【一六日】
「受験生だから家で勉強してなさい!」
お母さんのこの一言で、わたしは一人でしぶしぶ家に残ることになった。
この家で一人で留守番するのかと思うと嫌で堪らない。
とてもブルーだわ……
これからの三日間、わたしは否応なしに恐怖と戦わなければならないのだ。
鼓動は普段以上に激しく打ち付け、掌にはしびれが走り一層不安を駆り立てる。
わたしは不安な面持ちで、おどおどしながら両親に最後にもう一度懇願した。
「一生のお願い! 一緒に行っちゃダメ?」
「駄目ぇ! 来年もお盆はあるだろ。今年は辛抱しろ! 夏休みは受験生にとって関ヶ原だ。先生も言ってるだろ。来年、女子大生になったら、そのときお祖母ちゃんちに行けばいいんだよ。てなわけで、一六日の夕方までには帰るから。戸締まり気ぃつけてなぁ!」
お父さんのこの言葉は、わたしにはただの嫌がらせにしか聞こえなかった。わたしがこの家を死ぬほど怖がっていることを知っておきながら、わざわざこんな愛想のない言葉でサヨナラするなんて……。我が父ながら、その神経は信じられないものがあった。絶対に余所のお父さんなら、恐怖に震える愛娘にこんなことは言わないだろう。
お父さんは笑顔で、今まさにお母さんと中一の弟を連れて家を出ようとしている。わたしはため息を吐きながら、しぶしぶ家族を見送りに家の前の農道まで出た。
「誰もいないから集中して勉強できるぞ。じゃあ、頑張ってな!」
お父さんはわたしの気持ちを全く理解していないから、こんな恐ろしいことが言えるんだ。「誰もいないから」、そう、これからの三日間、わたし以外にこの家に誰もいないから死ぬほど嫌なんじゃないか!
わたしは肩を落とし、うなだれてわざとため息を吐いて見せた。そんなわたしに両親は動きはじめた車の中から、笑顔で手を振っている。誰もわたしに構ってくれない。気持ちはもう完全にお祖母ちゃんちまで飛んでるようだ。
車がゆっくり農道に出ても、わたしはただ呆然と立ちつくしたままでいた。そして、遠く先にある二本の大きな杉の木の陰に見えなくなるまでずっと見ていた。車が見えなくなっても、わたしは農道の片隅に立っていた。
全く動けない。振り返って家を見るのもゾッとする。気持ち悪くて一人で中に入る勇気がない。
岡山県と兵庫県の県境に位置する山奥に、今わたしが住んでいる家はある。
住所はとりあえず岡山県からはじまっている。
ここに住み着いて半年になるのに、わたしは我が家が恐くて堪らないのだ。
引っ越してきたあの日から、ずっとこの恐怖と日夜戦いつづけている。もういい加減疲れた。
去年の一二月、商社マンだったお父さんが突然東京を離れて、人気のない田舎で暮らしたいと言いだした。
その頃お父さんは、都会を離れて地方で田舎暮らしを楽しむ人たちを特集したテレビ番組を好んで観ていた。だけどお父さんが密かに田舎暮らしに憧れていたとは、そのときは思いもしなかった。でも両親共に大阪市出身で、都会で育ったお父さんが田舎に憧れを持たないはずもなかったのだ。
「ちょっと質問! この中で田舎で暮らしてみたい人!」
テレビを観ながら、突然お父さんがおどけた調子で訊いてきた。
あの時、冗談だと思って本気で相手にしなかったのがいけなかったのだ。
「ハイ! ぼく田舎で暮らしてみたい!」
まだ小学生だった弟には後先の分別が着くはずもなく、お父さんに威勢良く右手を挙げて応えた。
「勝子は?」
「そうねぇ、将来のんびりするのも良いわね」
お母さんはお父さんの機嫌を損なわないように言ったけど、あんまり乗り気じゃないのがわかった。でも、お父さんはそう受け取らなかった。
「そうか、やっぱり誰しも田舎暮らしに憧れはあるよな。隣近所、上下左右に気を遣いながらのマンション暮らしで、貴重な一生を終わらせたくはないもんだよ。尚幸とお母さんO・Kだけど、陽子は?」
わたしも田舎暮らしに憧れがないわけではなかった。別に今すぐ田舎に引っ越すわけではないのだからと思い適当に応えた。それは単なるその場の弾みだったのに。
「うん。わたしもいつかしてみたいね」
「ということは、なんだ、皆んな田舎で暮らしたいってことかぁ! そうか、やっぱり皆んな日本昔話に出てくるような故郷が欲しいんだな! よーし、わかった! じゃあ、お父さんが皆んなの夢を叶えてやろう!」
「はあ?」
わたしとお母さんは開いた口が塞がらなかった。
別にわたしもお母さんも、一日も早く田舎暮らしがしたいだなんて言ってないのに、そうしたかったのはお父さんだけじゃない!
「ほんとに!」
「ああ、ほんとだ、尚幸!」
あ、お父さん以外にももう一人いた。
お父さんと弟は互いに手を取り、目を輝かせていた。わたしとお母さんはただただ呆然と二人を見るだけだった。
とりあえず家族全員が田舎暮らしをしたいと早合点したお父さんは、すぐに行動に移った。パソコンに向かい、インターネットで自然に囲まれた山奥の村の情報を集めはじめたのだ。お父さんがイメージしていた田舎は山奥で、人口もせいぜい五百人程度の文明化の波に押し潰されてないような、時代錯誤な昔話に登場する集落だった。
「おーい、ちょっと! ここなんかどうだ!」
お父さんの好みの田舎が見つかる度に、わたしたちはパソコンのモニターを覗く始末。でも、お父さんが見つけた村はどれもパッとしない廃村ばかり。わたしもお母さんも気に入らなかった。
なかなか好みの田舎がないなぁと、お父さんはため息を吐いていたものの、疲れてる風には見えなかった。端で見てる分には、楽しんでるように見えた。そんなとき、ふと或る疑問が浮かんだ。
もし皆んなのお好みの田舎が見つかったらどうするんだろう?
まさか即引越しなんてことにならないでしょうね! このお父さんのはりきり様なら、そのまさかは大いに考えられるんじゃない!
わたしは突如、大きな不安に襲撃された。もしそうなれば、転校しなきゃなんないじゃない! 転校ってことは、友達と別れなくちゃいけない。学校が代わるのは別に構わないけど、友達と離れ離れになるのだけは勘弁だった。
わたしの不安は加速的に増大していった。兎に角わたしはお父さんにその辺りのことを訊ねてみた。
「ねえねえ、もし見つかったらどうすんの?」
「引っ越すよ」
「でも、すぐじゃないよね。家もないことだし」
「あ、そうだよな! 家がなきゃ引っ越せないよな。アハハハハハ。ということは、物件を探さなきゃな」
能天気なお父さんは全然先のことを考えていなかった。
わたしは物件を探してるものだと思ってたのに、あくまでもお父さんが探していたのはお好みの田舎の風景だったのだ。
物件、物件、物件、物件と、ぶつぶつうるさいお父さん。もしかして、わたし墓穴を掘るような、余計なことを教えてしまったんじゃないだろうかと、そのときかなり後悔した。
「家見つかったらどうすんの?」
わたしは恐る恐る訊ねた。まさかとは思うけど、すぐに引っ越すなんて言わないでよ。わたしは神様にそういう展開にならないことを祈った。
「そうだなあ、皆んな今すぐにでも田舎で暮らしてみたいようだから、すぐ引っ越すか」
まさか、冗談でしょ!
