OWCモノローグ) 写真 by ササキタツオ

写真を撮るのが好きだった。
みんなの笑顔を記録に残すのが好きだった。
それを仕事にしたいと思ったのはいくつの時だろう。

私は、初めから写真家を志したわけではない。
幼いころは写真に対して何も考えたりはしなかった。
ただ、写真を、その場の世界を記録として、残すことが楽しかった。

光、色、形、空間、記憶。時には匂いや音までも捉えることができる。つかまえることができる。それが私にとって写真だった。

ただ、好きなモノを好きなように好きなだけ撮って、記録して、コレクションして、宝物にして……。それが本当にただ楽しかった。

少し大きくなって、やや早熟な大人になって、写真に対する見方は変わった。
記録として残すことが大事なこと。責任のある仕事なのだと知るのだ。

そのきっかけをくれたのは、父の写真店に来た若い夫婦だった。
結婚の記念に写真を撮りにきたのだと言った。
私はその夫婦を写真に撮った。
夫婦は出来上がった写真を受け取り、喜んで帰っていった。

その時、私は思った。
写真を撮るというのは記録するだけじゃない。人の記憶になる、という仕事なんだ。思い出に残していくことは、人が生きていく上で大事なことなのだ、と知ったのだ。

それ以来、私は、写真家として、働き続けた。たくさんの人を撮った。そして、たくさんの笑顔を記憶にした。

だが、次第にあることに気づいた。それは、写真に残すことが、実は、時の移ろいの前では、何の意味も持たないということに。

それは年を重ねた今だからわかることかもしれない。

思い出として、記憶として残したはずの写真たちも、その記憶を思い出せる持ち主を失ってしまったら、ただの風景写真、ただの人物写真になってしまうのだ。

それはもはや何でもない。何の輝きもない。ただ物質としての写真があるだけだ。

これが現実か。年老いて、今はもう、この手の中にある写真の誰一人、生きてはいないことに気づく。私だけが生き残った。
ここにある写真たちは、私が覚えている。
記録として。記憶として。私が最後の記憶の砦なのだ。

ああ、みんな、先に旅立って行った。
残された写真。残された私。
この笑顔も、あの笑顔も、その笑顔も、先に旅立って行った。
次はいよいよ私の番がくるだろう。

私は、私を写真に撮ってくれる人を頼んだ。
新しい、若い、腕のいい写真家が来た。
彼は私の写真を撮った。
私の笑顔を撮った。私の存在を撮った。

その時、私は知った。こうして記憶は受け継がれていくのかもしれないということ。バトンを渡してリレーが続いていくように、写真とともに記憶が受け継がれていく……。

そうして、時を捉える。時を超える。
時代に残る。時代に残す。残り続ける。
人の足跡。痕跡。歩み。
確かにここに、この時に、過ぎ去ってしまった日々に、存在していたことを、私がいなくなった後も、誰が受け継いで、覚えている。
失くさず、大事にし続けていれば、きっと、私たちは、記憶の中で、時を越えて、生き続けることもできるのだろう。
自分の存在が消えてしまうという現実を前にして、恐怖が少し和らぐ心地がした。

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