自分語りの話

私は自分語りが好きである。語るに困らないエピソードがある生育環境で過ごし、共感性の高い人に語っても、その心にあまり負担がかからなさそうな人生を送ってきた。なんとなく楽そうな選択をそれっぽい理由をつけながら続けて、今も概ねふわっとしたまま生きている。

自分語りの好きな私はTwitterでもペラペラと自分の話をするし、自分の話をする上で必要な自分以外の存在の話もする。というか私の鉄板ネタはつまらない私に比べてまぁまぁ尖ってる母と父ネタなので必然的に身内のオモロ褌で相撲を取っていることになるんだなこれ。親の脛を齧ったことはあんまりないが親の褌は使いまくっている人生。なんか文章にするとめちゃくちゃ嫌になってきた。

「隙あらば自分語り」という揶揄フレーズがあるように、割と多くの人間は自分語りが好きなんだろうし、その奥にあるのは自分のことを分かってもらいたいという欲求だと思う。何でもかんでも自分の話題に帰結させる人は話してて面倒くさいなと感じるけど、自分はそうでないのかと言われるとごめんお前と私は同じ穴の狢や…とも思う。だって私は私のことをふわっと分かってくれる人が多い方が幸せを感じるタイプだから。自ら過剰なまでに情報を開示することでコミュニケーションをスタートさせるスタイルを取ってきた。良くも悪くもやりすぎてる感がある。ウケる時とドン引きされる時の差が激しい。マリカーのBダッシュを彷彿とさせる。だいたいあんなの慣れれば失敗しないんだけど、久しぶりにやったらたまに失敗するんだよあれ。コンスタントにコミュケーションをやってないからそういうことになる。自転車は一度乗れるようになればその後も大体乗れるけどマリカーは久しぶりにやるくせにダッシュ掛けようとしてミスる。そういうことを繰り返している。コミュケーションと銘打ってやってきたけどついてこれるやつだけついてきな!ぐらいの振り落としをやってるのかもしれない。最悪である。
「隙あらば自分語り」はだいたい負の表現として使われているが、語りたい話がどちらかと言えば自分ではなく自分の周囲の人についての時、その奥にあるものを考えてしまい勝手に心が重くなる。例え身内であろうと自分と他者は違うと強く意識して生きているのに、他者と接続された自分にしか語る価値がないのかという考えに襲われる。これはとても穴のある考え方なので後で如何様にもツッコミを入れられるが、そういうことを考えている時の自分は大変に自罰的でマゾスティックな酔いにべろんべろんなので時間薬が効くのを待つしかない。自分語りが好きで、悪いことでは無いという考えを持っているが、この自罰的思考ルートに入ると最悪である。

ただ幸いなことに、私の話を聞いて面白がってくれたり笑い飛ばしてくれたりする人が絶えずチラホラといる恵まれた人生を歩いてきた。恵まれてきたがこの有様なので他者でなく自分に要因があるのは噛み締めている。この文章からして既にとっ散らかっているように私は決して話し上手では無く、自分渾身の鉄板オモロ話の途中で笑ってしまうようなツメの甘い人間だけど、私の話を好意的に聞いてくれる人に聞いてもらうことでコミュニケーション事故の度合いを誤魔化し続けてきたと言っても過言ではない。
いつもお話聞いてくれる人たち、ありがとう。これまで話を聞いてくれた人たち、ビッグラブです。
だから私も誰かの自分語りを聞き届けられる人でありたい。まあるく面白がれる人でありたい。何かのクッションだとか、やわらかな何かで誰かの語り口がその人を不必要に傷つけずに済むように手助けができる人になりたい。
世界にキレ散らかすことも増えているけども、優しくしてもらった分については優しくなりたい。
今日の私はそういうことを思ったよと。そういう自分語りでした。おしまい。

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