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負け犬の遠吠え中
私は人生の99パーセントの重要な局面で負け続けてきた。
幼少の時に受けたピアノオーディションでは10人ほどのプロの前で頭が真っ白になり、演奏がガタガタになって大泣きしながら帰った。
中学、高校6年間続けた弓道では、対外試合で一度も表彰台に上がることはできず、家で毎試合泣いていた。
昨年の大学受験では、3校受けて一つも行けるところはなかった。
では、それを糧にして前に進めたかというと、全くそんなことはない。
全てを出し尽くしたつもりの今年の受験。第一志望、第二志望、第三志望まで落ちて、受かったのは第四志望の共通テスト利用入試。
親に払ってもらった予備校代だってバカにならない、しかも私が進んだのは私立大学。学費は国公立のおよそ2倍だ。
諦めなければ、目標は達成できるか。私は諦めなかったが、目標は達成できなかった。
敗北が人を強くするか。私はどんなに敗北を重ねても、勝利を得ることはできなかった。
家が貧乏な訳でも、自分に障害がある訳でも、病気がある訳でもない。100%言い訳のできない、完全な敗北。
なぜ、私は勝つことができなかったか。勝負の世界に嘘はない、単に全て自分の実力が無かっただけだ。
ここで、果たして「勝つ」ことが必ずしも人生に必要なのかと考えてみる。
もちろん多少の競争はあるだろうが、生き方が多様化している時代だ。できるだけ「上手い」方法で、競争を避けて行く生き方は可能だろう。もしかしたらそちらの方が楽で賢いかもしれない。
だから、簡単に「勝て」だとか、「この世は競争だ」とか言ってる人間を、私は信用できない。
だって、「勝つ」ことが幸せの絶対条件ではないから。
青空だけ眺めて生きていたい人だっている。「勝て」という言葉に押しつぶされた人だっている。適度に頑張って、後は楽しい事をひたすらやって生きて行くのだって、素敵な生き方だ。
「勝つ」と言う言葉は、それだけ重く、厳しく、覚悟を持って扱わなければならないものだと思うのだ。
それでも、私が勝ちたいと思ったならば。
何校落ちても、何試合負けても、幾つのオーディションに落ちても、「勝ちたい」と思ったならば。
諦めないことで、敗北を重ねることで、自動的に自分が強くなるなどと思ってはいけない。
漫画やスポーツで擬似的な勝利を体感して満足していてはいけない。
もはやコンプレックスはないし、誰かに勝ちたい訳でもない。ここまできたら、他人なんて心底どうでもいい。
泣いても悔しさをすぐ忘れ、面倒臭がりで、誘惑に弱くて、根性も全くない。
そんな自分に、私はまだ勝ったことが無い。