誰も今すぐ田舎で暮らしたいだなんて言ってないじゃない!
そうしたいのはお父さんと尚幸だけでしょ!
それに家を買うと言っても、そんなに簡単に買えるもんじゃないだろ!
うちにはすぐに家が買えるほどの余裕なんてないはず。それはお父さんが一番知ってるはずでしょ!
「家を買うお金もないし、それに引っ越すったって、学校どうすんのよ。転校しなきゃ駄目じゃない」
「そうか、転校か」
やっぱりお父さんはわたしの都合は考えてなかった。我が父ながら呆れるわ。
「わたし、転校なんて嫌だからね。来年は受験生だし」
「でも、引っ越したら転校しなきゃなんないだろ。陽子の学校って自宅通学じゃなきゃ校則で駄目なんじゃなかったっけ?」
そうなのだ。わたしの通ってる女子校は、校則にそんな余計なものが含まれていたのだ。わたしですらそんなこと忘れていた、というよりも知らなかったのに、お父さんは余計なことをよく覚えていた。
「てことは、やっぱり転校は仕方ないよ。何もそんなに心配することないって、授業なんて日本全国何処の学校も同じことやってんだから。
田舎の学校は学力的に都会の学校よりも低いと思ってたら大間違いだぞ。これはね、新聞で見たんだけどね。一流大学をトップの成績で受かった人はね、皆んな超田舎の子ばかりなんだそうだ。参考書もほとんど手に入らず、勿論塾や予備校なんてものはない。だからそういった環境の子はね、教科書と先生をフル活用するからいいらしいんだよなぁ。
だから陽子が心配してるようなことはないから安心しなさい。逆に田舎の学校に代わった方が成績上がるんじゃないか。ハハハハハ」
想像してた通りだ。
わたしの不安は的中した。お父さんはわたしの気持ちを察したことなんて、多分わたしが生まれて以来一度もないと思うし、これからもないと思う。わたしが心配なのは勉強のことなんかじゃないのに。
「いやね、転校が嫌なのは学力がどうとかこうとかじゃないんだよ」
「おお! これなんかピッタリだぞ! 陽子、ちょっと見てみて」
お父さんは全然わたしの話を聞いてなかった。わたしはお母さんに助け船を求めて目で合図を送ったけど、お母さんは仕方なさそうにお父さんを横目でちらりと見て頷いただけだった。多分、お母さんがそんな仕種をしたってことは、もう誰にも暴走したお父さんを止めることはできないってことだろう。わたしは覚悟を決めて諦めた。
「これはちょっと現地に行って、この目で確かめてみないといかんな」
お父さんはわたしとは別のことで覚悟を決めていた。
翌日から二日間、お父さんは今年まだ一回も使っていない有給休暇を使って、インターネットで見つけたその村に視察に行ってしまった。そして何も連絡しないままに帰宅して、帰るなりとんでもないことを言い放って度肝を抜いた。
「皆んなに良い知らせがある! お父さんなぁ、皆んなの要望に応えて買ってきたぞ!」
「ええっ!」
買ってきたと、目的語を省略して言われたのに、お父さんの言いたいことが容易に察しが付いてしまった。恐れていたことが現実になってしまった。
「やっぱり行ってちゃんと確かめるもんだね。インターネットで見つけたのは、実際見てみるとあんまり良くなかったんだ。でもね、その近くに超良いのがあってね」
「買ったって、お父さん! そんなお金何処にあったのよ!」
わたしの心配事とお母さんの心配事は全く違っていた。
「え、お金? ……ああ、去年、株売っただろ。そいつで」
「か、株って何それ? お父さん、株なんかやってたの!」
「結婚する前から」
「嘘おっ!」
お父さんはさらりと株で儲けた話をしたけど、お父さんが株をやってたのってお母さんには内緒だったのかしら? でもそれにしてはお父さんは普通に言ってたけど。
「ねえねえ、お母さん」
「え」
「お父さんが株してたのって、初耳なの?」
「結婚してもうすぐ二〇年になるのに、そんなこと全然知らなかったわよ! 隠し事はしない人だと思ってたのに。それに何の相談もなく田舎に家を衝動買いするなんて、信じられないわよ!」
お母さんはショックで言葉を失った感じだったけど、それってこの場合、お父さんが株をやってた事実が判明したことになの? それとも家を衝動買いしたことに? 夫婦間での隠し事は後々尾を引きそうで恐いわ。まあ、どっちにしても、わたしの心配事とは接点を持つものじゃなかった。
「嘘ぉっ! お見合いのとき、株の話で盛り上がったじゃないか。今でも瞼を閉じればあの日の光景が思い浮かぶ。勝子、もしかして忘れてたの? お父さん、ちゃんと趣味は株ですって言ったはずだろ」
どういうわけか話題は両親の出会いの頃にまで遡っていた。そのときのわたしが置かれた状況を考えれば、見合いで結婚した両親の遠い過去の思い出話なんてどうでもいいことだった。問題にしなければならないのは、お父さんが買ってしまった田舎の家の取り扱い方法じゃないか!
