『㥯 《オン》(すぐそこにある闇)』 第七節
『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』 八木商店著
第七節
一、二年生たちが風呂から帰ったところで各部屋に食事が運ばれた。井上の部屋にお膳を運んできたのは四〇代後半の男だった。無枯村にきて民宿の女以外に初めて見る村の大人だった。男は背が低く骨太のがっしりした体格で、日焼けした皮膚は赤黒い光沢を放っていた。男は片手に一膳ずつ持って二回に分けて運んできた。
トントン!
「お食事をお持ちしました!」
扉をノックすると同時に、男の訛りのある声が扉越しに聞こえた。男は前屈みに背を丸め、照れ臭そうに俯き加減に部屋に入ってきた。大きなお膳には大量の料理が並べられている。よく見るとどれも海の幸ばかりだ。
「採れたてですから」
男は顔を赤らめて小さく言った。井上たちは料理の多さに度肝を抜かれ、ただただ黙って一つ一つの料理を観察していた。
確かに加藤の説明通りだ。豪勢じゃないか!
配膳が終わると、男は冷えた瓶ビールの栓を抜きながら笑顔で話掛けてきた。
「お客さんらのような若い方の団体さんは初めてなんです」
笑顔を崩さず、男は一人一人のコップにビールを注いで廻っている。
「へぇ、そうなんですか。普段はどういったお客なんです?」
横山が興味を持って訊ねた。
「大体がお年寄りの御夫婦が多いですねぇ。さぁ、どうぞ、お召し上がり下さい」
男の掛け声で皆んな一斉に料理に箸を伸ばした。無枯村に到着してから何も食事を摂っていなかった井上たちは、男の話も気にせず貪り食うように箸を走らせていった。
「ここって静かでいいとこですねぇ。昼間は人が出歩く姿は見えなかったけど、皆さん余所の街で勤めてらっしゃるんですか?」
口をもごもごさせながら佐々木が訊ねた。
「昔はそうでしたけど、今はそうでもないんですよ」
間を挟んで何か考え込む仕種を見せながら男が言った。
「最近は出稼ぎが多いんですか?」
佐々木が訊ねた。
「いえいえ、今は働き手となる者がここにはおらんのです」
男の笑顔が一変して悲しい表情を見せた。無心で箸を進めていた連中も男の言葉に一瞬動きを止めた。
働き手がいないって?
「どういうことです?」
井上が訊ねた。男の表情は重く暗いものになっていた。その表情からも、そのことについてあまり話したくないという男の心情が感じられた。だが、それに気づくと井上たちは余計に興味を触発された。
「働き手がおらんなったんは、何も最近のことじゃありません」
男の声は重く、俯いたまま顔を上げようとしない。
「あれは私が中学校のときでした」
男は天井に吊るされた蛍光灯に目をやると、何かを思い出すかのように語りはじめた。
「ここらは何十年かに一度土砂崩れに見舞われることが大昔からありました。お客さんもここらの風景を見られたと思いますが、西に小さな浜があるだけで、外は山に囲まれとりますけん。昔から大雨がつづいたときには、よう東の山から土砂が流れてきましてね。土砂に押し流される被害が多かったんです。
私も親に聞いた話なんですが、あの洪水が起こるまでは、長いこと大雨もここらを襲うことはなく洪水もなかったそうなんです。それで皆んな安心しとったんでしょう。ここは大昔から漁師の村でしてね。昔は土砂崩れが起こるとすぐに皆船に乗って荒れた海に非難しました。互いの船と船を太いロープで結び付けて土砂に流されてはぐれんように。
私が中学校のとき、大きな土砂崩れが村を襲いましてね。ほとんどの者が海に流されてしもたんです。昔とちごて私が子供の頃にはもう漁をする者は年寄りが数人おっただけでした。若い者は皆村を出て、余所に出稼ぎに出とりましたけん」
男は一つ一つ忘れかけた記憶を辿るようにゆっくりと語った。そしてそのあいだ井上たちが料理を口に運ぶことはなかった。
「出稼ぎに出とった者のようにこの村から離れとった者は無事でした」
男は静かな口調で言った。
「村に残っていた漁師の方は?」
不審に思い井上は訊ねた。
「漁師いうても皆んな年寄りばかりじゃけん。皆んな流されてしもたんです」
井上には男の話で二、三見えない点があった。
この主人はその土砂崩れから無事だったようだが、村を離れていたのだろうか? それに他の村人は船で非難しなかったのか?
