『㥯 《オン》(すぐそこにある闇)』第五節
『 㥯 《オン》 (すぐそこにある闇)』 八木商店著
第五節
「次、廻し蹴り十本! 気合入れてぇっ!」
「セイ!」
基本稽古は蹴りに入っていた。稽古場に選んだ浜辺は無枯荘から歩いて五分も掛からないところにあった。合宿と言うよりも旅行気分が強い部員たちの視線は無意識に海に向けられていた。廻し蹴りが終われば、後二種目で基本稽古が終わる。井上の身体は日ごろの気遣いからくる心労も加わり、疲労感はピークに達しようとしていた。基本稽古が後半に進むに連れて、身体は鉛のように重く、普段何気ない一つ一つの小さな挙動さえも全力を込めなければできないほどだった。足元が安定しない浜辺での立ち稽古は、前で号令を掛ける主将の大沢の動きもスローにさせていた。かなり身体は堪えているようだった。いつもならだらだらしている後輩たちに厳しい言葉を投げるのだが、その気力も失せているようだった。そう感じた瞬間、井上の表情がやんわりとほころんだ。稽古はそう長くはなさそうだ。井上はほころぶ顔を苦しさを堪える表情に変えて、その場を取り繕った。
井上が稽古以外のことで頭の中を満たしていると、程なくして、
「これで本日の基本稽古を終わります! 先輩に有り難うございました!」
大沢の覇気のある声が打ち寄せる波音を裂いて響いた。
「押忍!」
大沢以外の者は皆弱々しく気合を返した。
「お互いに有り難うございました!」
「押忍!」
基本稽古の終わりを告げる挨拶が互いに交わされた。
「少し休憩してからミット!」
大沢が次のメニューを部員たちに伝えると、四年生たちを連れ添って堤防の影に腰を下ろした。
四年生の先輩方も人間だ。夏のビーチで海を見ながら汗を掻くだけの稽古は詰まらないはず。何も実にならない稽古に、海で泳ぎたいという煩悩を抑えきれるはずがない。
井上は大沢たち四年生から離れて海に向かって砂浜に腰を下ろすと、スポーツドリンクを一気に渇いた喉に流し込んだ。そして気づかれないように肩越しに四年生のほうに目をやった。
やっぱ、飲んでないな。
大沢たちは稽古後のビールのために、我慢して喉の渇きと闘っていた。井上には理解できないことだった。バカだよな
「それにしても、全然夏らしくないよな」
佐々木が井上の隣に寝そべって言った。気がつかなかったが確かに全然暑くない。どう言うことだ? 松山のほうが肌に感じる温度は高かったように思う。
「太陽、どこだろう? 少しは顔を覗いてくれてもいいのに。これじゃあ海にきた意味がない。なぁ?」
佐々木が井上に言った。
「そうだな。太陽がなきゃ、海にきたって感じしないよな」
潮の香りが辺りに立ち込めてはいたものの、太陽が欠席していることが合宿を詰まらないものにした。しかし、そんなことよりも井上は今の貴重な休憩時間を何も考えないで身体を休めることに専念したかった。井上は佐々木に習って砂浜に横になった。すると目線の先に加藤の姿が見えた。加藤はグループから一人離れて、波打ち際で足首まで海に浸かって水中を覗き込んでいる。
そう言えば加藤の友達が拾ったピンクの石って、この砂浜で見つけたんだよなぁ
砂浜と言える場所は200メートル程の小さなものだった。この砂浜の両サイドは村の南側と北側にそびえる山から連なる切り立った崖で遮られていた。海岸と言える場所は本当に僅かだった。
この小さな砂浜のどこでその不思議な石を拾ったんだろう?
