㥯 《オン》(すぐそこにある闇) 第二四節
『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』 八木商店著
第二四節
「じゃあ、開けますよ!」
佐々木の威勢のいい声が無枯荘に轟いた。一同が見守る中、古い扉が静かに押し開けられていった。きしむ音を立てながら、扉はゆっくり確実に開いていった。そして真っ暗闇の部屋が眼前に現われた。衰弱した部員たちに体力が残っているとは思えなかったが、扉が開く音が聞こえた途端、敏捷な身のこなしで扉の前に駆け寄り、部屋の中にスルスルと吸い込まれるように入っていった。佐々木と横山、それに家族たちは部員たちの不可思議な動きにただただ言葉を飲み込むだけだった。二五名の部員たちが暗闇の部屋に吸い込まれるのを、ただ茫然と見ていた佐々木が現実に気づいたのは、家族の一人に背後から肩を叩かれたときだった。「さあ、私たちも中へ」、そう言うとその人は佐々木を抜いて中へ入って行った。佐々木も慌ててその人の後を追うように暗い部屋の中へ入っていった。
佐々木は部屋の奥に進みながら疑問を抱いた。
この部屋も他の部屋と同じ一二畳間。観音様が祀られているはずだから、他の部屋よりも人が入り込めるスペースは少ないはずだ。二五人もよく入れたものだ。これ以上はもう誰も入れないと思われるのに。
佐々木は首を傾げながらも歩を進めた。不思議なことに観音様が祀られている部屋に廊下の明かりが射し込むことはなかった。部屋はまるで扉をこじ開けられたことに気づいていないかのように、入口付近も暗闇を守っていた。それは長いあいだ明かりに照らされることのなかった部屋が、意志をもって光を拒絶しているようにも思えた。
佐々木につづいて一同が次々と部屋の中に入っていった。我も我もと押しよせる人込みに、佐々木の空手で鍛えた身体は押されて揺らいだ。
「すみません! 押さないで下さい! 部屋はもう一杯なんですから!」
佐々木は押し寄せる人混みに向って叫んでいた。しかし同時に先程過った疑問が再び露になった。
奇怪しいなぁ? 敷居を跨いで数メートルは進んだ気がするが、まだ先があるように思える。
佐々木は暗闇の中に前進する家族の影を追いながら思った。振り替えると数メートル先に廊下が、ぼんやりとオレンジ色に照らされている。
それにしても暗過ぎる。明かりが欲しいなぁ。
佐々木は懐中電灯で部屋の中を照らそうとしたが、手ぶらだったことに気づいた。
あれっ? 懐中電灯は? さっきまでこの手でしっかりと握りしめていたはずなのに?
佐々木は夢中で今まで扉を開けていたことすら忘れて、真っ暗闇の部屋の中を歩いていた。
そうだ扉を開けるとき、廊下の隅に置いたんだった。
懐中電灯を廊下に置き忘れたことに気づいた佐々木の目に、まだ廊下で部屋に入る順番を待っている横山の顔が見えた。佐々木は横山に懐中電灯を持ってくるように叫んだ。廊下から、わかった! という横山の微かな声が返ってきた。佐々木は歩を止めて、横山がくるのをその場で待つことにした。部屋に入ってきた家族は川の流れのように部屋全体を満たしながら、先が見えない奥へと進んでいる。まるで何者かに引き寄せられているかのように、一心不乱に奥へ奥へと歩いている様子が、視界の利かない暗闇の部屋の中でも聴覚を通してわかった。真っ暗闇の部屋の中では畳を擦る乾いた音と、荒い息づかいの他は聞こえなかった。そのとき佐々木は井上の姿が見えないことに気づいた。
あいつはどこだ? あ、そういえば、民宿の主人と踊り場で何やら話し込んでたなぁ。
「佐々木、どこにいる?」
その声に佐々木は振り向いた。部屋の入口付近で懐中電灯の光を振り回して、右往左往している横山が見えた。
「こっちだ!」
佐々木を右手を挙げて応えた。佐々木の声に横山の懐中電灯の光が獲物を捕らえて、人込みを掻き分けて近づいてきた。佐々木は横山から懐中電灯を受け取ると、横山に疑問に思ったことを話しながら足元を照らして奥へと進んだ。
「この部屋、一二畳にしては広いというか、奥が深いと思わないか? もし一二畳ならここに全員が入るのは無理だろ?」
「確かに」
横山が懐中電灯の光を振り回して辺りを照らした。奇妙なことに光は部屋の壁に当たることはなかった。
「廊下はあんなに向こうだぞ」
そう言って佐々木は横山に後ろを振り向くように促した。
「この部屋だけ一二畳じゃないんじゃないか? あ、でも、建物の外観からはそんな風には見えなかったよなぁ?」
佐々木は考え込む横山の顔を懐中電灯で照らしていた。亡霊のように白く浮き上がった横山の顔は、強烈な光を受けその表情から感情を読み取ることはできなかった。
「明かり点けます!」
不意に民宿の主人の声が響いた。そして部屋の照明にジーッという電気が通う音がした。どうやら佐々木と横山が一旦立ち止まって考え込んでいるあいだに、他の者たちは全員部屋の奥へと進んだようだ。二人はいつのまにか行列の最後になっていた。照明がパッと点いた瞬間、視界が真っ白になって何も見えなくなった。目が明かりに慣れるまで二、三秒瞼を閉じて、そしてゆっくり瞼を開いて部屋の中を見渡した。その瞬間、佐々木と横山は反射的に瞼を手で擦って辺りを凝視した。
「ええっ!」
嘘だろ!
