僕の怠惰と村上春樹とAI
記憶、想像、創造のプログラム
僕「今日一日何もしていないということを村上春樹風に言い繕ってください」
村上春樹の本を結構読んできたと自負している僕基準だと、クオリティと分析力の両方で、Bing AIに軍配が上がる。「時々、電話が鳴るのが聞こえたが、出る気にならなかった」が実に村上春樹の小説に出てくる主人公っぽい行動である。彼らは隙きあらば女性と寝るし、サラダやパスタなどの料理を作るし、ワインやビールを高頻度で嗜む。ちなむと、僕はサラダやパスタを食べることは好きだが、女性と寝たことは無いし、お酒もそこまで好きじゃない。「誰かと話す必要もなかったし、話したくもなかった。」のような繰り返し表現も村上春樹の小説では頻出である。
chatGPTもそこまで悪くない。「世間は忙しく回っている中、僕だけが時の流れに翻弄されていた。」が実に村上春樹み(というか『ノルウェイの森』み)を感じる。こういった孤独感・疎外感をおしゃれに書き上げるのも村上春樹の特徴だろう。
自己中心的な自己分析の果てに見えたもの
村上春樹を初めて読んだのは小学六年生のころで、当時一斉を風靡していた『1Q84』の文庫本の装丁が、なんとなくおしゃれで手に取ってみたのが始まりである。(文庫本の表表紙には、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』が描かれていた。今でもお気に入りの絵画の一枚である。)村上春樹はそのオサレさだけがフィーチャーされがちだが、ファンタジー小説としての独特の世界観の構築と、(背伸びした)小学生でもすらすらと読めるような平易な文体も大きな特徴である。
僕は十二歳で、そのとき小学校の自分の座席に座っていた。隣の女の子に「何読んでるの?」と言われ、気持ちの悪い笑みと気持ち悪い歯切れの悪さで「まあ、ちょっと大人向けの小説だよ。エッチなことも出てくるしね。」と答えたことは人生でも最大の黒歴史の一つである。小中学生という、「エロを含むか含まないか」という二元論的にしか物事を判断できない価値観を体現したエピソードと言える。当然、その女の子には気持ち悪がられたが、今では気持ち悪がってくれる人すらいない。「気持ち悪がる」とは、ある程度その人に関心が無いと出てこない反応である。人は年を取るにつれて他人への関心が局在化していく。
タイトルを考える夜、僕は一人きりでいた
僕「「AIで遊ぼうのコーナー」を村上春樹の小説の章タイトル風に言い換えてください」
どれもクオリティが高い。章タイトルというよりは本のタイトルといった感じがするが。Bing AIはそれっぽくなかったので割愛。この中から「記憶、想像、創造のプログラム」を採用したという訳である。「自己中心的な自己分析の果てに見えたもの」「タイトルを考える夜、僕は一人きりいた」もこのようにして選出された。このスキームはわりかし気に入ったので、定期的に採用していきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?