「で、どうすんのよ!」
話が先に進まない両親に、わたしは雄叫びを上げた。
「だって、お父さんはちゃんとお見合いの席で、お母さんに株やってますって言ったんだよ。なのに、それをお母さんが忘れてたのがいけないんじゃないか。あんなに盛り上がったのに。お父さんは、別に内緒にしてたわけじゃないよ」
わたし、お父さんをそのときほど宇宙人だと思ったことはない。全然、話が通じない。
「株の話はもういいのよ! そんなことよりも家よ! 田舎に家なんか買ってどうすんのよ!」
わたしは更に吠えた。
「ああ、家ね……。
お父さんが買ってきた家は良いぞ。皆んな気に入ると思うよ。これぞ田舎って感じでね、兎に角良いんだよ」
「気に入る、気に入らないの問題じゃなくて、引っ越すかどうかだよ!」
わたしは怒り狂って叫んだ。するとようやくとぼけたお父さんが真面目な顔で応えた。
「リフォームが整ったら引っ越すぞ。身のまわりの整理しといてな!」
わたしたちが田舎に引越したのは、田舎に買った家のリフォームが完了して三日後の、春まだ遠い二月半ばのそこそこ暖かい日だった。
家財道具一式は翌日届けられることになっていた。わたしは結局転校を余儀なくされ、友達ともしばらく物理的に離れなくてはならなくなった。
東京を離れて田舎に向かう道中の車内で、わたしはお父さんに引っ越したくなかった本当の理由を話した。
「どうせ皆んな同じ大学に行くんだろ。高校は附属なんだから。なら来年卒業したらまた逢えるじゃないか。一年なんてすぐだよ」
友達と離れ離れになるのが嫌だとお父さんに打ち明けたとき、お父さんは深刻に悩んでいたわたしに優しくそう言ってくれた。
言われてみれば確かにそうかも。高校は附属だもんなぁ。友達の大半はそのまま上に進むだろうし、わたしもそこを受けて受かればいいだけのことじゃないか。
「友達に逢えないといっても、今はメールや電話で何だかんだと連絡できるんだからなぁ。お父さんが学生の頃と違って、今は離れていても逢えないだけのことで、コミュニケーションは幾らでも取れるだろ。永遠に逢えないわけじゃないんだから、そんなに深刻にならなくてもいいよ」
お父さんは珍しくわたしのことを気にしてくれたけど、わたしはそんなお父さんの或る事が気になってしょうがなかったのだ。
「ところで、お父さん。田舎でどうやって生活していくつもりなの? という前に会社どうすんの?」
「会社か?」
「うん。まさか岡山から東京まで通勤するわけじゃないよね」
「当たり前だ」
「じゃあ、会社は? え、もしかして辞めちゃったとか?」
「今頃何言ってんだよ。お父さん先週辞めたって報告したじゃないか。退職祝いに皆んなでフランス料理食べに行ったの、あれもう忘れたのか?」
「フランス料理?」
あれはわたしの一七回目の誕生祝いだっはずだけど。
「え、嘘ぉっ!」
あれはわたしの一七回目の誕生祝いだと思ってたけど。まさか、あれがお父さんの退職祝いだったなんて! わたしの誕生パーティーは何処へ行っちゃたのよ!
「あれって、わたしの誕生パーティーじゃなかったの?」
「勿論、陽子の十何回目かの誕生祝いも兼ねての、メインはお父さんの退職祝いだったんだ。勤続二一年か、お父さんのこの性格でよくもまあ二一年もつづいたもんだ。アハハハハハ」
お父さんは自分なりに、自分の性格は理解しているつもりでいた。基本的に流行物好きで、でもすぐに飽きる傾向の強いお父さん。何をやっても長続きしたものはない。というか田舎に向かう車内で、改めてお父さんの性格についてどうこう言う必要はないような気がした。
お父さんの話を聞いててやっと或る疑問が解けた。ケーキに立ててあった蝋燭の数が、わたしの年の数よりも多かった理由。
あの時どうもおかしいと思ったんだよなぁ。蝋燭の火を吹き消すとき、数えると確かに二一本あった。そのときわたしは四本多いのはお店のサービスだと思ってたけど、バースデイケーキにサービスで年の数を上乗せして、余分に蝋燭を立ててくれるお店なんか聞いたことがないわ。
「で、生活はどうすんのよ?」
「家を買った残りの金で、田んぼと畑を買ったんだ。だからそこで米と野菜を育てて食費は浮かせるつもりだよ。それと、お父さんな、田舎でその土地の木材を活かして家具作りをしようと思ってるんだ。そのうち商品になりそうなものが作れるようになったら、それを売って生活費の足しにするつもりだよ。
ついでに炭作りなんかもやってみたいと思ってる。まあ、インターネットでホームページ開いて宣伝してたら、物好きがお父さんの作品を買ってくれるんじゃないかな。なんとかなるだろ」
途方もないお父さんの将来設計に、わたしもお母さんも愕然としたけど、小六の弟は会話の意味がわからなかっただけに、黙って車窓の風景に目をやっていた。
何だかんだと話していうちに、新しい我が家に着いた。
朝早く東京を出たけど、着いた頃にはもうとっくに日が落ちていた。兵庫県に入った辺りから山道をひたすら走りつづけ、途中何度も雪に足を取られて冷や冷やする場面もあったけど、何とか無事に到着することができた。
山間にひっそりと佇むまばらな集落からは、暗闇の中、仄かに明かりが見えていた。村には街灯は一つも見当たらず、本当に真っ暗闇だった。車のヘッドライトが映し出す物ときたら、村全体に積もった白い雪の塊と宙に舞う雪だけ。雪に埋もれた風景しか見えないから、村が実際どんな様子なのか皆目見当がつかなかった。
車は静かに家の前の空き地に停まった。お父さん御自慢の家と対面したときのわたしの印象は、古くてやたらとデカイ家だわ。ただそれだけだった。家というよりも館といった方が良さそうな感じもする。元々は神主さんの家だったらしいけど、神殿とは言わないまでも、なかなかそれらしくて立派な建物だった。家は日の出に向かうように真東に門を構えていた。
車のエンジンを止め、明かりが消えると辺りは漆黒の闇に包まれた。近くに小川でもあるのだろうか、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。お父さんは懐中電灯を点けて足元を照らし、皆んなに車から降りるように促した。手荷物を提げて車を降りたわたしは、空気の冷たさに一瞬身体をびくつかせ、お父さんのすぐ後につづいて玄関に向かって歩きはじめた。
竹で組まれた腰程の高さの弊が広い敷地を囲み、竹でできた大きな門が口を開いてわたしたちを待っていた。竹の門は最近の物だった。多分、お父さんが以前視察にきたときに、地元の業者さんについでに注文したんだろう。そこにはローマ字で「MURAOKA」と墨で書かれた表札が掛けられていた。お父さんの趣味だろうけど、どう見ても田舎の古い家には不釣り合いだった。
門を潜ると石作りの小さな橋が現れた。到着したときから聞こえていた水の流れは、なんと我が家の敷地内からだったのだ。川幅一メートルくらいの浅い小川が敷地内を囲んだ弊に添って流れていた。東京のマンションでは絶対にお目にかかれない代物だ。そのときわたしは何故か家に小川があるくらいのことで嬉しく思ってしまった。
「足元注意しろよ」
と、振り返りながら注意を促したお父さんが、石橋を渡りきった先の敷石で引っくり返りそうになってよろめいた。