二人は自分たちが立ち止まっている場所に驚いた。不思議なことに二人はまだ敷居を跨いだすぐのところに立っていた。佐々木は驚かずにはいられなかった。
部屋の奥に進んでいると思っていたのに! 確かに部屋の中を数メートルは入ったはずだ。なのにどうしてまだ入口にいるんだ! あれは全部目の錯覚だったのか? いやちがう! 横山も確認したことだ。
佐々木は横山に声を掛けた。
「なんでまだ入口なんだ?」
鼓動を打つ速度は声を発したことでどんどん加速していった。
「そんなことはない! 絶対奥まで入ってたぞ!」
横山が狐に摘まれたような顔で首を傾げた。
「さあ、どうぞ腰を下ろしてください!」
部屋の中で数十人が隙間を埋めるように何かを囲んで立っていた。民宿の主人が声を掛けて、一同にその場に腰を下ろすように促したが、佐々木には立っているだけでも窮屈な部屋に座り込むことなど無理だと思えそのまま立っていた。だが、中に入った家族たちは素直に主人の言葉に従った。
次々と座っていくに連れ、佐々木の視界が少しずつ拓かれて部屋の奥が見えるようになっていった。不思議なことに誰も無理な姿勢で腰を下ろしている者はいない。佐々木はそのとき部屋が腰を下ろす人たちの動きに合わせて、ゆっくりと縦横に伸びているような錯覚に見舞われた。
何だ今のは! 目の錯覚? 部屋の壁が後退していくように見えたけど。
一人二人と目の前に立ちはだかる人壁が腰を下ろしていくに連れ、佐々木と横山の視線にある物が見えてきはじめた。しかしそれは二人が期待していた物ではなかった。二人の目が捕らえた物は、明らかに観音像ではなかった。二人は茫然と立ち竦んで、口を開けたまま閉じることを忘れていた。
な、何なんだ、これっ! こ、これが観音様なのかっ!
「こ、これって、どう見ても観音様じゃないよなぁ?」
佐々木は横山にその物体を指さして訊ねた。物体に向けられた指先が震えていた。横山は生唾をごくりと飲み込んで頷いた。
「この村の人間はこれを観音様だと信じて守ってたのか!」
佐々木の声は驚きと落胆で一層震えていた。
「ご、五〇年に一度しか姿を見せないって話だからなぁ。実際に見たヤツも少ないんだろうな」
横山の声も震えていた。
「し、知らない人間がほとんどだ」
「皆、観音様があるもんだと信じ込んでたんだろうな」
「この家に移したときに観音像は壊れたのかなぁ? なあ、どう思う?」
佐々木が吐息を震わせて訊ねた。
「土砂で流されたんだ。それで代りを用意したんだ」
二人がその部屋で見た物は若い木で組み立てられた、子供の背丈ほどの人形だった。人形には顔はあるものの、そこには目、鼻、口といった表情を映し出すものはなかった。そのことが男女の性別を断定させないでいるようにも思えた。表情のない人形には子供用の着物が着せられていた。不気味なほど黒々とした乾燥してばさばさの髪の毛が頭に被さっていた。恐らく鬘だろうが、まるで直に生えているように見えた。童のような雑な作りの人形は、入口を向いて両足を前に投げ出して座布団に座り、足首のあたりに縄が括りつけられていた。人形に結んだ縄の先は窓に張りつけた鉄格子にしっかり結ばれていた。部員たちはその人形に縋り寄って手を合わせて何やら話し掛けていた。家族の者たちは哀れな我が子をじっと見守っている。佐々木と横山はその異様な光景から早く解放されたい気持ちだった。
「何を話し掛けてんだろ?」
横山が佐々木の耳元で小声で言った。
「さあ? あいつら涙を流してるぞ」
二人は事の成り行きを見ていた。次第に複数の人の声が聞こえはじめた。そしてそれは誰かに救いを求めているように聞こえてきた。
「子供らを向こう岸へどうぞ渡してやって下さい」
「この人らに、わしらの代わりに、子供らを向こう岸に移してもらおう思たのに、身削ぎに遇うて連れて行ってはもらえんようになってしもた」
「苦しみながら流された子供らを、向こう岸に連れて行ってもらいたかったのにのぉ」
「まさか戻ってくるとは思わんなんだ」
