対話とは、を問いかけてくれる2回の経験から感じたこと。
対話とは、を問いかけてくれる、2回の経験から感じたこと
最初の体験は暗闇。私の答えは「一緒にいること」
次の体験は静寂。私の答えは「(まず)相手を感じること」
ダイアログシリーズ(※)に2回参加してきました。
詳細は体験いただくのがおススメなので、大きくはネタバレしない範囲で感じたことのまとめ。
①暗闇 Dialog in the Dark
平日・少人数開催で行ったこともあって、
一体感がとにかくすごかった。
感覚の一つを消すとこんなに研ぎ澄まされるのか、とか、声の温かさを感じた。
そしてその感じが、どこか心地よかった。
対面から色んな情報があふれてくるより、声だけで、という心地よさ。
属性だとか何も知らない人たちだけど、”今ここで声だけで”、という縛りが自分には刺さったんだと思う。
体験が終わったあと、ほかの参加者の方とお話したり一緒に帰ったり。
連絡先交換まではしていないけど、こういう、その場で一気にチームになり、それぞれの場所に帰っていく、すごく素敵な体験でした。
「目を開けているのに見えない世界」の新鮮さや、
それでも「”体験だから”守られている感」を感じたり、
普段以上に、自然と積極的に声を出せている自分に気づいたり。
参加前は、暗いことそのものによる身体距離の近さが不安かな、というのがあったけれど、飛び込んでみたら「暗闇世界を仲間と進んだ」感覚で、この世界に必要な距離感だったという、ちょうどよさに置き換わった。
この感じは、今度参加するうつみくんの「サイレント」のワークショップ
のためにやった実験会の感覚に近くて
まさに「音がない世界をみんなで遊んだ」感覚の、暗闇版だったな、と思う。
「表情でも声でもジェスチャーでも文字でも、コミュニケーションの根幹って伝えたさを形に起こすところだよなぁ」という感想を持った。
どの形にするのが得意・不得意はあるけど、少しずつ苦手を減らしたい。
どれかを使わない遊びをして、自由になる感覚が、響いた。
対話とは?の答えは「一緒にいること」
②静寂 Dialog in Scilence
暗闇が目を開けているのに「見えない」のに対して
こちらは、ヘッドホン型の防音イヤーマフをする「聴こえにくい」という差があった。
完全に聞こえないわけではないのもあってか、①に比べると、感覚でという感じが一気に減った。
少し聴こえる人、の疑似体験なのかなと思いつつ、耳への圧力がもう少し和らぐ何かがあればいいのになと思った。
個人的にはこの差は色んな意味で大きかった気がするし、完全な音のない世界で味わって比べたい感じもした。
自由を味わった①と比較すると、不自由さを味わうこともひっくるめたひとつの体験としてとても有意義だった。
コロナ対策でマスクがある中で「表情全部」を出して伝えることが難しいといった運営上の制約もありそうだし、単純に倍の人数でコミュニケーション密度が違ったのもありそうだけど、主催として提供したい体験の幅やターゲットが、視覚と聴覚でちょっと違うのかな?とも感じた。
色んな伝え方があることや、色んな楽しさがあること、表現すること。それができない、しないときの、もどかしさ。
自分の場合は上に書いた通り、見えないときのほうが素が出せたかもという発見があった。
アテンドによっても違う部分はあるかもしれないけれど、体験した会については、”アテンド”対”私たち”、の対話構図がこちらの方が多かったように思う。
そしてその中で、参加前に想像していた世界と少し違う体験に戸惑いを感じる時間もあった。
内容の構成や人数による性質的なチーム感のできやすさの差もあるけれど
どこかで何かを諦めた瞬間が(おそらく自分だけではなくみんなに)確かにあって。
でも、それも含めた体験としてとっても良かった。
ただ、個人的にはかなり目が疲れたので、目からの情報がきっと思っていたより多かったか、無意識に瞬きが減ってたりコンディションの問題かも?(もともと目は弱点。)
