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古文や漢文を学ぶ理由

今回は日本語のお話です。今を生きる日本語話者、とりわけ日本語母語話者が古文や漢文を学ぶ理由についてお話しします。

先に、結論を言うと、現代日本語を正しく、適切に、効果的に、そして時に戦略的に使うために必要だからです。文法や語彙はことばによるコミュニケーションを成り立たせるための規範、つまる決まり事です。この決まり事は法律などと違い、人為的にある時を境に施行される、という性格のものではありません。ひとりひとりのことばの使い手が日々ことばを使っていく過程で作られていくものです。言い換えれば、私たちはことばの決まりに縛られつつも、ことばの決まりを少しずつ変えているのです。このことばの変化の緩やかな流れの中で、「こう使うのがわかりやすい」「こう言えば相手が好感を持ってくれる」という判断を下すうえで、日本語の歴史的変遷を学ぶ必要があるのです。

明治中期以降、「言文一致体」と呼ばれる日本語の文体が普及してきましたが、この言文一致体も現在完成しているとは言えませんし、「完成」があるのかもわかりません。人間がことばを身につけ使うしくみが完全に解明していない現状でも、機械がことばをかなりの精度で認識できるようになっています。しかし人間のことばを習得・使用のメカニズムが完全には未解明なのですから、どんなことばでも機械が認識してくれるわけではありません。また、外国語として日本語を学び使う人たちにもさまざまな習得段階があります。こうなると、日本語を母語とする人間は、状況に応じて日本語の表現を使い分ける必要があります。ここでも今ある日本語の決まりに縛られるのではなく、柔軟な判断が求められます。

日本語を書き表せるようになってから、約150年前まで、日本語の公式文書は漢文でした。この歴史的遺産は読めなければ生かせません。一方で、非公式な書記言語として仮名文も存在していました。こちらは話すように書いていた文体ですから、現代の日本語に求められる「文」という単位があまり意識されていません。明治以降、西洋語を漢文ではない日本語に翻訳する際に現代日本語の基礎となる表現様式がうまれました。こうした日本語の変遷に触れながら、現代の日本語はどうあるべきかということを、日本語使用者、とりわけ日本語母語話者の一人一人が頭の片隅で意識していくことが大切なのです

もちろん、こうした目的のためには、古典の学習を「文学の学習」としてだけでなく「ことばの学習」としても捉えていくことが必要です。このため、カリキュラムの見直しは避けられません。このあたりはブログに持田の修士論文の概要を載せておりますので、ご参照いただければ幸いです。


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