熾天使
校正と考察(夏目漱石風)
熾天使
ある日、ぼんやりとしていると、どこからともなく声がした。
「流れに身をまかせよ」と。
これは神の声に違いない――私はそう思った。そして、その言葉のままに身を任せてみることにした。
気がつけば、私は河を漂っていた。それは大きな大河で、穏やかに流れながらも、歩くほどの速さで私を運んでいた。その流れに揺蕩ううち、ふと自分の姿に気づくと、六枚の羽を持つクリオネのような形になっていた。
「熾天使だな」と、私は思った。
振り返れば、かつて天使と対立したことは幾度となくあった。(その事情はお察し願いたい。)だが、内心では彼らへの憧れを抱いていたのも事実である。その思いが、私の姿をこのように変えたのだろうか。
私はひどく嬉しくなり、「そうだ、ダアトの師匠に見せに行こう」と思った。次の瞬間、私は冥王星か、あるいはそれに連なるダアトの月の前に浮かんでいた。
(もっとも、私自身のホームグラウンドでありながら、その位置をいまだによく理解していないのだが。)
考察
この文章は、主人公の霊的な体験や変容を描いているが、どこかユーモラスで軽やかな語り口が特徴的である。神の声を聞き、それに従うことで「熾天使」という崇高な姿に変わるという内容には、霊的成長や自己啓示のテーマがうかがえる。しかし、かつて天使と対立していたという過去の含みや、「ダアトの師匠に見せに行こう」という発想の妙に人間的な軽さが、物語に親しみやすさと独特の味わいを与えている。
また、「ダアト」という語が登場することで、ユダヤ神秘主義(カバラ)の生命の樹や知識を象徴している可能性が考えられる。主人公がダアト(知識、あるいは隠された次元)へと向かう様子は、神秘的な領域への旅を暗示していると読める。一方で「ホームグラウンドなのに位置がよくわからない」というくだりは、そうした崇高なテーマを語りながらも、冷静な自己認識とユーモアを忘れないバランス感覚を示している。
全体として、漱石の独特な文体を想起させつつ、霊的体験の重みと軽妙な語り口を絶妙に融合させた興味深い文章である。
続きをお届けします
ダアトを進み、玉座に座る師匠に話しかけたが、「ああ、お前か、いま忙しいので、外で待っておれ。あとで話を聞いてやる」とのことだった。
私はダアトを離れ、しばらく進んだところにある崖の窪みに座り込み、ウトウトし始めた。どれくらい眠ったのか、気づけば声が呼んでいる。
窪みを出て周囲を見廻すと、下の方で何やら声がする。降りていくと、アビスの住人たちが深淵の河原に集まっていた。彼らの話を照合すると、どうやらアビスの出入り口周辺が堆積した汚れで通りにくくなっているらしい。
「なんとかしてほしい」と訴える彼らに、私は頷いた。昔からお世話になっているアビスのことだから、力を貸すことにした。
私は清めの力を使い、汚れを浄化していった。すると、少しずつ道が開けていくのが感じられた。アビスの住人たちはその様子に感謝し、安堵の息を吐いた。
ふと、私は心の中で問いかけた。「なぜ、自分がここにいるのだろうか」と。その問いに、答えを探す時間が流れたが、結局は答えが見つからなかった。だが、それでもこの役割を果たすことが、自分の存在の一部であると感じた。
しばらく後、師匠からの声が届いた。「よくやったな、貴様の力、以前よりも確かになっている。これからも共に歩むがよい」と。
私は微笑んで頷き、再びダアトの道を歩き始めた。
考察
続きの物語では、主人公がダアトを離れ、アビスの深淵で活動する場面が描かれています。崖の窪みに座ってウトウトする場面から、現実と夢の境界が曖昧になっていく様子が見て取れ、神秘的な世界への入り口が開かれている印象を受けます。
アビスの住人たちが汚れを浄化して欲しいと頼む場面では、主人公の役割がより顕著になります。清めの力で汚れを取り去ることで、問題が解決していく様子が描かれ、そこに主人公の内なる力と貢献が浮かび上がっています。
「なぜ、自分がここにいるのか」という問いが浮かぶシーンも、漱石の哲学的要素を感じさせます。自分自身を探求する過程や、役割を果たすことの意味について深く考察する姿勢があるからこそ、この物語が奥行きのあるものとなっているようです。
そして、師匠からの評価を受けて再び歩き始めるラストシーンは、成長と共に新たな道を進むことへの確信を感じさせます。