続・人身御供(ひとみごくう)って風習が日本にあったのですか?
目次
1.「頭屋行事【エトエト祭】」の看板の写真3枚
2. SNS投稿記事(1)、(2)、(3)
3. なぜ「⑤ 御供(ごく)」に惹きつけられたか
4. 「⑤ 御供(ごく)」は「人身御供」ではない、と理解した
5. 「⑤ 御供(ごく)」の絵で人は駕籠に乗っているか否か
6. 桜逸の絵の主テーマは「蛇」
7. 大蛇(オロチ)退治
8. 人身御供は存在した
9. 人身御供の伝説
10. 老杉神社の主祭神
11.頭屋行事の大要
12.頭屋行事の「蛇縄」の顛末
13.頭屋行事の写真(一部分)と解説
注釈
付録
1.「頭屋行事【エトエト祭】」の看板の写真3枚
老杉神社(おいすぎー)の一の鳥居横に「頭屋行事【エトエト祭】」の看板があります。この看板には、老杉神社の由来と頭屋行事の説明があり、その左側に「エトエト祭り」の社参行列の絵と〔絵の解説〕があります。この「解説」は、看板を掲げた「笠縫学区まちづくり協議会」の関係者が付したようです。元の絵には「解説」はありません(後掲の写真を参照)。
2.SNS投稿記事(1)、(2)、(3)
上掲の「絵の解説」の「⑤ 御供(ごく)」にかかわり、筆者は2024年8月16日に下記(1)を投稿しました。次に(2)を書き足しました。(3)は今回投稿の記事です。
(1)(下記は筆者のNSN投稿記事です)
草津市下笠(しもがさ)に老杉(おいすぎ)神社があります。この神社には古くから伝わる頭屋(とうや)行事がありまして、その主要部分が絵で示されています。「解説」によりますと、⑤は「御供(ごく)」です。御供(ごくう)とは神様へのお供えです。絵にあるように、駕籠に人間1人とヤギ4頭が載せられています。日本には人間とヤギを神様に供えるという風習があったのでしょうか。どなたかご存じの方がいらっしゃったらご教示くださいませんでしょうか。
なお、人身御供(人身供犠じんしんくぎと同義)の風習は、パレスチナなどに居住するセム族にありました。人を焼き尽くすいけにえとしてささげ、多くは子どもが犠牲にされました。
(2)(下記は地元の人から教わった内容です)
地元の人に再び尋ねまして「⑤御供(ごく)」の意味が解決しました。わたしが「駕籠に人間1人とヤギ4頭」と見たのは誤解で、人間は駕籠の向こうにいる人、駕籠の上に「ヤギ4頭」と見たのも誤りで、これはお米を餅のようについたもので、8つの村に配る習わしがあり、こんにちもこの行事は継続されているとのことでした。たいへん失礼しました。(それでも、老杉神社の看板を実際に熟視しますと、「お米を餅のようについたもの」は、やはりヤギのように見えるのです。)
(3)下記は2024年10月30日、草津市教育委員会文化財課の岡田様から教わった内容です)
上掲の行列の「絵」は桜逸(おういつ)という人物が「絵馬」を描き、それを昭和41年(1966年)に老杉神社に奉納したものです。「⑤ 御供(ごく)」で描かれている人物は駕籠に乗っているかのように見えるが、(地元の人が言われたように)駕籠の向こうにいる。「御供(ごく)」は餅のことで、人身御供(ひとみごく)ではない。この絵馬はいまも追杉神社の拝殿に掛けられている。
上記の助言を得ましたので、2024年11月5日、追杉神社を訪れ、宮司さんの許可を得て、桜逸の絵馬の写真を撮らせて頂きました。
(老杉神社の山元宮司様、地元の山元様、教育委員会の岡田様ありがとうございました)
老杉神社には「神事目録」という古い史料が伝わっていまして、現在、栗東歴史民俗博物館に寄託されています(この「目録」ついては別稿「#新説・草津下笠城の築城年」を参照して下さい)。
