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坂が行方不明

子供の頃の県外旅行で印象深かったのは、名所旧跡よりも、三角屋根(勾配屋根)の木造住宅、河川敷のある大きな川、広がる田んぼ、尖った緑の色鉛筆を並べたような杉林だった。どれも沖縄には無いか、なかなか見られないものだ。
当時、沖縄で建てられていた戸建て住宅の多くは、鉄筋コンクリート造の平屋根で、屋根の上には頻発していた断水の備えとして1〜2tのステンレスやFRP製の水タンクが設置されていた。

昭和52年度の169日、昭和56年度の259日の給水制限は、それぞれ小学校・中学校在学中のことだった。実家はその少し前にタンクを設置していたので水の不便はそれほどでもなかったが、連日新聞やテレビで発表されるダムの貯水率を気にしていたことや、何度か行われた人口降雨作戦がそれほど成果をもたらさなかったことを覚えている。その後、本島北部にいくつものダムが建設され、私が沖縄を離れた平成6年(1994年)度以降給水制限は行われていない。

2年ほど前、実家の元わたしの部屋の窓から見える丘がどうなっているのか、散歩がてら見に行ったことがある。そこで、県外で良く見かける外壁材と屋根材を使った勾配屋根の住宅が並んでいるのに驚いた。丘の上から実家方面を撮った写真の左下に少し写りこんでいるのがそれで、もちろん屋根にタンクは無い。木造なのか軽量鉄骨造なのか工法はわからないが、見かけは内地(県外)の家と同じだった。

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白っぽいコンクリート造りの平たい屋根に水タンクが乗っているという見慣れた住宅地の風景は、この先変わっていくのだろうという予感がした。そして、こういう家が沖縄で建つようになったということは、あの坂の上での試験が終わったのだろうなと思った。

「あの坂」とは、中城村南上原(なかぐすくそん みなみうえばる)から国道329号線に降りていく長い長い坂道のことだ。下りでは、くっきりと青い西海岸とは異なる浅い色合いの東海岸(中城湾)が目の前に広がる。高低差のせいか、エレベーターに乗った時のように耳が詰まった感じになることもあった。上りの景色はなんということもなかったが、もうすぐ上り切るというススキだらけの左手に、内地風の勾配屋根住宅1棟と風速計があり、「〇〇住宅」と県外企業の名前が書かれたのぼりが立っていた。昭和の終わりから平成の始め、バブル崩壊の前後である。

誰に教えてもらったのか勝手に想像したのか、私は、この家は沖縄の台風や塩害にどれだけ耐えられるかの試験中なのだと思っていた。こんな吹きっさらしで他には何も無い場所に、1軒だけ家を建てて売ることも、展示場に使っているということもないだろう。本島の他の場所にも同じ試験目的で建っている別の大手住宅メーカーの家があるのでは?と想像していた。
その耐久試験が終わり、県内で施工出来る会社や人材が確保できるようになり、こうして建てられるようになったのかもしれないと推測が着地したところで、だとしたら、今、坂の上のあの家はどうなっているんだろう?

南上原交差点を東に曲がり、だいたい道なりに進めばあの坂があるはずだった。
しかし、南上原一帯は四半世紀のうちに様変わりしていて、かつては分校しかなかった地区に、マンションや小学校や病院やコンビニや牛角やサンエー(沖縄の最大大手スーパー)が建っている。一面畑や原野だった場所を住宅街にする際に作られた道路や信号が、あの坂を行方不明にした。

私は車の運転が下手だ。父の車が車両保険に入っていないこともあって帰省の際にはほとんど運転をしない。ごくたまにサンエーなかぐすく店へ行くことはあっても、頼まれた買い物を終えるとまっすぐ帰っていた。PCで見た地図で、あの坂がサンエーなかぐすく店の近くにあることは推測できた。しかし、方向音痴であることに加え、かつての南上原の風景が頭に残りすぎていることが、私と現在のあの坂を隔てていた。

サンエーの左側に橋があって、そこに初日の出を見に行ったことがあると母から聞いて、買い物ついでに行ってみることにしたのは、2019年の年末だった。車を停めてカメラを持って歩いていくと、面白い意匠の陸橋があった。近づくとその陸橋と道路の間から突然海が現れ、そこが「あの坂」の始まりの場所だった。

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陸橋の名前は「東太陽橋(あがりてぃーだばし)」2007年に完成したそうだ。
陸橋から左(北)に続く道は、琉球王府時代に首里・中城・勝連の各城を結んでいた最短ルートの街道を一部整備した「中城ハンタ道」。ハンタ道とは崖沿いの道の意味らしい。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/286880 【文化遺産オンライン】

車で坂を降りていた時にはゆっくり見ることの出来なかった景色を、橋の上から堪能した。

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橋を降りて少し坂を下ってみた。昔はここを歩きたくても乗ってきた車をとりあえず停めておく場所がなかった。あの頃、歩道はあっただろうか?

坂の右手に生茂る木々とススキの斜面はあの頃と変わらない。そこから見上げて、あらためて「〇〇住宅」の家を探す。無い。サンエーなかぐすく店のバックヤードが見えるだけだった。たぶん役割を終えたのだろう。

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時折、斜面に強い光が降ってきて、濃緑の豊かさと陰影を際立たせていた。ススキを揺らす風はぬるく、まだ何の予兆も運ばれていなかった。


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