「あ、ここにもあるぞ!」
「スゲーッ! これって宝石だよなぁ?」
「誰か宝石に詳しいヤツいる?」
「女子なら知ってるだろ!」
「ちょっとそこの女子! この石、何だかわかる?」
二年の男子が女子部員を手招きして呼び寄せていた。その声に水野が肉食動物が獲物を見つけたときのように反応した。
「おーい! 何があったんだあ!」
叫びながら水野が駆け出していった。
井上には彼らが見つけた物の察しがついていた。加藤の友達が見つけたピンクの石だ。しかし、それが本当に危険を孕んでいる物なのかどうか、はっきりした答えがわからない以上、井上は加藤から聞いた話を部員たちに告げようとは思わなかった。井上自身、その不思議な石を見てみたいと思っていた。だからこの好奇心を加藤の話で打ち消してしまうのが勿体ないように思えた。井上は加藤の様子を見た。恐らく友達のことを思い出しているにちがいない。加藤は亡くなった友達の亡霊が、ここにきているのではないかと思っている。友達が亡くなったすべての原因をこの砂浜で見つけた石のせいだと思い込んでいる加藤は、たとえ他の連中がその石を山のように拾い集めたところでそれらを決して見ようとはしないだろう。
「なあ、井上」
佐々木がはしゃいでいる下級生たちを余所に声を掛けた。
「んん?」
「民宿のおばさんがいったこと。あれってこの前加藤がいったことだよなぁ?」
「そうだよ」
「ここにあるもんは、なんもうつさんといてくださいねって、どういう意味なんだろうな?」
「おまえはどう思う?」
「やっぱ、自然のままそっとしておいてくれってことなのかなぁ? どう思う?」
「さっきの御札の一件もそうだったけど、ここは古くからの色々な習わしが現代も根強く生きてるんだよ。昔の人は火や水に精霊が宿ってると真剣に考えてただろ。多分、自然の物すべてに精霊が宿っていると考えてたから、自然にあるものを無闇に移動させちゃいけないっていったんじゃないか? 例えば、石コロ一つが道端に転がっていたとしても、その石コロにとってはそこが一番いい場所だから人の手で勝手に移動させてその石の機嫌を損ねるなって」
「なんかおまえの話を聞いてると、こんな石ころにも意志が通っているように思えてきたよ。不気味だよな」
そう言って佐々木は砂浜に載った子指の先ほどの丸い小石を指で弾いた。
波の打ち寄せる音がそこが海だと井上に教えていたが、井上はその海を楽しむことはできなかった。祓橋の傍で聞いた加藤の話が海に入りたいという欲求を浄化させてしまったのかどうかわからないが、海には絶対に近づいてはいけないように思えた。足首まで海に浸す加藤の姿を見ると、心に寂しい物が吹き込んできたように感じられてならなかった。
「おまえら、いつまで遊んでんだ!」
副主将の西村が稽古のはじまりを知らせた。それは同時に合宿にきていることを部員たちに思い出させた。海で遊んでいた者の中には胴着を海水で濡らした者もいる。水分を含んだ胴着を纏ってのミット打ちは、体力の消耗を相当奪われるハードなものだろう。恐らく稽古が残っていたことを忘れていたのだろう。そんな連中を見て井上は思った。
胴着を濡らさなくて良かった。良かった。さぁ、ミット、ミット!
四年生の五人の男が両腕にキックミットを装着して等間隔に横に並び、先輩に向かい合う形で残りの部員たちがそれぞれの先輩の前に一列ずつ並ぶ。ミット蹴りは疲れるから井上は嫌だった。それに加えて四年生は三年生には容赦ない厳しい注文をつける。だから余計に嫌だった。中でも一番注文が多かったのは主将の大沢だった。井上は大沢の列に並ぶのを避けて、言葉優しい物静かな宮本仁先輩の前に並んだ。
パンッ! パンッ! ドスンッ! パーン!
辺りにミットを蹴り込む音が鳴り響いた。下手で効かない蹴りほど甲高い音を鳴らしてミットを弾くものだ。
パーン、パーン!
ミットの表面を弾いただけの蹴り。とかく初心者によく見られる足先だけの腰の回転がない蹴り。足の甲でしか蹴り込まないものだから、どうしても乾いた音になってしまう。
「上段を蹴れない人は中段でいいから、ちゃんと脛で蹴るんだぞ! 膝から入っていけよ!」
大沢が全体に目を配りながら指示を与える。
「よし! 今度はゆっくりでいいから、インパクトの瞬間に脛の骨の部分をミットにねじ込むように蹴ってみろ!」
副主将の西村が初心者に細かな指示を与えている。
辺りにミットを弾く爆竹のような大きな音が響き渡り、波の打ち寄せる音が遠くに聞こえはじめた。部員たちの耳にはミットを蹴り込む音と、肩を揺さぶった荒い息づかいしか耳に入らなかった。井上は疲労で重くなった左足を腰まで引き上げ、十分に膝を抱え込んで溜を作って勢いよく脛をミットに打ちつけた。
ペシン!
やべっ! インパクトがずれちまった。大沢さんには気づかれなかったよなぁ。
井上は恐る恐るそっと大沢を見た。運よく大沢は二年を指示するのに夢中になっていた。
ああ、良かったぁ! 今の見られてたら、絶対何かいわれてただろうな。それにしても、ああ、だるぅ! 全然蹴り足が走らないし、地面の蹴り込みも砂浜じゃあバランスが悪くて駄目だなぁ。後どのくらいつづけるつもりなんだろう? 苦痛に耐えることが空手の修行なのか?