敷石には苔がメッキのように張り付いて凍っていた。不思議なことに敷石には雪が積もってなかった。橋から玄関までは一〇メートルくらいあるだろうか。デコボコに変形した古い苔まみれの墓石のような長方形の石が、二メートル程の幅で敷かれていて、ちょっとした参道のようになっている。わたしはお父さんみたいに滑らないように注意して、敷石を一歩一歩踏みつけて歩いた。
「これってどこかの墓場から拾ってきたのかなぁ?」
好奇心旺盛なわたしはとりあえずお父さんに訊いてみた。
「そうかも」
お父さんはその時何故かニコリともしなかった。お父さんにしては意外な反応だった。
まさか本当にお父さんの言う通りだったりして? でもそんなことはないんじゃないか? わたしはお父さんの表情に深い意味はないだろうと気にしないように心がけた。いくら神主の持ち家だったといっても、常識で考えて自宅に盗んだ墓石を敷くとは考えられないではないか。わたしはそういう見解に一先ず落ち着くと先を急いだ。
奇妙にも石畳は玄関に通じるのではなく、建物の左手に真っ直ぐに伸び、建物にぶち当たった所で右に折れて四、五段くらいの石の階段に繋がっていた。階段は建物の中央にある玄関に登っていた。
石畳と垂直に交わる建物は、縄文時代の家屋のような作りで高床式だった。屋根には今にも押し潰されそうなくらい大きくて重たそうな藁葺きが広がり、急勾配で反り上がった屋根の天辺の左右の両端には角のような二本の棒がそれぞれ斜めに突き出していて、棟木には短くて少し太い棒が幾つも並んで見えた。まるで千木と鰹木で装飾された神社の屋根のようだった。
お父さんは石の階段を駆け上がると玄関の鍵を開け、大きな木製の引き戸をこじ開けて先に中に入り、玄関の明かりを灯して「さあ、今日からここが我が家だ!」と、子供のようにはしゃいでわたしたちを家の中に招き入れた。
玄関に明かりが点くのを確認するまで、電気が通ってないんじゃないかと不安だったけど、その不安はクリアされたようだ。
明かりが点いて建物の前面部分がおぼろげに浮き上がって見えた。玄関を境に向かって右手はごく普通の家だったけど、左手はどう見ても社だった。
高床式の床に外に向かって大きく突き出した縁側。その縁側には神殿特有の手すりのような囲いが走っている。わたしはちょっとだけ鼓動が速度を上げたのを感じた。何か胸騒ぎのような、ゾクゾクした厭な感触が駆け抜け身震いした。
「これってもしかして神社?」
わたしは玄関の左手に鎮座する建物を見つめながら、誰にも聞こえないように呟いた。
雨戸で締め切られたそいつは、柱の一本一本までもが巨大で、軒下に注連縄でも吊るしてやれば絶対に神社に早変わりしそうだった。わたしは振り返って石畳を見下ろして門の方を眺めた。
「気のせいかなあ。なんかあの門の場所には以前は鳥居があって、石畳を挟んで狛犬がいたような気がするんだけど」
「言われて見れば初詣にお参りした神社みたいだね」
弟も疑問に思ったようだけど、明るく応えた感じからわたしが抱いている程別段不気味には思ってない様子だった。
「何見てるの。寒いでしょ、早く入んなさい!」
ぼうっときた道を眺めていたわたしと弟に、お母さんが玄関から顔を出して手招いた。わたしたちは小走りに家の中に入った。
玄関は一面板張りの床が広がり、一段上がった板間から家の奥まで、学校の廊下くらいの幅の板張りの長い廊下がつづいていた。廊下の先はまだ明かりが点いてなく、陰でよく見えない。その仄かな薄闇が本能的にわたしに警戒心を募らせた。
「それにしても、すっごく広いわねぇ!」
荷物を床に置きながら、お母さんが玄関の広さに驚嘆の声を上げた。
「この玄関だけでも東京のマンションより広いかもな」
確かにお父さんの言葉は過言ではなかったと思う。その日の朝まで住んでいた3LDKのマンションが、すっぽりそのまま玄関に収まりそうだった。玄関の大きさは驚かされるばかりだったけど、人が寄り付かないような山奥の田舎の家なんだから、こんなに広くなくてもいいんじゃないかと思った。
「こんな田舎に靴で一杯になるくらいお客がくるとは思えないよね」
「東京から陽子の友達をよべばいい」
友達をよんだところで、この広い玄関を靴で埋め尽くす程の足はないと思う。多分クラス全員を招待してもまだ靴は並べられそうだ。
「こないよ」
絶対にこんな田舎の村まで友人たちがくるとは思えなかった。
「マンションじゃないんだから、泊る部屋は心配しなくてもいいんだぞ。部屋数は多いとは言えないけど、寝場所に困らないくらいのスペースは十分にあるからね。アハハハハハ」
何も寝場所を気にして「こないよ」と言ったわけじゃないのに、お父さんはよほどこの家が気に入って見せびらかしたいのか、わたしの意味を履き違えて解釈していた。
「ねえねえ、ぼくの部屋は?」
「尚幸の部屋は二階の一番日当たりの良い部屋だぞ」
「本当! やったあ!」
東京のマンションでは、わたしは弟と部屋を共有していた。部屋数の限られたマンションだから仕方のないことだと半ば諦めて、あんまり気にしてなかったけど、でもこうして自分一人だけの部屋が与えられたことはわたしも弟同様に素直に嬉しかった。
「わたしの部屋は?」
「陽子の部屋も二階だ。二階の二番目に日当たりの良いとこ」
どうして弟の部屋が一番日当たりの良い部屋で、わたしが二番なんだ!
「ちょっとぉ! なんでわたしの部屋が日当たりが二番目に良い部屋なのよ!」
「だって、どうせ陽子は来年大学受かったら東京に帰るんだろ。大学行って、そして就職、それでもって結婚だ。てことはこの家で過ごすのは、一生の内せいぜい高校卒業までの後一年くらいじゃないか。ということで審査の結果、後まだ最低五年はここに住む見込みのある尚幸に一番日当たりの良い部屋を譲ることにしたんだよ。陽子の部屋でも十分に日当たりは良いんだから。まあ、後で部屋に行けば納得してもらえると思うけどね。それよりも皆んなそんな所に突っ立ってないで早く靴を脱いで」
兎に角わたしたちは靴を脱いでこれからお世話になる我が家を直に踏みつけることにした。
「ええと、そこが台所でそっちはただの部屋」
広い玄関から奥に真っ直ぐ伸びた廊下を進む。
先ず最初に廊下を挟んで左右に扉が見えた。右手は台所で、左手はただの部屋だそうだ。わたしたちはお父さんの案内に従って、先ず右手の台所に入った。
扉を開けると台所に降りる木製の小さな古い階段が現れた。上ったり降りたりと忙しい家だ。広さは玄関ほどではないにしろ、かなり広い。二〇畳以上はあろうかという板間が広がっていて真ん中に囲炉裏があった。その板間を囲むように北側と東側にL字型にこれまた広い土間がある。広い台所の割には小さいが窓は北側一面にあった。土間になっている場所にはステンレスの光沢を放つシンクはなく、全て土でできたシンクの原始形があった。
わたしたちはお父さんが予め用意していた下駄を履いて土間に降りた。雰囲気はまるで食堂の厨房のようだ。ガスレンジは勿論ない。代わりに一〇段重ねの飛び箱並の、大きな竈が壁際に仁王立ちしているのが一際目立った。大人一人を炊き上げることも十分に可能な感じだ。
水道の蛇口は洗い場に一つあるのが見えたけど、蛇口に通じる水道管の先は、台所の隅を陣取っている井戸に繋がっていた。方角的に北東に位置する井戸だ。その井戸を見張るかのように北側に勝手口があった。わたしは北東に位置する井戸と勝手口に異様なおどろおどろしい物をイメージしてしまった。
北東と言えば鬼門じゃないか!
