「アイ色のかくれんぼ」
lost and found
①の詩
「もう、いいかい。」
僕はそう呟く。
けれど君は、僕の問いなど聞いているはずもない。
そもそも、この「かくれんぼ」という遊びを、君は知らないのだ。
それでも君は、まるで巧妙に隠れているように思える。
いや、隠れているのかどうかすら、本当は分からない。
僕が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない。
君を探すたびに、僕はアイ色の欠片を思い出す。
あれは僕の中に確かにあったはずのものだ。
けれど僕は嘘を吐いた。「そんなもの、初めから無かった」と。
僕が訪れた場所には、いくつもの奇跡があった。
確かに、それは存在していたのに。
僕たちはきっと、探し物をしているだけなのだ。
ただ、それが何なのか分からないままに。
やがて君と僕は、どこかで出会うだろう。
同じ色の表情で、寄り添う日が来るかもしれない。
でも、僕には分かっている。
僕はもう一歩だけ、勇気を出せば良かったのだ。
その勇気さえあれば、君とこの場所で向き合えたはずだった。
「もう、いいよ。」
君の声に振り向いたとき、
僕の世界は瑕だらけのままで、それでも色を取り戻した。
けれど、どうしても言いたくなる。
「だって君なんて、見つかるはずがない。」
情けない、悲しい声だ。
僕は逃げ出したいのだ。
嘘をついて、嘘の隙間をすり抜けて、
ぶつかって、毒を吐いて、崩れ落ちて、
そんな自分を直視するのが恐ろしい。
嘘の層が、君の本当を覆い隠していく。
僕は行き場を失い、転んだ。
彼らが僕を見ていた。
怪訝そうな目で。
そして慌てて目をそらす。
僕の存在が不快なのだろうか。
それとも、彼らもまた同じなのか。
隠れるために顔を覆い隠し、
自分自身さえ、どこかへ放り出しているのだろうか。
「君は、ゲームが始まる前からずっと、
顔を隠していたんだろう。」
「もう、遅いよ。」
彼らの声が、ひどく冷たく耳に張り付く。
僕は答えられない。
ただ、言い訳だけを投げつけた。
その言い訳も、闇の中に吸い込まれていく。
でも、分かっているのだ。
君は、本当はずっとここにいたのだ。
僕が目を背けていただけなのだ。
僕だって、最初からずっと、顔を隠していたのだ。
アイ色の欠片を失くしてしまったと、そう思い込んでいただけで。
それでも、遅くはないはずだ。
「失くしたものが見つからないなんて、
誰が決めた?」
僕は走り出す。
この「かくれんぼ」を終わらせるために。
いや、君を見つけるために。
君に会いたい。君を愛したい。
そして君と別れるのが怖い。
だからこそ、僕は走り続ける。
君の涙が溢れても、
君の声が掠れて消えても、
君の心が遠く離れていても、
僕は叫ぶ。
「今、君を見つけた。」
①了
考察
太宰治風に校正した場合、この物語はより「自己否定」と「他者との隔絶」が色濃く表現されます。太宰の作品に頻出するテーマである「無力感」や「救いへの渇望」が、登場人物の心理に深く刻まれているように感じられます。
アイ色の欠片
「アイ色」は、太宰の描く青白い光のように、希望と絶望の狭間に存在する曖昧な象徴です。主人公が「無かった」と言い張ることで、それを受け入れることへの恐怖が表現されています。アイ色の欠片は、主人公にとって「本来の自分」であり、また「失われたもの」であると言えるでしょう。
隠れることと嘘
太宰風の解釈では、「隠れる」とは自分自身からの逃避を意味します。主人公が嘘をつき続けるのは、他者に対してだけでなく、自分自身にも嘘をついているからです。その嘘が積み重なることで、アイ色の欠片がますます遠ざかり、見つけられなくなる構造が描かれています。
再生への希望
物語の最後に、主人公が「今、君を見つけた」と宣言する場面は、太宰風の虚無感の中にも微かな再生の兆しを表します。「失ったものが見つからない」と思い込んでいた主人公が、その思い込みを打破し、再び向き合おうとする瞬間は、太宰の作品における「救いの余韻」を感じさせます。それは完全な救済ではなく、ただ「もう一度生きてみよう」という微かな一歩です。
②の詩 ◆
朝締め切った
窓も、心も、きつく閉ざされたその部屋には、ただ擬音がひとり歩きしている。耳元で囁くように、あるいは暴力的に響いてくるその音たちが、まるで意識の裂け目を滑り込むかのようだ。
キミ擦り切れた
ぼろぼろと剥がれ落ちるような思念が、気づけば床に散乱している。その中に、かつては鮮やかだった感情の残骸が紛れている。偽った。楽しんだ。それでも、遣り切った――そう信じた瞬間の記憶が、かすかに暖かい。
声にする間もなく、言葉が宙に溶けていく。その切れ端を掴む前に、ふわりと私はどこかへ飛び立ってしまった。「ようこそ」――招かれた場所は、かつて夢見たエデンのようでありながら、どこかぎこちない。
羽ばたくノイズが私を隠す
その音は、翼なのか、罰なのか。蘇る景色の中で、色づいては散っていく音符たちが宙を舞う。心の暗闇から吹き出す旋律が、私を自由にしようとする。