「旦那さんはどうやって助かったんです?」
井上は訊ねた。
「私はそのとき親に連れられて、八幡浜に住んどる親戚の葬式で前の日から行っとったもんで。それで無事やったんです。村に残っとった者は大人も子供も皆、流されてしまいました。突然の土石流に何もできんかったんです。船も皆流されて逃げ場を失ってしもたんです。家にもんたらワヤでした。当時はこの村と余所を繋ぐ道はのうて、お客さんらが通られた祓橋の向こうには道はまだできてなかったんです。あの道ができたんはその土砂崩れの大分後で、それまでは橋の向こうは山やったんです。道路ができるまでは渡船で余所に行っとりました。
あの事故の後は出稼ぎで離れとった者は、皆ここを捨てて出て行きました。村の学校も流されてしまい、先生も生徒も皆流されてしまいましたんでね。皆おらんなってしまいましたから、私らも八幡浜に引っ越したんですよ。私はそのまま高校、就職とずっとここを離れとりましたけど、ここに道ができたことを知って返ってきたわけです。この山の向こうに大きなダムもできたことで、もう土砂崩れの恐れがないことを知るとそれまで村を離れとった者も、年に何度か別荘感覚で返ってくるようになりましてた。まあこうして人は少ないですが以前のような村のような形に戻ったんです。
村というても、昔出稼ぎに出た者が老後をのんびり過ごすために、たまに返ってきよるだけですがね。ですから人気は時期によってまちまちです。秋から春にかけてはほとんど人はおりません。年中おるんは私らだけですわ」
男の顔に再び笑みが伺えた。井上たちはその笑みに釣られて再び箸を動かしはじめた。
「ということは、ここは長いあいだ誰もいなかった時期があったんですね?」
水野が訊ねた。
「ええ。事故があって道路が繋がるまでの約三十年ちょっとのあいだは、誰もおらなんだと思います」
「そうですか」
「この村は年寄りしかこんけん、お客さんらのような若い方がこられたら活気が出てええんですがね」
男の笑顔が更に増した。井上たちは感慨深く男の心中を察しながら黙って料理を咀嚼していた。
「あのぉ、ちょっと訊き難いことなんですけど」
水野が男の顔をちらちら横目で伺いながら訊ねた。
「なんでしょうか? なんでも遠慮せんと訊いて下さい」
男は気さくに応えた。
「隣の部屋のことなんですが」
水野は遠慮がちに言った。
「ええ」
「随分前からドアが打ちつけられてるようですけど、所謂開かずの間なんでしょうか?」
水野は話終わるに連れて話す速度を上げて一気に言った。水野のこの疑問は部員全員が関心するとこだった。井上たちは男の顔から視線を逸らさず、表情の変化を一瞬でも逃すまいと注意深く目を凝らして見ていた。
「ハハハハハッ! やっぱりお客さんも気になるようですね。家内はそのことをいいませんでしたか?」
笑いながら男は言った。女はやはり男の奥さんだった。
「何も」
水野が身を乗り出して言った。
「恐らくお客さんらは奇怪しなことを思とったんでしょうなぁ。ハハハハハッ!」
男が笑い止むことはなかった。
「お化けが出る部屋じゃないんですか?」
水野が恐る恐る訊いた。
「いえいえ、お化けなんてとんでもない。お化けとは反対の者がおりますよ」
笑顔のまま驚きの表情を上乗せして目を丸くして男は応えた。
「お化けの反対って何です?」
血走った目で水野が訊ねた。
「観音さんをお祀りしとんですよ」
男は四人の顔を見渡して言った。
「観音さん?」
それまで口を噤んでいた横山が口を開いた。
