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はじめての外人住宅

 2年5組の私は、休み時間になると6組の彼女に会いにいった。廊下でお喋りをしたり、アニメ雑誌を見せてもらう10分間を何度も過ごした。

 父親の転勤で沖縄に引っ越してきて数年、地毛が明るい茶色で天然パーマの彼女は、同級生達から避けられ、教師とは髪の毛のことで時々揉めていた。運動系の部活が似合いそうな手足と、目と目の間隔が広い顔立ちを今も覚えている。「また、こんなこと言われた(された)んだよ」 と笑いながら話すのを聞く私の方も、教室に居られない雰囲気に押し出されて休み時間毎に廊下に出ていた。

 そんな彼女に彼氏ができた。私が以前、SF小説をネタにお喋りをしていた男の子だった。彼と話していることを散々からかわれて疎遠になっていたのが、彼女を介してふたたび話せるようになって嬉しかった。

 ある時彼女に、彼の家に一緒に行かないか?と誘われた。お邪魔虫かもしれないと断ったが、年の離れたお姉さんが2人いるらしいからついてきてと言われて承知した。土曜日の学校帰りに3人で歩いて彼の家に向かった。草むらと資材置き場が続く道をしばらく歩くと、あたりが外人住宅だらけなのに気づいた。
 外人住宅とは、在沖縄米軍の軍関係者の住居として基地の外に建てられたコンクリート平屋の住宅のことで、復帰後には、民間の賃貸物件として日本人も住むようになったらしい。
 私が子供の頃は、基地内の同じ形の建物のことも外人住宅と呼んでいた。基地のフェンスのあちら側のコウライシバのグリーンの上に、門も塀もなく間隔を空けて置かれた白い箱のような家。その傍らに、当時の沖縄では見かけなかった深く大きなビニールプールやしっかりとした作りの子供用ブランコ、小さなテントがあったりした。実際はどうだったかわからないが、ここにはない物や豊かさがフェンスの向こう側にはあるような気がしていた。

 1981年夏服の頃、私は、はじめて外人住宅に入った。ドアを開けた彼に続くと、もうすでにそこは部屋の中で、なのに土足のままという状態に戸惑った。靴はどうするわけ⁉︎と慌てていたら、お姉さんが「靴のままで大丈夫よ」と言ってくれたので、粗相をしたわけではないのがわかった。通された隣の部屋には、もうひとりのお姉さんがいた。ふっくらとしていて、レースだったかフリルだったかがたっぷりの白いブラウスに長い髪で、車椅子に座っていた。年の離れた弟がはじめて連れてきた女の子2人に、お母さんとお姉さんふたりは優しかった。氷がいっぱい入ったコップに、飲んだことのない味のソーダが出てきておいしかった。ずっと後になって、あれはジンジャーエールだったと知った。外人住宅に入るのは初めてだと言ったら、ここは車椅子で暮らすのにいいからと話してくれた。

 38年ぶりにその周辺を歩いた。外人住宅の多くは老朽化している。薄くて平たい屋根で夏は熱がこもり、冬はコンクリートの床からの冷気が直接伝わる。水まわりも痛んできているはずだ。それでも外人住宅は人気の物件らしい。
 この先をもう少し行って・・・一度しか行ったことがないのになんとなく道を覚えていた・・・曲がって降りたところのあの辺りにたぶん。しかし、その先へはなぜか足を進めることが出来なかった。

 中2の終わり頃、彼女は家庭の事情で県内の別の街に引越した。私と彼女は電話で連絡を取り続けたが、彼とは続かなかったようだ。しばらくすると、彼女はうちの中学校にいた時よりもひどいいじめにあい、私はクラスの女子達からあからさまに無視をされるようになっていた。電話口で彼女は、別居して働き始めた母親には言えない、死にたい と言うことが増え、ついには、手首を切って死ぬ日を決めた。
 止めなかった。私も死にたいと思っていたからだ。それだけではない。いじめられて自殺をしたらどうなるのだろう?その結末を知りたい私がいた。

 その日から数日後、彼女から電話がかかってきた。カッターの刃だと血は出るんだけど深くは切れないよ。たくさん切って、お酒飲んで寝たのに起きてしまった。血の跡をお母さんに見つからないようにするのが大変だった〜 と彼女は可笑しそうに話した。私はホッとしながらも、なぁんだ・・・と拍子抜けした。そのあと、ずっとスカートのポケットに入れていた小さなカッターナイフを持ち歩くことをやめた。

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