いま どこ? キミ てを かざ した
問いかける相手は、誰だろう? あの日、見知らぬ世界に目覚めた身体。翼を得た私が見つめる先には、つぎはぎのような記憶と、名もなき存在たち。
錆び崩れた意識を瓶に詰めて、飾り物にするような日々。耳を塞ぎ、目を閉じ、自由を求める叫びを聞くたびに、私は何度も生まれ変わる。
飛び込む私を笑顔で見送った
すべてを投げ出すその瞬間、誰かの顔が浮かぶ。それが誰であったのか、何だったのかは、もうわからない。ただ、散りゆく歌が私の全てだったことだけが確かだ。笑えよ、と私は呟く。笑え。崇めよ。そして、さよならを。
②了
考察
太宰治風に仕立てるならば、自己の崩壊と再生、そして孤独と他者への渇望が絡み合う表現が欠かせません。この詩の背後にあるのは、「自由」を求めながらもそれに怯え、「真実」を歌いながらも自分すら信じられない矛盾の連鎖です。
詩中の「飛び込む」という行為は、自己を壊すことで新たに生まれ変わる象徴であり、そこに他者の視線や存在が付与されることで、孤独の中に救済を垣間見ています。これは太宰の「生きたいという叫び」に通じるものがあります。詩の最終行、「笑顔で見送った」に込められた皮肉と哀切が、この作品全体のエッセンスを体現していると言えるでしょう。
タイトル:「アイ色のかくれんぼ」
第一章:「もう、いいかい」
僕の心の中には、森が広がっている。
深い深い、木々が幾重にも折り重なる、どこか冷たくも温かい森だ。
そこには、アイ色の霧がたなびいている。
君がいるのかいないのか、確かめる術はない。ただ、君の存在を感じることはできるんだ。
かくれんぼ、なんて単純な遊びだと思っていたけれど、この森では、それがまるで儀式のように思える。
僕は歩き出した。
足元の土は湿っていて、葉を踏むたびに小さな音が響く。
「もう、いいかい。」
僕は自分に問いかけた。君に向けて問いかけた。でも、その答えは風にかき消されるだけだった。
森の中で見つけた欠片――それはまるで、アイ色の光を宿した小さな宝石のようだった。
僕の中にあったはずのもの。けれどいつからか、それは失われていた。
「これを探していたのかもしれない。」
僕は小さく呟いた。その声すら、木々に吸い込まれていった。
そして、その瞬間に気づいたんだ。
君はずっと、この森のどこかで僕を待っている。
いや、待つなんて言葉では足りない。君は僕の存在そのものを見守っているのだ、と。
第二章:「いま、どこ?」
ある朝、僕は目を覚ました。
窓の外には、白い光が溢れていた。森の中の夜とは違う光だ。
けれど、それはどこか現実味を欠いていた。
僕は不思議な感覚に襲われた。
どこからか羽ばたきの音が聞こえる。鳥のような、風のような音。
それが僕を包み込み、僕の中の何かを呼び覚ます。
「キミ、てを、かざ、した。」
音が断片的な言葉に変わり、それが僕の記憶を断片ごとに繋ぎ合わせる。
目の前に広がる景色は、夢と現実の狭間のようだ。
僕は再び歩き始めた。森ではなく、どこか見知らぬ空間の中を。
足元には錆びた意識の残骸が散らばり、どれも僕の過去の一部のように見える。
それらを拾い上げるたびに、僕の心が少しずつ暖かさを取り戻していく。
やがて、僕は見覚えのある影に出会った。
それは君だった。けれど、君は僕の想像とは違っていた。
僕が知っている君ではなく、僕が願った君でもなかった。
それでも、僕は君に手を伸ばした。
「ここにいたんだね。」
君は微笑む。その微笑みが、僕の胸に深く刺さる。
君を見つけたのに、なぜか僕の中には空虚な感情が渦巻いていた。
第三章:「さよなら」
アイ色の欠片を拾い集め、君とともに歩き続けた。
それは温かな時間であり、同時にどこか苦しい時間でもあった。
君の目には、僕の知らない景色が映っている。
君の笑顔には、僕の触れられない秘密がある。
僕たちは一緒にいるようで、どこか別の場所にいるようだった。
そして、僕は気づいた。
この「かくれんぼ」は、終わることがないのだと。
君を見つけたと思った瞬間、君はまたどこかに隠れてしまう。
それは君のせいではない。僕がそうさせているのだ。
「さよなら。」
僕は小さく呟く。それは君に向けた言葉であり、僕自身に向けた言葉でもあった。
僕は一歩を踏み出す。その一歩が、僕の新たな旅の始まりだった。
考察:宮沢賢治の詩的世界観における「かくれんぼ」と「輪廻」
この物語は、宮沢賢治の作品に通じるテーマである「探求」と「再生」を象徴しています。
①の詩では、主人公が「アイ色の欠片」を探すことで、失われた自己との再会を試みます。これは「心の森」という内なる世界を象徴しており、賢治の詩に見られる自然と精神の融合が感じられます。
②の詩では、翼や音といった象徴的なモチーフが登場し、「新たな世界への旅立ち」を描いています。これは、賢治が描いた「銀河鉄道の夜」における旅と似た構造を持っています。
「かくれんぼ」と「輪廻」は対になり、探求する者と隠れる者が同一であることを示しています。これこそが生命の本質であり、賢治の作品における「永遠の探求」のテーマと共鳴しています。