「ええ。ここは今もお話ししましたように、昔から土砂災害が起こっとりましたんでね、村にあった寺もそのたんびに流されたんです。建て直すたんびに流されるもんじゃけん、その内もう建てんようになって。坊主もいつの頃からかこの村にはおらんようになってしもたらしいですしね。それでお寺さんに納めとった観音さんを、どこぞに保管せんといかんいうことで色々検討したそうです。この家は造りがしっかりしとったもんじゃけん、今まで一度も土砂崩れで流されたことがなかったんで、ここに祀ったらどうじゃということになったそうなんですよ。それ以来ずうっと私らの家の者が観音さんの世話をするようになったわけです。お客さんの思とるような恐ろしいことは何も起こりゃせんけん、安心して下さい」
男は始終笑顔を絶やすことはなかった。水野は一応男の話に納得できたような表情を見せたが、まだ釈然としない気持ちが残っているようだった。
「それにしても長いことドアが開けられたことはないようですね?」
水野が訊ねた。
「ええ、元々この観音さんは五〇年に一度人の前に姿を見せるらしいんで、私自身もまだ一度も見たことがないんです。最近やったら私が生まれる何年か前やったそうです。ほじゃけん、もうそろそろお開きする時期じゃなかろかと思うんですが、何時お開きしたらええんか年寄りもよう憶えとらんそうでして。ちょっと困っとんです。はい」
男は言った。
「そうなんですか。ところでこの建物は土砂に流されなかったそうですけど、建てられてどのくらいになるんですか?」
井上が訊ねた。
「ようは知りませんが、江戸時代の中頃と聞いとります。観音さんがこの家にきたんが江戸の終わりの頃やというとりました」
「じゃあ、ここで観音さんが皆んなの前に姿を現したのも数えるほどなんだ」
横山が言った。
「ええ」
「ところでさっき行ってきた温泉ですけど、あの名前もその観音様に因んでなんですか?」
佐々木が訊ねた。
「そうやと思います。あの温泉も古いらしいですからねぇ」
「あそこって無人なんですね。店番してる人がいなかった」
「ええ。大体村の者しか使いませんから。ようは知りませんが、多分ここらの家には風呂はないと思いますよ。たまにしか戻ってこん家にわざわざ風呂を拵えんかっても、温泉がすぐそこにありますからねぇ」
「でも無料じゃないんでしょ?」
「風呂代が町内会費の役割をしとんですよ。値段は一回が一〇円じゃけん、温泉好きの者は一日になんぼでも入っとります」
「たったの一〇円! 安いなぁ」
横山が驚嘆の声を上げた。
「まあ、シーズンに帰ってくる人全員集めても二〇人ほどの小さなもんですから、町内会費いうても知れとんですよ。まっ、私の話はこれくらいで後はゆっくりお食事のほうを楽しんで下さい。一応ビールはお一人様二本ずつということでお願いしとんですが、それでも足りんいう方は別料金になりますがええですか?」
男は四人を見渡して訊き、四人が目で了承したのを確認すると、
「食べ終わったらお膳はお客さんらで階段の下まで下げといて下さい。お布団は押入れにありますから好きに敷いてお休み下さい」
そう言って部屋を出ていった。
男が去った後、井上たち男の話をもう一度話合っていた。
「なあ、この村の名前、無枯って『流れ』の当て字だと思わないか?」
井上は言った。
「無、枯れか。確かにな。枯れ無い村。土砂で流されても枯れ無い村でいてほしいという願いが込められてたんだよ」
佐々木が言った。
「昼間通りをうろうろしてる年寄りはいなかったけど、俺たちが浜にいるときにうろうろしてたのかなあ?」
横山が言った。
「夏だからなぁ、暑いから年寄りは家の中でじっとしてたんだろ。それか温泉にでも浸かってたんじゃないか」
水野が言った。
「夏だけどここは暑くない。この部屋だって見てみ、クーラーも扇風機もないぞ」
横山が言うと他の三人は部屋の中を見渡して、
「マジかよ!」
と不思議な表情で横山の顔を見つめた。冷房がない。それは四人に無枯村の夏が以前から暑くないことを教えていた。四人はこの不自然な村に新たな不審感を募らせていた。
