岸田國士のズーム演劇化を構想するにあたって

コロナ禍以降、何故か岸田國士作品を再演する動きが頻発しているように思う。Online Writers' Clubにおいても岸田國士の有名作品のズーム演劇化を構想しているのだが、何故今、岸田國士作品が注目されているかステートメント代わりに考察してみようと思う。

岸田國士作品は戯曲を青空文庫で読めことが出来るし、尺が短く特段の舞台設定を用しないものが多い。もっとも、これらの条件を満たす作品は他にも数多存在するわけで、実用的理由だけで岸田國士が着目されているとは考えたくない。流石にそこまで単純な演劇人ばかりでもないだろう。

今、演劇は余りにも素朴過ぎる次元で存在価値を問われていると思う。リモート演劇は未だ緒についたばかりであり、そもそもジャンルとして成立しているのか、文化的意義があるのか甚だ心許ない状態だし、旧来型の演劇はまさしく「演劇なんて年に一本もみないけどそもそも保護する必要なんてあるの?」という世間の余りにも無理解な疑問に晒されている。

演劇の意義がごく原初的なレベルで問われる中、本邦においてストリートプレイの文化的価値の確立に多大なる寄与をした岸田國士作品において、一体どのように演劇の意義が示されたのか学んでみたい、本邦のストリートプレイの原点に立ち返ってみたいという直感が演劇人に広く働いていても不思議はない。

岸田國士は果たして如何にしてストリートプレイの文化的意義を知らしめたのだろうか。岸田の作品を幾つか読んでみると、ある典型的なパターンが浮かび上がってくる。岸田國士作品は日常的な設定からスタートするものが多いのだが、ごくありふれた日常的な会話から緩やかに変遷していつしか演劇的な会話に飛躍していくのである。

例えば、互いの願望を語りあったり、夢を語ってみたり、誰かが聞いていることを前提とした芝居がかったやりとりがあったり、第三者とのやりとりを演劇的に再現してみたり、兎に角、岸田作品においては演劇の中で演劇が始まるのである。

岸田國士作品は当時の日常のなかにすでに潜んでいた「演劇的要素」を浮き彫りにしているように思える。演劇を一度もみたことがない人であっても、芝居がかった会話を無自覚にしてしまうことがあるだろう。すなわち、芝居があろうとなかろうと、我々の日常生活は演劇から無縁ではいられないのだ。

岸田國士作品に典型的にみられる劇中劇、演劇の中で展開される演劇は概ね、関係性を幸福なものとはしないのであるが、批評性なく無自覚に垂れ流される日常に潜む演劇性は我々の社会を分断し散逸させる危険性を指摘しているとも思える。

要は日本でのストリートプレイの初期作品群は、演劇についての演劇であり、演劇に対する批評性が核にあり、批評性なく垂れ流されるドラマツルギーに対して批判的立場を言明しているように思えるのだ。

斯様な岸田の演劇へのアプローチは、例えば、リモート演劇というジャンルを考えるに当たっても大いに利用可能である。すなわち、我々の生活にはすでにリモート演劇的なるドラマツルギーが潜まれているのであり、我々の生活はもうすでに十分すぎるくらリモート演劇的であることをリモート演劇を通じて描き出せば良いと言った具合のアプローチが考え得よう。

コロナ下のリモート演劇の立場から、私がどのように岸田國士を読んだのか、ぜひ新作の完成を楽しみに待っていただければ幸甚である。

花緒

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