい! 逢うてみたい! なあ、早よ戸ぉ開けよや!」

「うん。そうだね」

 加藤はドアを開けに子供たちから離れた。

 カチッ!

 ギィー!

 ドアの鍵が開く音が響いた。つづけてドアが音を立ててゆっくり動きはじめた。母親の苛立ちはすぐに消えた。久しぶりに逢う息子を笑顔で出迎えようとした。ドアが開き、加藤が現れた。

「健ちゃっ、あらっ? お宅は? あらっ? 私、部屋間違えたのかしら?」

 開いたドアの向こうに立っていたのは、恐ろしいほどに痩せこけた見知らぬ老人だった。加藤の母親は驚きと戸惑いを隠せないでいた。

「あの子ったら親に内緒で引っ越したのかしら! でも、でも変よねぇ? 大家さんはそんなことを一言もいわなかったわ」

 母親は困った表情を見せて、その場を繕うようにあれこれぶつぶつと言ってみせた。そして勇気を振り絞って老人に声を掛けた。

「あのぉ失礼ですけど、ここうちの息子の部屋じゃございません? お宅は何方?」

「僕だよ。何いってるの?」

「はぁ? 何をおっしゃってるんですか? 奇怪しなことをいわないで下さい! うちの子の部屋であなた何してらっしゃるの! 息子は、健も一緒なんですか?」

「僕だよ! 奇怪しなことをいってるのはお母さんのほうだよ。僕の顔を忘れたの?」

「あのぉ、こんな夜中にふざけないで頂けます! 息子の部屋に断りもなく勝ってに入り込んで、警察呼びますよ! あなたがこの部屋にいること息子も知ってるんですか!」

 そこまで言ったところで母親はあることに気づき、顔を引きつらせた。

まさか、この人、ど、泥棒! あの子は多分夜中のバイトに出てるんだわ。以前大家さんから、ここに住んでる学生さんは皆夜遅くまでバイトしてると聞いたことがあるもの。こ、この男はこの時間帯アパートに誰もいないことを知っていて泥棒に入ったんだわ。ど、どうしたらいいの! 男が刃物でも持っていたら! しまった! わ、私、男の顔を見てしまったわ! ど、どうしよう! 早く逃げないとこのままだと、

「殺されるぅー!」

 叫ぶと同時に母親は大急ぎで駆け出した。父親は血相を変えて取り乱しながら突然車に乗り込んできた妻に何事かと訊ねた。

「ど、泥棒! 泥棒が、健ちゃんの部屋にいたの!」

 息を詰まらせ震えながら妻は言った。

「何ぃ! 泥棒だって!」

「お、おじいちゃんの泥棒が!」

「け、健は無事なのか?」

「わからない!」

 言葉を吐いて崩れた母親は、そのとき日中しつこく掛かってきた不可解な電話の内容を思い出していた。

「加藤君の様子が奇怪しいんです! 恐らくお母さんは彼の変貌をご存じないと思いますが、今ならまだ間に合うんです。彼を救えるのは家族の方だけなんです!」

まさか!

 電話でいってたことってこのことだったのかしら! でもそんな馬鹿なことが。でも。

「ええっ!」

 母親は電話の内容を思い出し、驚きのあまり大きな声を出してしまった。母親にとっては信じがたいことだった。今のあの老人あの健ちゃんだなんて。

「おい、どうした!」

 突然声を上げた妻に驚き父親は訊ねた。

「ど、泥棒じゃないのよ」

 妻は確信を抱いて呟くように言った。

「どういうことだ?」

「あれは健ちゃんなの。健ちゃんがおじいちゃんになっちゃったのよ」

妻の声を震わせて崩れ落ちながら吐き捨てた言葉に、父親は妻から息子の大学の先輩から受けた奇妙な電話の内容を思い出していた。父親は妻の話を真剣に受け留めてはなかった。だがそのとき同時に彼は昨年息子から聞いた友人の奇妙な死の報告が思い出されていた。友人が変調を来したのは、ある村に旅に行ったことが原因だと息子から聞かされていた。亡くなった友人は加藤の父親も昔からよく知る子だった。旅から帰って以来部屋の中に閉じこもりがちになり、最後には衰弱してミイラのように痩せ細って亡くなってしまった。親御さんたちはその子を幾つもの大学病院に連れていったそうだが、原因は不明でわからないと言われ、現代医学ではまだ解明されない病気に感染してしまったのだと親御さんから聞いたことがあった。妻によると息子はそのことを知りながらも、夏にその村にサークルの合宿で訪れたという。

ま、まさか健もその村で奇怪しな病気をうつされてしまったのでは! 健もあの友達のように、いや、まさかそんなことはない! しかし、今日大学の先輩からあったという電話。内容は尋常ではなかった。

「おい! 本当に健だと思うか?」

「わからない」

 兎に角、事実を確かめようと父親は妻を連れて息子の部屋に向かった。息子の部屋の前まで行き、父親はドアをノックしてからドアノブに手を伸ばした。

 カチッ!