古い大きな家だから、もしかしたら昔誰かがこの井戸に身を投げて死んだかもしれない。
「あの、お父さん! あそこの鬼門の井戸で誰か死んだ話は聞いてない?」
わたしは露骨に訊ねた。
「ここ五〇年は死んでないそうだ。それ以前のことはわからんって不動産屋が言ってたな。なんだ、やっぱり陽子も気になったみたいだね。心配するな、陽子が気にしてるようなことは、全部お父さんが前もって訊いて調査済みだから」
「五〇年以上前のことはわからないって?」
「この家の持ち主だった人は今五〇歳なんだそうだけどね。その人が生まれたときにこの家を改装したらしいんだ。その人によると生まれて以来、不気味なことはないって不動産屋が言ってた。で、持ち主だった人は今はここを手放して、去年から海外に住んでるらしいよ」
「神主さんが住んでたんだよねぇ?」
「いや。その人は何かの会社の社長さんらしい。神主の家系だけど、その人は神主にならなかったみたいだね。その人のお父さんの時代で儲けにならないからって神主は辞めたらしいんだ」
「そうなんだ……」
「あの、ちょっといい。ガスないようだけど、まさか薪で火を焚くんじゃないでしょうね」
お母さんが不安気に訊ねたけど、お父さんの答えは想像した通りだった。
「田舎暮らしだからな。薪だよ、薪! 尚幸! 竈で炊いたご飯はね、電気釜とは全然比べ物にならないくらい美味いんだぞ」
「ほんと、お父さん! 竈で炊いたご飯ってそんなに美味しいの!」
「ああ。お父さんもまだ食べたことはないんだけどね。聞くところによると美味らしいぞ」
お父さんと弟はまた見詰め合って目を輝かせていた。よくもまあ食べたこともないのに、知ったようなことをまだ汚れを知らない純真な心の弟に言えるものだと、わたしは呆れるばかりだった。お母さんはこれからの家事の苦労を思ってだろうけど、言葉を失って顔面蒼白になって竈を見つめたまま、田舎に越してきたことを今更ながら後悔しているように見えた。
「そんな顔してどうしたんだ? ガスがないのがそんなに不安か? ガスがなくても薪があれば大丈夫だよ。昔の人はね、皆んなガスなしで生活してたんだからなぁ。アハハハハハ。お父さんが薪を割って火を起こしてやるから。勝子は何も心配しなくていいんだよ」
お父さんは笑顔でそう言ったけど、お母さんは顔色一つ変えず、顔面蒼白のまま黙って俯いていた。わたしは台所を一望してふと思った。
「この板間にテーブルと椅子を置くつもりなの?」
「ああ、明日テーブルが届いたら、その辺りに置くつもりだよ」
と言ってお父さんは囲炉裏の東側の壁の少し手前をさした。
「そうか。でも配膳や後片付けのとき、一々下駄履くのが面倒だね」
わたしは顔面蒼白を継続するお母さんに言った。
「そうね。慣れるまで大変そう」
この田舎の家に慣れるまでのお母さんの苦労を考えると本当に大変だと思ったから、余計に労りの言葉が出てこなかった。
「そろそろここはいいかな?」
わたしたちはお父さんに案内されるままに台所を出て、向かいの部屋に入った。観音開きのゴージャスな扉を開けて中を覗くと、先ずそのとてつもなく広くて大きな板張りの空間に言葉を失った。
まるで体育館だった。天井は吹き抜けになっていて高い。空間を縫うように縦横に走る太い梁に、忍者の一人や二人乗っかってても見落としそうだ。
天井に点々とぶら下がった蛍光燈だけでは、その広い部屋全体を明るくできなかった。部屋の東側と南側には大きな窓がある。南側の大きな窓は、部屋に沿って一面つづいていた。元々は北側の今は廊下に面している壁も南側のように全面開いていたようだけど、改築されて三個所に扉が空いた壁になったようだ。
「どうだ、広いだろ! 天井も凄く高い。この部屋だけで五〇坪だぞ」
お父さんに言われるまでもなく広いということはわかった。でも、五〇坪と言われてもわたしには全くピンとこなかった。
「どうしてあそこだけ?」
不意に弟が部屋の奥、西側の壁の辺りを見つめて叫んだ。
薄明かりでもはっきりわかるほど、そこだけ他と板の色が違っていた。東西南北を囲う壁のうち、東南北はくすんだ茶色に黒い染みが浮き上がり、いかにも古い板の壁だった。しかし、西側だけは明るい色のベニヤ板になっていた。よく見ると西側の壁の手前三メートルくらいから西の壁までの床の板も他とは色が違っていた。
同じ空間にありながら、西側だけが明らかに明るい色の板で直されている。極端な明暗の色の変化が、不気味さを招いて鼓動を急かせた。弟が自分の胸に留めないで、声に出して皆んなに疑問を共有してもらおうとしたのもわかるような気がした。
「下見にきたときな、西側の床と壁の板が腐ってて直したんだよ」
「突然板の色が変わってるから変だなって思っただけだよ」
弟はそう言ってそれ以上詮索しなかったけど、わたしは違っていた。お父さんは板が腐ってたから張り替えたと言った。でも、そう言ったお父さんの仕種は妙に余所余所しく、本当のことを敢えて言わないでおこうと努めてるように見えた。それが一層わたしに疑問を抱かせた。
変だ! 常におどけたお父さんが、真面目に応えるなんて絶対に何かあるに違いない!
本当は何かを隠してるんじゃないだろうか?
とすればそれは一体何?
どう考えても部屋の一個所だけ板を張り替えておくというのは、あまりにも見栄えが不細工ではないか。
その板をめくれば何かが現れる。きっとそうだわ! 何かを隠しているのよ。いや、封印しているに違いないわ!
