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種子
青白い朝の光が障子越しに射し込んできた。まだ明けきらぬ空には、夜の名残が薄く残り、まるで一枚の透明な幕が天地を隔てているかのようであった。僕はこの光景を見るたびに、一つの問いが胸の奥底に湧き上がるのを抑えられない。
「本不生際とは、何なのだろうか?」
それはただの言葉に過ぎないのかもしれない。けれど、この言葉が僕の思考を占めるようになってからというもの、日々の景色はどこか異なった様相を帯びて見える。
窓辺に腰を据えながら、僕は庭先の松を眺めた。葉先に朝露が残り、それが太陽の光を受けて微かに煌めく。松はただそこにある。ただの一本の木に過ぎない。しかしその「在る」という事実が、何か根源的な謎を含んでいるように思えてならないのだ。
僕は書棚から古びた本を取り出し、薄暗い部屋でページをめくった。仏教の書物だった。「本不生際」、すなわち「本来生じることのない境界」という言葉がある。これは、物事の根本には何も存在せず、しかしその何もないところからすべてが生じる可能性がある、という意味だという。その一節に触れるたび、僕の頭の中には無数の種子が舞い散るような感覚が生まれる。そして、その種子たちが混沌の中で渦を巻きながら、何か形を取る瞬間を夢想するのだ。
夕方、僕は友人の草野を訪ねた。彼は物理学を研究している男である。分子や原子の動きに取り憑かれたかのように語るその姿に、時折狂気を覚えることもあったが、今日ばかりは彼の知識を借りたい気分だった。
「草野、本不生際とは何だと思う?」
僕がそう訊ねると、彼は一瞬きょとんとした顔をしたあと、笑みを浮かべて言った。
「君は哲学に首を突っ込むようになったのかね。いいだろう、本不生際というのは、私に言わせればビッグバンの前の特異点みたいなものだよ。」
「特異点?」
「そうだ。あらゆる物質とエネルギーが一点に凝縮され、秩序も混沌も存在しない状態だ。しかし、そこからすべてが始まる。宇宙が、星が、僕らが――。本不生際というのは、あらゆるものがまだ『形』を持たない状態に近いんじゃないかな。」
僕はしばらく黙り込んだ。草野の話は科学的ではあるが、その背後には深い哲学が垣間見えるように思えた。秩序も混沌も存在しない、という言葉が、僕の心を妙に掻き立てるのだ。それは、生まれる前の胎児のようなものだろうか。まだ形を持たず、意識もないが、確実に何かを内包している。それが種子であり、混沌であり、「本不生際」なのだろう。
夜遅く、僕は自室に戻り、再び松の木を眺めた。今度は漆黒の夜空を背景にしている。松はただそこに立っている。だが、その静けさがかえって僕を圧倒する。まるでその内部に、言葉では説明できない無限の可能性を秘めているかのように思えるのだ。
「種子であり混沌である」とは、まさにこのことかもしれない。僕らはそれを見ようともせず、ただ日々の雑多な営みに流されていく。しかし、もしその静かな核に目を向けることができたなら――その瞬間、人間の営みや存在のすべてが、新たな光で照らし出されるのではないだろうか。
僕は筆を手に取り、その感覚を言葉にしようとした。けれど、どうしても書き表すことができなかった。もどかしさを覚えながらも、僕は小さな声で呟いた。
「本不生際、それはきっと、僕らの存在そのものだ――。」