 部屋は鍵が掛けられてなかった。父親は恐る恐るドアを開けた。

 ギ、ギィー!

 ドアはゆっくり開いた。部屋の中は真っ暗闇だった。廊下の照明は点いたり消えたりして心もとない。今にも切れそうだ。父親は明かりを寄せつけない部屋の中を、目を凝らして覗いた。

暗くてよく見えんなぁ。本当にここに男、いや健がいるのか? 人の気配がまったく感じられない。

 父親は不審に思いながらも小さく声を掛けてみた。

「け、健、いるのか?」

 暗闇が醸しだす不気味さが父親の呼びかける声を上擦らせた。

「健ちゃん! 今度はお父さんも一緒よ」

 母親も父親の背後に隠れながら声を掛けた。応答は何もない。トントントン! ノックと共にもう一度暗闇の部屋に微かな声を投げ込んだ。

「おーい、お父さんだぞ。健いるんだろ、迎えにきたぞ」

 ガサガサガサガサガサッ!

 ヒュー、ヒュー!

「何だ!」

 父親は暗闇の中から聞こえた物音に一瞬心臓が止まりそうになり声を詰まらせた。人の気配は感じられなかったのに誰かいる!

「だ、誰だ? 健か?」

まさか、健ではなくて本当に泥棒じゃあ!

 父親は後退りしてドアから離れて、もう一度部屋の中を凝視した。

 ガサガサガサガサガサッ!

 スーッ、スーッ!

 目に見えないが確実に暗い部屋の中で何かが動いている。

なんなんだ、この部屋は! 本当にこんな薄気味悪いとこで健は暮らしてるのか!

「あのおいさん誰なん?」

「あの人は僕のお父さんだよ」

「ほんならわしらのオジイじゃな?」

「そういうことだね」

「なあ、なんでお父ちゃん、オジイが呼びよんのになんもいわんの?」

「お父さんは君たちと朝から晩までずっと一緒にいるだろ」

「うん」

「だからずっと大学行ってないんだよ。無断で休んでたから多分怒ってるんだろうな。お父さん大学行ってないことお爺ちゃんとお婆ちゃんには内緒にしてたからね。多分凄く怒ってるんだと思うよ」

「お父ちゃん、怒られるん?」

「多分ね。怒られるの嫌だから、お爺ちゃんには逢いたくないんだ」

 加藤の両親は不気味な物音に怯えながらも、耳を澄まして部屋の中の様子を伺っていた。

「おい、部屋の中は人の気配がないのに、でも何かいるようだぞ。おまえも今の音聞こえただろ?」

 不可解な物音に驚き、父親は妻に訊ねた。

「ガサガサッ! って何かが動く音でしょ」

 母親も声を震わせて言った。

「呼び掛けても返事がないけど、本当にここにいたのか?」

 父親は小声で妻に訊ねた。

「ええ」

「今度はおまえが呼び掛けてみて?」

 そう言うと父親は妻の背後に下がって、妻越しに部屋の中を覗き込んだ。

「健ちゃーん! お母さんよ。お願いだから顔を見せてぇ」

 ガサガサガサガサガサッ!

 スーッ、スーッ!

「お父ちゃん、またオバアが呼びよるで!」

「うん」

「オバアも怒っとん?」

「わからないけど」

「怒っとんかどうか訊いてみたら?」

「あ、でも、多分、怒ってるよ」

「健ちゃーん! 大学の先輩から電話があってね、今から皆で佐田岬に行くの。あなたも一緒に行くのよ、だから出てらっしゃい」

 ガサガサガサガサガサッ!

 スーッ、スーッ!