「おい、井上! だらだらするな! 疲れてんのはおまえだけじゃないぞ!」
不意を衝いて大沢が睨みを効かせた。
ウワッ! ビックリさせんなよ!
突然の大沢の声に井上は心底驚いた。
チッ! うるせえなあ! これでも精一杯蹴ってんだよ! おめえはしっかり二年を教えてろ! 余所見すんなよ。
井上は舌打ちしながら大沢に「押忍!」と返して真剣に蹴ってる振りを装った。大沢の一言は井上から余計にやる気を奪った。
ああ、早く終わんねえかなぁ。
井上が上の空で列に並んでいると、どこからともなく誰かに見られているような視線に背筋がゾクッとするのを感じた。井上は辺りを見渡した。
なんだ、なんだ! どこから見てんだ! さあ、大人しくその正体を現すんだ!
心の中でそう叫んだ瞬間、海岸の北の岩場の影から数人の頭が覗いているのが見えた。
海岸は無枯村でも明るいほうだったが、それは空からの光で明るいというよりも海に反射した陽射しによるものだった。人影が見えた岩場は砂浜よりも暗かった。
変だなぁ? 確かにあの岩影に人が顔を覗かせたように見えたんだけど? どう見ても真っ暗で何も見えないじゃないか。
井上は目を凝らして岩場をじっと見つめた。
奇怪しい! 岩場は真っ暗で何も見えないのに、俺はどうして人が顔を覗かせたように見えたんだろう?
井上は首を傾げて考え込んだ。
疲労のあまり幻覚を見たんだろうか?
井上は意識に残るその不可解な岩場で見えた人の気配を思い浮かべた。
俺はただ人が岩場にいると思いたかっただけなんじゃないか? やっぱ、疲れが溜まってたから、人がそこにいると思い込んだんだろう。
そう結論付けながらも、井上は誰かに見られている視線を感じた感触にも疑問を抱いていた。
誰かに見られているような気がしたのは、あれはただの気のせいだったのか? 大学の道場で稽古してるときは、必ず何人かの見物客がいたから、いつの間にか稽古中は誰かに見られてないとやる気が起こらない身体になってたんだな。
井上はいつもの道場での稽古と勝手の違う青空稽古に、無意識にギャラリーの視線を求めていた。だが、現実には人気のない無枯村では見物客を見つけることは不可能だと思われた。そうだとわかると井上のやる気は更に加速的に失せていった。道場での稽古への集中力も、井上の場合はギャラリーの前で好い恰好を見せようというそんな浮かれた姿勢で保たれていた。井上はやる気がまったく失せてしまった状態で、先輩の喧しい指示に言われるままにメニューの数だけを適当にこなした。しばらくだらだらと稽古をしていると、佐々木が井上に声を潜めて何か知らせてきた。
「おい、あそこ。ギャラリーのお出ましだ」
佐々木が目で示した先は、井上が人影を見たと思った岩場だった。
なんだやっぱいたんじゃないか! 砂浜の北に延びた岩場に、二〇人前後の子供たちが身動き一つしないでじっと練習風景を眺めている。
「あんなところで危なくないのかしら!」
女性部員たちも気づいたらしく、稽古も忘れて子供たちの安否を気づかう声が囁かれた。
ほんとだ。よくよく考えてみれば、岩場のすぐ間近まで高い波が打ち寄せてるんだよな。足場も滑り安く不安定だろうし、小さな子供もたくさんいるようだけど、波に攫わなければいいが。
子供たちの安否が気になって、もう稽古どころではなかった。そうこう考えている内に、女性部員たちから大沢に子供たちのことが告げられた。大沢としても万が一の事が起こって大事に至った場合、その場にいながらも事前に注意することなくみすみす見殺しにしたなどと言われて誹謗の的になるのは嫌だとみえ、新入生たちを指示して子供たちを連れてくるように促した。ミット稽古は一年生たちが子供たちを連れてくるまで一旦中断され、小休止が取られた。井上は子供たちが砂浜を歩いてくる様子をスポーツドリンクを飲みながら眺めていた。子供たちは手を繋いで、呼びに行った一年生を先頭にゆっくり歩いてきた。
「井上、あの子たちじゃないか?」
不意に佐々木が背後から声を掛けてきた。
あの子たちって?
井上は佐々木の言葉に記憶を辿った。
ああ、祓橋で俺たちを見てた子か。
「あの服装は間違いないな。皆んなボロボロだ」
佐々木は不思議と興奮していた。井上は祓橋を過ぎたところで、佐々木と目撃した子供たちの服装の異様さについて話したことを思い出していた。
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