そういう結論に達したときだった。一瞬背筋に冷たいものが走り、身体を縮こまらせた。けど、多分それは暖房器具のない部屋が異常に寒すぎたからだろう。
「それにしても、張り替えるならもうちょっと色合いを考えて、バランスの取れた色の板、古材とか使えば良かったのにね」
そう呟いたお母さんはかなり気に食わない様子だった。
「できればそうしたかったけど。この部屋に合う色の古材が手に入らなかったんだよ。アハハハハ」
とお父さんは頭を掻きながら言ったけど、想像力を最大限に膨らませてしまったわたしが、そんな回答で納得するはずがなかった。
「じゃあ古材が見つかるまで手直ししないで、そのままにしておけば良かったじゃない」
「え。いや、その、あー、実はそうしようかと思ったんだけどね。早くこっちに引っ越したかったもんで、手持ちの材料ですませてもらったんだ。アハハハハ」
わたしにはどう考えても、それはお父さんのたった今思い浮かんだその場凌ぎの苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
やっぱり触れられたくない何かを隠しているんだわ。
「お父さん!」
「な、何突然! びっくりするじゃないか」
驚いたお父さんが慌てて飛びのいた。
「あそこには何を隠してるの!」
わたしははっきりしないお父さんに大声で問い詰めた。
「隠してる? ……隠してるって何を?」
お母さんが張り替えた板をじろじろ見ながら言った。
「さっきからお父さんの様子をチェックしてたけど。何か変じゃない? ほら、説明になってないし、はぐらかしてるでしょ。隠し事は良くないわよ!」
わたしは仁王立ちして、鬼の首を鷲掴みしたかのようにお父さんを指さして言った。
「な、何をおかしなことを言ってるんでしょう。この子ったら。アハハハハ」
お父さんはおろおろして、天井をきょろきょろ見て硬直してしまった。以前テレビでやってた懐かしの映像に出てた終戦直後の直立不動でマイクに向かう男性歌手のようだ。
「確かにおかしな説明だったわね。お父さん! また何か隠し事してたのね!」
お母さんの形相がみるみる鬼化していった。
「隠し事」という言葉がパスワードになって、記憶の底に埋没したお父さんの株の一件を浮上させてしまったようだ。お母さんの脳裏にはあのときの怒りが再び甦ったようだった。旅の疲れでぐったりしていたお母さんは、完全に鬼に変身していた。変身したことによってパワーも取り戻したようだ。変身したお母さんは、これからお父さんをどう訊問しようかと思案を巡らせるわたしの強い味方になった。
「何だよ、勝子まで恐い顔して! お父さんが隠し事なんてするわけないだろ」
わたしとお母さんに詰め寄られて、お父さんは後ずさりした。
「動揺してるところを見ると、さては本当に何か隠してるようね! お父さん! さっさと吐いてしまいなさい。張り替えた板の裏に何を隠してるの! まさか死体じゃないでしょうね!」
「ええっ! 死体ですって!」
死体と聞いた途端にお母さんの変身が解けてしまった。その代わりわたしは刑事に変身していた。
わたしに詰め寄られたお父さんの顔が、みるみると蒼褪めていく。お父さんが言わなくても、その表情がわたしに確信を持たせた。
やはり、そうだったのか。
この建物は古い。
永い間数世紀に渡り、この地に居座っていたのだろう。
板の裏に埋め込まれた死体の数も、一体や二体じゃないはずだわ。
世紀を重ねるに連れ、一体、もう一体と増していったはず。
「お、お父さん! お父さんは何てとこにわたしたちを住まわせようとしたの!」
悲鳴のようなお母さんの叫び声は、多分氷点下の表にも響いていたと思う。
「はぁ! 何考えてだ! どういう風にすればこの板切れの下に死体を隠せるんだ! この床は板切れ一枚なんだぞ。壁もそうだけど、めくればそこはもう外だよ! バカバカしい! 話に付き合って損した! さあ尚幸行くぞ!」
そう言ってお父さんは怒って弟の手を引いて部屋を出てしまった。
……てことは何?
お父さんの説明は本当だったの?
お母さんも口をぽかんと開けて、今のは一体何だったのかしらといった表情で、部屋を出て行くお父さんの背中を見ている。わたしはそれ以上、問い詰めて考えないことにした。かなり高い確率で、わたしの早合点だったことが判明したのだから仕方ない。
わたしは気持ちの整理をつけて、妄想が生んだ戯言を安易に信じ込み、思わず本気で怖がってしまった軟弱な心に気合を入れて、お母さんの背中を押しながら部屋を後にした。
お父さんたちの後を追いかけて板張りの広い廊下を奥に進む。丁度台所の隣りがお風呂場になっていた。お風呂場も台所同様に階段で数段降りなくてはならなかった。建物の北側に位置しているからなのか窓は小さい。でも広さは脱衣所と洗い場を合わせると、自動車が七、八台は軽く停められそうだった。銭湯の雰囲気を十分に醸し出している。湯船は大人一〇人が一度に入れそうな広さ。こんな広い湯船はマンション暮らしのわたしには驚きでしかなかった。お風呂場はわたしをワクワクさせるものだったけど、古い家だけにシャワーの設備が整ってなかったのが残念だ。
「お父さん。このお風呂もすごくデカイけど、ここで溺死した人なんていないよね?」
弟が何やら不安そうに弱々しく訊ねた。
「多分、死んでないと思うけど。でも五〇年前に建て直したとはいえ、古い家だからねえ、案外一人や二人死んでるかもな。ハハハハハ。その方が自然だろ」
笑い事ではないと思った。この言い方はさっきの報復だろうか? まだ大人運賃を払わなくてもすむ尚幸が、途端に顔を引きつらせて今にも泣きそうになってしまったじゃないか。
「お父さん! 気持ちの悪いこと言わないでよ! 冗談だとわかっててもお風呂に入るとき、背後を警戒するようになっちゃうでしょ!」
わたしはお父さんの悪ふざけに、弟の分まで言ってやった。しかし、お父さんの報復はそれで治まることなく、今度もまた真面目な顔で言ってきたのだ。
「いや、それがね、そうでもないんだよ」
「え」
わたしも弟もついでにお母さんも一斉に生唾をごくりと音を立てて飲み込み、恐怖に怯えながらお父さんを見た。
まさか、誰も死んでなんかないよね。じょ、冗談でしょ。
「ガハハハハハ! 冗談だよ。冗談!」
お父さんは罪の意識なんて微塵も感じた素振りも見せず、軽く笑い飛ばした。わたしは思った。多分、弟もお母さんも皆んな同じ事を考えてたと思う。
真っ先にこの湯船に沈むのはお父さんだな!