「後もうちょっとで向こう岸に渡れたというのに」
「やっと見つけた乗物を身削ぎするとはのぉ」
部員たちの口から次々に言葉が漏れた。静かに見守る佐々木と横山には彼らが何について語っているのかまったくわからなかった。佐々木は民宿の主人に訊ねた。これはどういうことなのかと。
「恐らく昔土砂で子供を亡くした親の霊が、お連れさんらの身体に乗り移って憑坐に救いを求めよんじゃろ」
「ヨリマシ? ヨリマシって何です?」
聞き慣れない言葉に首を傾げ、佐々木が訊き返した。
「憑坐はあの人形じゃ」
「あれ、ですか。ここにあるのは観音様じゃなかったんですね…」
横山が割り込んだ。
「昔はあった。じゃが流されてしもた」
「それで代わりにあれを」
「わしもようは知りません。観音さんが流された後、この家にあの人形が祀られるようになったそうです」
「新しく観音像を祀らなかったのは何故です?」
「土砂崩れが治まった後、生き残った者は観音さんが向こう岸まで土砂で流された者を連れて行って下さったいうて、悲しみに眩れる者らを慰めたそうです。けど子供を流された親の悲しみは、それでも治まらなんだ。それはそれは死ぬまで悲しんだそうです。それで親の悲しみを癒すために、子供の人形を代わりに祀るようになったんじゃそうです。昔は洪水のとき、船に乗り遅れた者は流されんように、子供らの足を頑丈な縄で縛って家の柱にしっかりと縛りつけとったんです。じゃが土砂の勢いに負けて流された子らも大勢おったらしいですわい。子供は流されても、結び付けとった縄はしっかりと柱に残っとったそうです。結び付けた足首から先を残して」
「じゃ、じゃあ縄で縛ったところから千切れて?」
佐々木が顔を引きつらせて震える声を漏らした。
「ええ。子供らの小まい足ですけん、土砂の押し流す勢いに耐えられなんだんでしょうなぁ。身体は流され、残ったんは足だけやったそうです」
「以前、ここに泊まったとき部員たちが見た足のお化けは、流されずに残った子供たちの足だったのか」
横山が呟いた。
「さあ、それはわかりませんが」
主人が目を逸らせて言った。
「連中があの人形に、向こう岸に代わりに連れて行ってもらいたかったっていってましたけど、あれは?」
「観音さんが向こう岸に導いてくれると信じとったんです。向こう岸とは恐らく苦しみのない極楽じゃないでしょうかねぇ。我が子を流された親は、皆この憑坐に祈りよったんです。どうか無事に向こう岸へ行けますようにいうて。幼い我が子を亡くした親は毎日のようにお参りしとったそうです」
「あのぉ、さっき下で話したとき、地面から大人の腕が伸びてきた写真の話をしましたよね。やはりあの腕は子供たちを亡くした親の腕だったんでしょうか?」
「さあ、私にはわかりませんが、土の中から出とったいうんでしたら、そうかもしれませんな。子供らは海に流されて見つからなんだけど、土の中から遺体で見つかった大人がようけおったそうです」
「あの写真。子供たちの足に結んでいたロープを、僕の足に結ぼうとしていた腕はどういうつもりだったんだろう?」
佐々木が呟いた。
「お客さんに親代わりになってもろて、彷徨う子らの霊を世話してもらいたかったんじゃないですかねぇ。流された子供らは自分らが死んどることも知らんでしょうから。流される中、親が必ず助けてくれると思いながら皆死んでいったんですから」
「観音温泉で子供の亡霊に遇ったときいってました。禊川の向こうには行けないって」
「亡くなった子供らは川の向こうに道路ができたことを知らんのでしょうな。昔は岩山でしたから。お客さんらは皆、川の向こうからやってきよりましたから、子供らの霊には不思議に思えたんでしょう。もしかしたらあの祓橋を通って村に入る人の姿は、子供らの霊には岩山をすうっと通り抜けてきよるように見えたんかもしれません。その不思議な様子が、人じゃない観音さんやと思わせたんじゃなかろか?」
「この村の外に向こう岸ってのがあると思ったから?」