「御供」という字に留意して、「神事目録」を読みますと、(第三紙)に1回、(第四紙)に2回、(第五紙)に3回、(第8紙)に2回、(第十紙)と(第十一紙)の各1回それぞれ現れます(注1)。これらの中から分かり易い用例を拾い上げますと、「一升盛御供」、「二升盛御供九膳」(いずれも第四紙)があります。「御供」は老杉神社の神事に不可欠の要素であることが分かります。
「御供」という語を理解するために、宇野の高論『村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に』(国立歴史民族博物館研究報告 第38集 2003年3月)(以後本論は“宇野”と略記)の「❸村の行事 (1)頭屋行事」(230頁上段~)の記述から「御供」の用例を2例挙げます。①「御供用に都合九一本を作成。」(宇野230頁下段)。この「御供」という漢字に、ルビ「ごく」が付されています。②「御供搗きは午前六時頃終了。御供が堅くなるのを見定めながら、各神饌の配膳をする。」(宇野231頁上段)
叙述は脱線しますが、上記②の用例中の“御供を搗いて堅くなる”という言及は、老杉神社一の鳥居横の「頭屋行事【エトエト祭】」の看板「⑤ 御供(ごく)」の、ヤギのように見える御供の素材はこれだろうと直感しました。
3. なぜ「⑤ 御供(ごく)」に惹きつけられたか
筆者は体力維持のために毎日、小一時間ウオーキングを課しています。その節、大抵一の鳥居横の看板の前を通ります。ふと、「絵の解説」の「⑤ 御供(ごく)」に目が留まりました。「人が駕籠に人が乗っているのだな(と筆者には映ります)、はて、これは人身御供ではないか。」
筆者は聖書を研究しています関係で、御供なら、旧約聖書に出てくる人身御供に通じる、と考えたのです。旧約聖書の次の引用をご覧ください。
パレスチナなどに居住するセム族は、自分たちの思いが叶えられるのを願って、神に、焼き尽くすいけにえとして、人(多くは子ども)を献げていました。これが人身御供(人身供犠)です。この知識にとらわれていたものですから、ヤギと人が、駕籠の上に乗っているのであれば、人身御供と考えたのです。これが「⑤ 御供(ごく)」に関心を抱くことになった契機です。
筆者は一の鳥居の「絵」を観て、この「絵」は相当古い文献から採ってきたのだろうと推測しました。しかし、上述のように、桜逸の作品は昭和41年(1966年)に奉納されていますから、彼は描画に際して、実際の社参行列を参考にしながら、遠い昔の情景を想像して描いたことになります。遥か昔のことであれば、後述のように、人身御供はあり得ましたので、「人が駕籠に乗っている。人身御供か」と捉えても、あながち荒唐無稽な推断とはならないでしょう。
4. 「⑤ 御供(ごく)」は「人身御供」ではない、と理解した
ウオーキングの際、看板の「⑤ 御供(ごく)」の絵を何度も熟視熟考しました。そのうちに、「これは人身御供」ではない、という理解に達しました。理由は、もし「人身御供」であれば絵の中に、憂い、悲しみ、嘆き、怒り、叫び、苦悩といった暗い雰囲気が反映されているはずですが、そういうムードはまったく感じられません。そのうえ、行列の3番目に童子2人が描かれ、その後方に男性2人が、扇子を振り上げて何か叫び声をあげている風です。そして⑥は「御膳」と解説されていますが、絵では、駕籠の上に子どむ(らしい)が乗っています。おおよそ「人身御供」に通底する悲哀・陰鬱といった空気は全くなく、そこにはどこか人々の勝ち誇った高揚感さえ窺えるのです。