「この湯船にお湯を張るとなると、水道代もバカにならないわねぇ」
わたしがお父さんに殺意を覚えたとき、お母さんが主婦らしい心配事をぼそりと漏らした。
「なーに、心配御無用! お風呂もな、井戸水を溜めて薪で焚くんだよ。こんなことマンションじゃできないぞ! マンションでそんなことしたら火事になるからな。アハハハハ。
うちだけが燃えるのならいいが、マンション一棟全焼させてしまうかもしれないからねえ。アハハハハハ。
この風呂は銭湯並だからね。夏場はプールになるんじゃないか。な、お母さん! 金に困ったら銭湯でもはじめるのもいいかもな! アハハハハハ」
お父さんは将来お金に困ったときの逃げ道を思いついたことが、とても嬉しかったみたい。満面の笑みを浮かべてお母さんに同意を求めたけど、お母さんはしかとして呆れて先に風呂場から出ていってしまった。
お風呂場を出た向かいにも観音開きの扉があった。でも、これはさっき入った体育館みたいな部屋の扉だった。この部屋には廊下の先に後もう一つ同じような観音開きの扉があった。体育館は流石に言い過ぎたかもしれない。改めて言うなら、ちょっとしたホテルの宴会場だ。
お風呂場を出て更に廊下の奥に進むと、一般家庭サイズのドアが現れた。このドアは押し戸で古い家の壁の板とは色を等しくしないベニヤの新しいものだった。
「ここはお父さんとお母さんの部屋だ」
部屋は他の部屋と比べ物にならないくらい狭く感じたけど、お父さんによるとその部屋ですら一六畳はあるそうだ。わたしたちの目は完全に広さを認識できないくらい、この家の広さに麻痺されていた。
両親の寝室を出て廊下の突き当たりに達した所、一階の最西端にトイレと二階に通じる階段があった。階段は北側に向かってかなり急な勾配で伸びていた。お父さんは階段の明かりを点け、鼻歌を歌いながらすたすたと駆け上がって行ったけど、わたしたちはお父さんほどもう浮かれていなかったので、疲れた身体を引き摺るようにゆっくり上っていった。
階段の終点は、二階の北側に東西に伸びる廊下に繋がっていた。驚いたことに二階は一階ほど広くはなかった。部屋数は五つでこれらは全て一六畳だった。
階段の真隣りの西側の部屋はゲストルーム用に空けていて、次の部屋は物置部屋に使う予定だそうだ。中央の部屋はまだ使用目的が決まってなくて、その隣りの部屋がわたしの部屋だった。わたしはお父さんに案内されるまま、その日から自分の部屋となる部屋の押し戸の扉を押し開けた。
「どうだ、ここが今日から陽子の部屋だぞ! 良い部屋だろ!」
フローリングの床、四方を囲む壁は木目を活かした板切れがレンガのようにびっしり埋め込まれている。趣味は良いと言っていいのかよくわからないけど、わたしは嫌ではなかった。でも、所々に見える板切れの節目が人の目玉に見えなくもなかったので、それがちょっとだけ気になった。
部屋は南向きに大きな窓が開いていた。家財道具で埋まっていない部屋は、ただ広い空間がそこに空いているだけで、別段これと言って感動を呼ぶものにはならなかった。生まれて初めて自分の部屋になろうとするその部屋に、ときめきが全くなかったのは意外だった。
「どうだ、凄いだろ! 感想は?」
お父さんは自信満々にわたしに部屋を見せた。多分、わたしの喜ぶ顔を期待していたんだと思う。けど、わたしはお父さんの期待に応えてあげることはできなかった。
「まあまあだね。さ、尚幸の部屋行こ!」
わたしたちは拍子抜けしたお父さんを置き去りにして、弟の部屋へ行った。
二階の一番東に位置したそこは、お父さんの言う通り確かに二階で一番日当たりの良い部屋だった。間取りは他の部屋と何も変わらない。ただ違っているのは他の部屋よりも窓が一つ余分に東側に開いてるというだけだ。
「この部屋は東側にも窓があるからね、その分日当たりが良いんだよ」
遅れて入ってきたお父さんが弟に向かって言った。
「ここが今日からぼくの部屋になるんだね!」
「ああ。今日からずーっと尚幸の部屋だ!」
弟は大層喜んでたけど、わたしはその部屋を見ても、羨ましいとも何とも思わなかった。どうして羨ましく思わなかったのかわからないけど、多分どの部屋も見栄えのしない部屋だったからなのかもしれない。
「さあ、もう遅いからそろそろ休むとするか」
「そうだね。ところで今日はどこで寝たらいい?」
お母さんが寝場所を心配してお父さんに訊ねた。家財道具がまだ届いていないこの家のどの部屋が、わたしたちの疲れを癒す場所になるのか、わたしも知りたかった。
「一階はお父さんたちの部屋以外は眠れそうにないからなぁ。というのも広すぎて、この寒い山奥だろ、明日目が覚めたら凍死してるかもしれないからなぁ。アハハハハハ」
凍死してたら目も覚めないだろう! と言いたかったけど疲れてたので止めた。
家の中で凍死だなんて冗談じゃないわ! お父さんは冗談でそんなことを言っているのか、それとも真面目に言ってるのかよくわからないから困る。
「じゃあ、今日は何処で寝るのよ。一階のお父さんたちの部屋?」
凍死したくないわたしはお父さんに訊ねた。
「そうだなぁ、どこにしようか?」
「ぼくの部屋で寝ようよ!」
「そうね。じゃあここで寝ましょうか」
お母さんは弟の意見に賛成だった。お父さんも部屋なら何処でも良さそうな感じだったので、弟の意見をとりあえず採用することになった。わたしも寝場所なんて何処でも良かった。弟は自分の部屋で眠れることにワクワクしていたから満足だったみたい。寝場所が決まったところで、わたしたちは玄関に置きっぱなしにしていた手荷物を、弟の部屋に運んで眠りに就いた。
翌日、わたしは到着した引越し屋さんのトラックのクラクションの音で目を覚ました。弟はまだ眠ってたけど、両親はもうとっくに起きていた。わたしは起き上がって寒さに震えながら、強い陽射しが差し込む東の窓を開けて外を見下ろした。するとお父さんがトラックに駆け寄っていくのが見えた。
冷たい外気に全身を晒したわたしは、一瞬にして眠気を飛ばされた。家の前は白い雪を積もらせた階段状の段々畑が広がっていた。その先はもう山になっている。二階の窓から見える村の景色は、積もった雪が邪魔して全貌を見ることはできなかった。わたしが村の全貌を確認したのは、春になって積もった雪が溶けてからからだった。
冬になると白一色になる村。わたしは村を眺めて思った。わたしが抱いていた田舎のイメージはこんなんじゃないんだよなぁ。昔からサンタクロースがトナカイに引き摺られて顔を覗かしてきそうな森に囲まれた、北欧の田舎の風景に憧れていただけに、味噌と漬物の匂いが漂ってきそうな日本の田舎の農村の雪景色は味気なく興ざめするものだった。
静かに雪が降り注いでいる村の景色を見ていると、何故かとてつもなく大きな淋しさに心が虫食まれていくようで見るに堪えなかった。わたしは東の窓を閉め、南の窓を開けた。南の窓を開いて真っ先にわたしの視界に飛び込んできた物は、雪が薄っすら積もった藁葺きの屋根だった。弟の部屋からはまだ屋根の向こう側の景色を楽しむことができたけど、わたしの部屋に至っては窓から見える景色の半分が藁葺き屋根で、二階の中央の部屋は窓を全開にしても藁しか見えなかった。
ここにきてようやく、二番目に日当たりが良いと言ったお父さんの本当の意味がわかったような気がした。だけど、わたしはそのとき感情を剥き出しにして怒る気もしなかった。多分、そのとき引越し屋さんのお兄さんたちの声が聞こえていたからだろう。わたしは視線をそっと藁葺き屋根の天辺に向けた。前の日見た屋根の天辺から突き出して見えた角の正体を確認したいと思ったからだ。屋根の天辺の両端には確かに棒が二本ずつ斜めに突き刺さっていた。それは神社の屋根にあるやつと全く同じで、間違いなく千木だった。おまけに鰹木もちゃっかり棟木の上に直角に奇麗に並んでいた。わたしはそのとき確信した。
「これってやっぱり神社だったんじゃない!」
わたしはこれから大学に入学するまでの一年間、神社をそっくりそのまま活かした家で過ごさなければならないのかと思うと、恐怖のあまり引越し屋のお兄さんたちがいることも忘れて叫んでしまっていたのだ。
「おーい! 朝っぱらから何感動してんだ! 早く降りてきて荷物運ぶの手伝ってくれ!」
わたしの気持ちを逆なでするお父さんの声が、妙に冷たく感じたのは冬の寒さのせいかしら?