「ええ。村の外にあると思たんでしょう。子供らの幼い目には余所者は向こう岸から救いにきてくれた観音さんにしか思えなんだんでしょう」
民宿の主人がそう言ったときだった。
〈ナニガノゾミジャ〉
男とも女とも言えない声がはっきりと聞こえた。その声に家族の者たちも顔を引きつらせ、怯えて辺りを見渡した。佐々木も民宿の主人も首を硬直させて辺りを伺った。
「な、何です、今の!」
佐々木がおろおろしながら訊ねた。
「よ、憑坐が動きはじめたんじゃ!」
民宿の主人が目を大きく見開いて震えた声を上げた。
「よ、ヨリマシ? ヨリマシってあの人形でしょ! に、人形がしゃ、しゃべったなんて!」
民宿の主人の言葉を佐々木は素直に受け入れたくなかった。
「いつの日からかここに祀っとる人形に物の怪が乗り移るようになってしもた。我が子を亡くした親を慰めるための人形は、どうにも手に負えん憑坐になってしもた」
「よ、ヨリマシって、本当は一体何なんです!」
佐々木は心臓を背中から握り潰されるような感触を覚えた。
「物の怪が乗り移つる人形や子供のことです」
民宿の主人の言葉に佐々木はたじろいだ。どうしても今現実に体験していることを受け止める勇気がなかった。
「そ、そんな馬鹿な! あ、あの人形に物の怪が乗り移っているなんて! そ、そんなことが起こるはずない!」
佐々木は震え上がった。横山は恐怖のあまり完全に声の発し方を忘れているかのようだった。
「この村では起こるんです。お連れさんらの身体を借りて話しよる親の霊が、憑坐を呼び起こしたんでしょう。お連れさんらももう長いことはなかろな…」
〈ハナシハワカッタ。ネガイヲカナエルカワリニナニクレル〉
憑坐が声を発した。不思議なことに表情がなかった人形に口があるように思えた。佐々木は人形の顔を凝視した。するとじわじわと目、鼻、口が浮き出てくるのが見えた。
「に、人形に顔が!」
思わず佐々木は叫んで目を瞑った。その声に反応して部屋にいた連中が一斉に人形の顔を見た。
〈ワシニアタラシイカラダヲヨコセ! ネガイハカナエテヤル。ニンギョウノカラダハウゴキニクイ。ワコゥテガンジョウナナマミノカラダヲヨコセヤ!〉
「もう駄目じゃ…。顔ができたらもう終わりじゃ。皆、憑坐の言いなりになってしまうでぇ。憑坐が要求したらそれに従わんとえらいことになる。憑坐は新しい身体を欲しがっとる。しかも今度は生身の若くて頑丈な身体じゃ」
民宿の主人の声が次第に弱まっていった。
「それって誰かの身体に乗り移るってことなんですか?」
声を震わせて佐々木が訊ねた。
「ほうよ。この木ぃの人形の代わりにの」
「ええっ! じゃあ人形の代わりに今度は生身の人間をここに! で、でもそんなことしたらミイラになって死んでしまうじゃないですか! 死んでもかまわないんですか!」
「憑坐が五〇年に一度入れ代わる身体、いや乗物は年を取らんと聞いたことがある。あんたにも見えるじゃろ、あの人形が。あれはまだ若い木のままじゃ。憑坐に生かされて腐らんのよ。恐らく今度憑坐にされる者も年を取ることなく、他に代わりがくるまでずうっとここに閉じ込められることになるんじゃろな」
「ほ、本当に本当に死なないんですか!」
「死なされずに生きたまんまじゃ」
「今度は生身の若い身体を要求してましたけど、それって子供ってことなのかなぁ…?」
「いいや、ここには子供はおらん。ここにおる者の中で若い身体いうたら、あんたらだけじゃろがな! 今度はあんたらの身体を憑坐にするつもりじゃ!」
「う、嘘だろ。嘘だよな。お、俺、こんなとこにいたくないよ。こんなところで一人だなんて。俺は嫌だぁっ!」
佐々木が絶叫と共にその場に泣き崩れた。横山は声を出さず、立ち尽くしたまま涙を流していた。
「もう憑坐があんたらを選んでしもたんじゃ。どうにもならんわい。ここにおる者はあんたらの内、どちらかを憑坐に差し出さないかん。それが憑坐の要求じゃけんな!」
民宿の主人はそう叫ぶと放心状態になって動かなくなった。