「意識しなかったけど、ほんと暑さが気にならなかった。さっきおやじがビールのお代わりがどうとかいってたけど、こう暑くないと俺はそんなに飲みたいとは思わないよ」
水野が言った。
確かに練習を終えて水分を欲しがるはずの身体がビールを欲しがることはなかった。四人は食事を済ますと、満腹になった腹にだるさを覚えながらも民宿の主人に言われたとおりに各自でお膳を階段の下まで下げに行った。
稽古後の予定は合宿の段取りを組んだ副主将の西村から後輩に説明されることはなかった。井上は不審に思い水野にそのことを訊ねてみた。すると、
「おまえらが浜から帰ってくる前に、今日のミーティングはなしって西村さんがいったんだ。今日はもうこの後自由時間にするから好きにしろって。先輩もゆっくりしたいんじゃない?」
と言う返答が返ってきた。それを聞いて佐々木もホッとした表情を浮かベた。
やることも見つからず手持ち無沙汰な四人が、不気味な闇の蔓る夜の無枯村に出ることはなかった。何もやることがなく疲労感と満腹感で瞼の重さがやけに気になりはじめた頃、、井上は三人に向かって言った。
「まだ、九時前だけど布団でも敷いて横になるか!」
一二畳の和室に四人分の布団を敷いても随分畳が余って見えた。照明を消して四人は適当に布団の上に寝ころがると、疲れと眠気が一度に押し寄せてくるのが感じられ、しばしの恍惚を楽しむことができた。耳を澄ましても物音一つしない。どうやら他の部員たちも休んだようだ。しかし、その恍惚状態が不意に破られることになった。破ったのは心配性の水野だった。
「あのおやじが言ってたことって、信用できるのかなぁ?」
不安気に水野が訊ねた。
「おまえ心配性だなぁ」
井上が呆れて言った。
水野は民宿に着いた早々、部屋の隅々を御札が貼っていないか調べていた男だ。お化けだの幽霊だのといった怪談には異常に敏感に反応し、いつまでもその妄想を心から除外することができない小心者だった。他の三人とちがい水野は不気味な様相を漂わせる無枯の夜に恍惚感を楽しむことはできないでいた。
「なぁ、何か話そうぜ」
小さな声で水野は囁いたが、誰からも返答は返ってこない。つい今し方まで起きていた三人はもうすっかり寝息を立てている。
「なあなあ、おい!」
両隣の者を揺すってみたものの、もうすっかり深い眠りに落ちた井上と横山はまったくピクリともしない。水野は自分一人が暗闇に取り残され、心底目に見えない何かに怯えていた。
「佐々木! 佐々木! おまえ、起きてんだろ! なあ、佐々木!」
声を潜めて水野は井上の向こうに横になった佐々木に救いを求めたが、佐々木は大きな鼾を返すだけだった。
一人暗闇の中で眼球をキョロキョロさせる水野は、寒くないのに布団の中に潜り込んで身体を丸めてぶるぶると震えていた。彼は自分の想像力が生んだ不気味なイメージにただならぬものを覚え、全然寝つけなかった。音が何一つ聞こえない。誰もがもう深い夜の帳に眠りの中を彷徨っていた。水野が一人眠れないで不安と闘い、かれこれ一時間が経とうとしたときだった。
ゴトンッ!
何かが部屋の窓に強くぶち当たった。その瞬間、水野の髪の毛は一瞬逆立ち、こめかみは強く押さえつけられたような痛さを覚えた。
ドンドンドン!
何者かが確実に二階の部屋の窓を叩いていた。それも大勢の人が力強く。窓を叩く音に紛れて、話声が聞こえてくる。水野は耳を塞いで布団の中に潜り込むと、声に出してお経を唱えはじめた。
ドンドンドン!
窓を叩く音は一向に止もうとしない。水野は一心不乱にお経を叫んだ。
「頼む、帰ってくれ!」
何度も何度も強く叫んだ。そしてようやく窓を打ち鳴らす音と話声は聞こえなくなった。緊張から解かれると、水野は一気に眠りに就いた。
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