「お父ちゃん、佐田岬いうて何なん?」

「君たちが昔住んでた村があるとこだよ」

「オバアが行くいいよるけど、お父ちゃんも行くんか?」

「いいや。僕は行きたくないな。だって皆も行きたくないだろ?」

「うん。あそこには行きともない!」

 子供たちが悲痛の叫び声を上げた瞬間、加藤の目に強い光が射した。

「ま、眩しい! 誰かこの光を消してくれ!」

「あ、スイッチあったぞ!」

 父親の声が聞こえた瞬間、暗闇の部屋に裸電球の貧弱な明かりが灯された。

「健っ! その恰好、おまえ一体どうしたんだっ!」

 父親の怒鳴りつける声に震えながら加藤は閉ざした瞼を開いた。父親の手にはアウトドア好きの父親愛用の、強力な光線を放つ懐中電灯が握り締められている。

「ヒィーッ、ヒィーッ!」

 獣のような引きつった奇声を上げて加藤はのた打ち回った。

「な、なんということだ! おい、健! しっかりしろ! もう大丈夫だ。お父さんが助けてやるからな! 今ならまだ間に合う! 大丈夫、おまえは助かるんだぞ!」

 腐った畳みの上でのた打ち回る息子の姿は目を覆いたくなるものだった。その姿形は痩せこけて筋肉を削ぎ落とした骸骨のように貧弱だった。異常に痩せてしまっていたせいか、二〇歳の若い男には見えなかった。

「健ちゃーん! あなた、どうしてこんなになるまで…」

 母親は息子の哀れな姿に声を震わせ、涙を零した。

 ガサガサガサガサガサッ!

〈お父ちゃん! 大丈夫!〉

 一斉に子供たちが畳の上でのた打ち回る加藤の傍に駆け寄った。

「め、目が見えない!」

〈お父ちゃん!〉

 子供たちは恐れおののき、泣きじゃくりはじめた。

「大丈夫! 心配しなくてもお父さんは大丈夫だ」

〈お父ちゃん! わしらを独りにせんといて! 死なんといて!〉

 狂ったようにのた打ち廻る加藤に子供たちは不安を覚えた。

「大丈夫、お父さんは絶対に死んだりしないから。君たちを残して死んだりするもんか!」

 ガサガサガサガサガサッ!

 独り言を繰り返す息子の異常な様子に、忌み知れぬものを感じ取った両親はその場に立ち竦んでただ呆然と見ていた。

「一体、誰と話しているんだ? 健は」

 父親の口を割いて目に見えぬ不気味なものに怯える言葉が飛び出した。

 ガサガサガサガサガサッ!

 父親は骨と皮だけになった息子を軽々と抱え挙げようとしたが、加藤は父親の腕を払い退けようと強い力で抵抗した。父親はどうにか息子を抑え込もうとした。しかしその度に急所に一撃を食らわされた。

「おい! ロープだ! 車にロープがあるから持ってきてくれ!」

 父親は声を張り上げて妻に伝えると、抵抗する加藤をねじ伏せようとした。

 …これは亡くなった健の友達とまったく同じじゃないか! 一体、この子に何が起こったんだ!

「お父さん! はい!」

 妻は狂ったように暴れ廻る息子と格闘を繰り広げる父親に、ロープを投げ渡した。

「おい! 私が健を押さえつけているあいだに腕と足をコイツで縛るんだ!」

 加藤の両親はなんとか加藤を縛ることに成功した。父親は腕と足の自由を奪われた息子を肩に担ぐと、急いで車に走り後部座席に押し込んだ。母親もその後を追って後部座席に入り、尚も抵抗する息子に覆い被さった。

「余ったロープをシートに結びつけて固定するんだ!」

 父親は息子が逃げ出さないように妻に命じると、アクセルを踏み込んでその場から逃げるように立ち去った。

「お父さん、病院に急いで!」

 妻の急かす声が頭の中で大きく反響した。しかし父親が病院に車を走らせる事はなかった。

「電話だ! 昼間掛かってきた電話! 健の先輩はこのことをいってたんだ! その村で清めれば助かるといったんだろ! おまえも去年なくなった健の友達のことはよく憶えてるだろ! 親御さんから聞いたことがあるんだ。この病は現代医学では治せないんだ。兎に角、病院よりも根本を解決してやるほうが賢明だ! 村に行けば治せる方法があるかもしれん!」

 後部座席では妻が痩せこけた息子を抱きかかえ、震える身体を仕切りに摩っていた。

「健をどんなことがあっても連れてこいっていったのはこういうことだったんだな。クッソー! どうしてもっと早く気づいてやれなかったんだ! もっと早く気づいていればこんなことにはならなくて済んだのに!」

 父親は涙で潤む目を袖で拭いながらアクセルを踏んだ。

「あなた! 健ちゃんの先輩がいった待ち合わせの場所わかるでしょ?」

「ああ」

 息子とどれくらいの時間格闘したのか憶えてない。時刻は午前四時になろうとしていた。日の出を待つ松山の闇を武道館に向かって走る。時折加藤の父親の車が対向車のヘッドライトを受けて白く反射した。しかし、そのとき光を受けた車に無数の小さな手形が所狭しと着いていたことに、気づく者はなかった。

 

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