とにかく①と②が思った以上に全然違う性質だったので、1日で両方行ったりすると、ちょっとハードかもしれない。
対話とは?の答えは「(まず)相手を感じること」
チームって本当に面白い。
どちらの体験でも思ったのが、チームって本当に面白い。
自分が得意とまではいうほどでも…と思っていてもその中で一番だったり、
当たり前のように表現している仲間を見て、す、すごい!!ってなったり、
1つのコミュニケーションのアクションから、引き出されるものがあったり、深まったり。
そういうイキモノ感が、体験をさらにいいものにしていくんだろうなぁと思ったり。
そして、その体験の中から、
共通する「自分のあり方」の一部のようなものがふわっと見えてきたように感じた。
双方の体験を通して気づいた自分は、「一緒に遊びたい」なんだと思った。
特にユーモアが言える・言いたいタイプでもないし、お笑いは(イメージ先行もあるけど)苦手。
でも、提案して、一緒にやってみたり、遊び心でやったことに、ふふってなってくれると、とっても嬉しい。
自分が初めて仕切る場とかは、結構その遊び心の余裕をなくしがちだけど、感覚を部分的に制限した状態で出てきたのが、面白かった。
日常生活では、見て感動するものもあれば、聞いて感動するものもあって。
両方が合わさるステキさもあるけれど、どちらかの感覚を意識的に蓋をしてみたら。
ちょっと違う世界に出会えるのでは?と思ったりもした。
以前、スマホ断ちの体験サービスをみかけたことがあるけれど、
それと同じように、「あるのが日常」「あたりまえ」であることに気づいて、取り除く。
難しいことは考えずに、ちょっとしたリフレッシュ方法の1つとして、
気軽に体験してみたり、繰り返し体験しなおしてみるのも、ありかもしれない。
もう1つの気づき。
自分は今「少人数で対話したい」がとても強いんだと思う。
8人で話すと、言いたいことが言えずに終わることも多い。もちろん、話したくないひとが居たらそれがいいのだけど。
話題によっては黙っていてもいいし、でもこの話は入る、とか、十分時間が取れる場なら、10人超えていてもありの感覚。
短時間だと少人数が圧倒的に、互いを認識して、少し知れる。
自分の頭のキャパシティーの問題もありそうだけど、人数が多くなると、無意識的に流れてしまうような。
その感覚がもったいなくて、「多少高くてもいいから少人数がいい」というのがありそう。
人数多くても最初に自分が話せば、話題の主導権握れるじゃん、という意見もあると思うのだけど、心地よさ的に自分ばかり話したり、最初の方向性決めるよりは、別角度から付け足したりするほうが好きだったりする。
一方的に聞くだけ、になったり話すだけ、になると居心地の良さが変わってしまうし、表面的な(いつでもだれとでもできるような)感じになっても、自分の好みとちょっと違うんだろうなぁ。
人数が多い時に、「覚えきれない」とか「相手を見疲れてる」ときも、あるかもしれない。4人開催の①の体験は、まさにアテンド含めた5人で守られた暗闇の世界を旅してきていたし、②では周りの様子をうかがう自分がたくさん出ていた。
そして様子をうかがうより、本当は私はそこに没入したかったんだろうなという気付きが合った。
あれ、思ったよりなんか集中できてない、というのは、あれもこれもで忙しく過ごしているとありがちな気がするので、貴重な「今だけへの集中」の機会だったかもしれない。
集中って、何に意識を向けることだろう、その場で起きてることが多すぎる。そんな感覚にもなる今日この頃。
メンバーが違えばまた違う気付きや学びがありそうだし、違う会への参加者と話すのも楽しそう。
視覚や聴覚に対して、改めて意識が向く興味深さはすごく価値があると思った。
というわけで、ご興味ある方はぜひ&行った方良かったらぜひ感想を語り合えると嬉しいです!
(よし、年内に下書きにしてたのをちゃんと書けたぞ!)