この村にきて半年が過ぎた。大学受験まで後半年だ。わたしはこの家から脱出するためにも、絶対に大学に合格してみせるわ! もし受験に失敗したら、その時はその時で東京に戻って働こう。うちにはわたしを浪人させる余裕はこの神社を購入した時点でなくなった。就職活動していないわたしの未来は受験に合格すれば女子大生、落ちればフリーターのどちらか一つだ。
お父さんたちは余裕を持って、一六日には帰ってくると言った。今日は八月一三日。三日間もこんな家に一人きりで過ごすなんて、やっぱり繊細なハートの持ち主のわたしにはどうしても耐えられないわ。
「何も心配ないぞ! 陽子! ここはね、昔神社だったんだから神さんが守ってくれてるから強気でいろ! あ、そうそう大広間のあのベニヤのとこは毎日掃除しといてくれよ。あそこに元々神さん祭ってたそうだからな。まあなんだ、多分、泥棒は入ってこないと思うから安心して勉強しなさい」
「泥棒に入られても盗られるような物って何一つないじゃない! あるのはお父さんのわけわかんない材木の山ばっかりでしょ! 元々が神社だったからこそ、余計に気持ち悪いんじゃない!」
お父さんが大広間と呼ぶ部屋は、五〇坪の広さを誇る例の殺風景な体育館のような宴会場みたいな部屋で、今はお父さんの仕事場兼材木置き場になっていた。部屋の西側のベニヤ板で手直しされた場所に、昔は神様がお祭りされていたらしいけど、お父さんは容赦なく材木やゴミを散らかしている。なんだかお父さんは言ってることとやってることがかなり違ってるような気がするんだけど、それってわたしの気にしすぎかしら?
「おいおい、そう興奮するな。その持て余すエネルギーを受験勉強に向ければいいんだよ。今日から陽子以外は誰もいないんだから、静かに勉強できていいじゃないか。天然の静けさだぞ。都会の受験生が聞いたらどんなに羨ましく思うことか。ということでお勉強頑張ってな!」
わたしたちがここに引っ越してきてこの半年間に、わたしたち家族以外にこの村に住んでいた一二世帯が皆んな都会に引っ越してしまった。多分、この家がまだ神社だった頃に住んでいた神様も、村人と一緒にこの村を去っていったと思う。今、この村に住んでいるのはわたしたち家族だけ。そして今、両親と弟はお盆で大阪のお祖母ちゃんちに出かけてしまった。
わたしは一人この村に取り残されてしまったのだ。わたしは地元の人間も見捨ててしまった山奥の小さな廃村で、神社をリホォームした不気味な家で三日間もの永い時間家族の帰りを待たなくてはならないのだ。今こうして家族が乗った車を見送りながら、わたしは思い出したくないことを思い出してしまっている。
「今日からお盆なのよ! この村のどの家にも生きてる人はいないってのに、今日って死人が舞い戻ってくんでしょ。この村にはお寺も引っ越してもうないのよ。家族の居場所がわからない迷える幽霊たちが、お寺の代わりに昔神社だったこの家に集合しちゃったらどうすんのよ!」
わたしは心の中でそっと呟くのが恐かったから、聞いてる人が誰もいないのをいいことに、ありったけ大きな声で叫んだ。
もう家族の車は見えない。とてつもない孤独感がリアルに圧し掛かってきた。
なんか嫌な予感がするのは気のせいか?
わたしは山間から見える雲一つない青空を眺めて、ため息を数えながら吐いた。
受験勉強に集中なんてできるわけがない!
今のわたしを心の底から癒してくれるものといったら何だろう?
都会の騒音? 多分そんなとこかしら。
と、淋しさを紛らわしていたら、背後から声をかけられた。
「あのー。ちょっとお訊ね申しますけんど」
振り替えると茹だるような猛暑にも関わらず、ロングコートを纏った日本兵が立っていた。よく見ると顔色はいたって蒼褪めていて、まるで病人のよう。どう見てもこいつは旧日本陸軍だ。
「この辺りに山田九右衛門の家があったはずなんじゃが。なんぼ探しても見つからんのです。家もなけりゃ、山田の人間もおらん。何処に行ったか知りませんかのぉ?」
わたしは悲鳴を上げるつもりで体勢を整えたけど、ふと向けた視線の先に更に嫌な物を見てしまったので気を取り戻して冷静に気丈に振る舞うことに決めた。
視線の先には裏山に通じる草ぼうぼうの一本道があった。そこを、行列を作って降りてくる何組もの家族連れがいた。その一本道の終点は、もう今は余所に移されたけど、昔からの村人たちの墓地になっていたのだ。
あーあ。何か嫌な予感がしてたんだよなぁ……。
多分、この御一行さんは泊まる家が見つからず、おまけに寺もないから今日から一五日まで、二泊三日の予定で我が家に寝泊まりするんだろうな。
勿論、我が家のあの五〇坪の宴会場で。
わたしは迷える日本兵をしかとして、家にお金と勉強道具を取りに行った。そしていつもキーが着けっぱなしのお父さんの原付に飛び乗って、大急ぎでアクセルを回した。ウイリーしながら、慌てて家を出たものだから玄関の鍵はかけなかった。原付を運転したのは今日が生まれてはじめてだ。
わたしは先刻出て行った家族を追って、脇見も振らず突っ走った。初めて運転するのは恐かったけど、幽霊と盆休みを過ごすことを考えれば、そんなの全然恐怖に値しなかった。
運が良ければ家族に会えるだろう。もし途中で警察に捕まればそれはそれで全然O・Kだ。予めそれも期待して、ノーヘルで目立つようにしておいた。運転免許は来年大学に受かったら取るつもり。不慣れな原付をアクセル全開で山道を飛ばしつづけた。その間ずっと心の中で拝んでいた。
お願い! うちの家に昔住んでた神様!
どうか何処かで信号待ちしてる家族に会えますように!
それが駄目なら、スピード違反&ノーヘル&無免許運転でポリに捕まって、一六日まで豚箱に放り込まれるのでも、可。
以上で宜しくお願い申し上げまするぅ!
かしこみ、かしこみ、アーメン!
了
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