見出し画像

風の絵の具は何色? 読書感想文『風の歌を聴け』

 誰かの心の中にある自分の存在を確認し続けることだけが、幸せだと思っていた。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風に生きている。(『風の歌を聴け』p152)

 『風の歌を聴け』は何度か読んでいるが、読むたび印象がかわる不思議な小説だ。自分の感情のパラメータのようにも思える。いまは、時間についての物語だと思っている。

 かつて私はこの小説を読むたび、とてつもなく哀しくなっていた。20代の半ば、私に別れを告げた元恋人のことを思い出してしまったからだ。

 彼の「この関係に緊張感が保てなくなった、別れてほしい」という言葉を反芻する度に、心に打ち込まれる鋭い楔に縫い付けられ、私の時間は凍りついた。なのに、新しい恋人と笑い合っている彼の秒針は、問題なくすすんでいるように見えるのが心底うらめしかった。

「…誰かを好きになったことがある?」「ああ」「彼女の顔を覚えてる?」僕は3人の女の子の顔を思い出そうとしてみたが、不思議なことに誰一人としてはっきり思い出すことができなかった。(p144)

 あっけないものだ。傷心の折、なぜかまた手にとってしまったこの小説は、私にとって「情のないひどい男目線」の話でしかなく、憎しみさえ覚えた。肉体を差し出しても顔すら覚えていないような浅薄さに憤りを感じた。

 当時は自分の感情の重力や時間の流れ方が自然に他人にも通用するものだと信じ込んでいた。渡した分だけ返ってくるはずだとあたりまえに期待していたし、自分がとんだエゴイストであることを自覚してすらいなかった。そして絶望している自分を彼もしくは同情してくれそうな人の心に刻みつけたかった。私の痛みや苦しみをだれかに植えつければ、救われると思っていた。

「完璧な文章といったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(p7)

 しばらくしてこの小説を読むと、怒りは沸かず、ただ「そういうものか」と受け入れている自分がいた。「3人の女の子」がそれぞれちゃんと描写されていることに(気づかないふりをしていたことに)気づいた。痛みに霞んで見えなくなっていた視界が、晴れつつあった。「時間が解決してくれる」「過去を水に流す」という言葉の意味を如実に感じた。

過ぎ去った季節を待って 思い出せなくて嫌になって 離ればなれから飛び立って 鳥も鳴いてたろ 鳴いてたろ いつだって僕らを待ってる 疲れた痛みや傷だって 変わらないままの夜だって 歌い続けるよ 続けるよ(サカナクション/ミュージック)

 時間は流れる。ある時点に生まれた心情を、完璧に保存し、伝えることはできない。なぜなら、事が起こった時点から否応なく時は過ぎ、事物は記憶となり、記憶を認識する意識は変容してゆくからだ。そして、それらを出力するためのプロセスや言葉はそのひと固有のシステムだから、純粋なまま、誰かに伝えることは不可能だ。

 しかし、不純物をはらむにせよ、言葉は、川底の小石のように、いっときでも具体性をもって流れに留まる力を秘めている。それにただ固執するのか、忘却するのか、流れの中にある言葉を拾い上げ、石礫にしてだれかを傷つけるのか、新しい歌をうたおうとするのか、いかようにも選択できるのだと気づいた。

「だから我々には生もなければ死もない、風だ。」(p127)

 あらゆるものは通り過ぎる。そんな中で、誰かの心を繋ぎ止め続けるなんて不可能だ。過去からの学びなどいっときの妄想にすぎないかもしれない。けれど、全ては無常であると知ることは、"赦し"を覚えることでもあると思う。

 時間の流れにおいて、尖った小石も、削られ、丸みを帯びていくだろう。そしてどこまでも流れゆくかもしれないし、苔むすほど大きな岩になるかもしれないし、水底できらめいて誰かを誘うかもしれない。

 歌は、そんな小石のような言葉に意味を見出して、ていねいにつくりかえ、音によって時間の流れをあらわし、心に同調したり、新たな支流を生み出してくれるものだ。だからふと聴きたくなるのだろう。浸りたくなるのだろう。

「幸せか?と訊かれれば、だろうね、と答えるしかない」「夢とは結局そういうものだからだ」(p154)

 これまで直面したあらゆる別れについて、ひとときでもめぐり出会えたことの奇跡を喜びたいと思う。全てが失われるわけではない。川底の小石を眺めて、あたらしい意味を見いだしたいと思う。そして、できるだけ愛を込めて積み上げたい。いつか、なにかの瞬間に、誰かに響く調べになったり、鳥が羽を休める岩になったら、どんなに素敵なことだろう。そんな夢を描きながら、日々を生きていこうと思う。ご清聴ありがとう。

(『多分、風。』を引用すべきところなんだけれど、繋げる力がなかった。)

参考文献:村上春樹(2004)『風の歌を聴け』,講談社文庫.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?