万一「人身御供」となれば、老杉神社境内に「塚」のようなものがあるはずですが、「そういうものはありません」(宮司さんの談話)。それに「人身御供」なら、悲惨な出来事として村人の間で伝承され、同時に神主家は承知しているはずです。そういうものは全くありません。さらに神主家に伝わる「神事目録」にも、筆者の知りうる限り、そうした記録は皆無です(注2)。
5. 「⑤ 御供(ごく)」の絵で人は駕籠に乗っているか否か
駕籠に人が乗っているかいないかで意見が一致しているわけではありませんが、「乗っている」とする見方は、筆者を含めて複数あります。筆者がその見解に立つ理由は、駕籠の下に何かが見えますが、もし脚だとすれば、他の人に比べて、みじか過ぎます。それに、他の人は皆、白足袋を履いていますが、駕籠の人は履いていません、という点にあります。もっとも、このような見解は、エトエト祭りを長年、斎行されておられます地元の皆さまからお叱りを賜ることになるかもわかりませんが・・・。
6.桜逸の絵の主テーマは「蛇」
桜逸の絵の「⑤ 御供(ごく)」と「⑥「御膳」の位置は、今日の行列では、下記引用のように、「膳, 幟(のぼり),人形[ひとがた-筆者注]」です。
桜逸の絵「⑤ 御供(ごく)」を「膳」とすれば、「⑥「御膳」の位置は、「人形」です。桜逸は、「⑤ 御供(ごく)」で人を駕籠に乗せ(筆者の理解)、さらに「⑥「御膳」で、「人形」ではなく「子ども(らしい)」を乗せています。彼は2人の人を駕籠に乗せてはいるが、先述のように、行列の前部に童子2人、その後方に「男性2人が、扇子を振り上げて」叫び声を上げている風です。この風景は、人を死に追いやるような陰鬱な空気ではありません。絵全体の雰囲気は、暗さよりもむしろ明るさが支配的です。
このように見てきますと、桜逸の絵の主テーマは、ひときわ際立って描かれている「⑦ 蛇縄」(じゃなわ)、すなわち大蛇(オロチ)にあると思えるのです。行列の人々の高揚感は、大蛇(オロチ)退治成就にあると見たいのです。それだからこそ、⑥の「御膳」の位置に、「人形」ではなく、「子ども(らしい)」を乗せて、人々の安堵感・達成感を表現しているのだ、と。つまり、桜逸は何百年も前のエトエト祭を、大蛇(オロチ)退治を主テーマにして描いたと読み解きたいのです。
7. 大蛇(オロチ)退治
往時、八村は絶えず(大)洪水、(大)雨に悩まされていました。その記録は老杉神社の「神事目録」に記されていまして、宇野227-229頁(第九紙)、(第十紙)、(第十一紙)、(第十三紙)、(第十五紙)で確認できます。
八村東方の山間部で降った土砂降りの雨は大洪水となって、琵琶湖に近い八村を襲ったことは想像に難くありません。大蛇(オロチ)は水害の象徴です。「古事記」(「八俣遠呂智」の字で)と「日本書紀」(「八岐大蛇」で)にヤマタノオロチが出てきます(ウィキペディア参照)。「神話の国」出雲に、オロチ(大蛇)が水害の象徴として語られています。そのオロチを退治するのが素戔嗚尊です。
以上の資料で、八村、大洪水、オロチ(大蛇)、素戔嗚尊の関係が理解されます。
8. 人身御供は存在した
人身御供の風習は、遠い昔、日本にもありました。民俗学者・六車由実はその事例を報告しています。
下記引用文の小見出し(1)から(5)は筆者が便宜的に付したものです。
上の引用文におけるキーワードは、オロチ(大蛇)、人身御供、オロチ退治・・・、人形です。これらの事象を、昭和40年代の人・桜逸が知っていたという可能性はあり得ましょう。
9.人身御供の伝説
日本に人身御供の伝説があります。その話を3題、提示します。
(1)日本最古の築堤『茨田堤(まんだのつつみ)』
(掲載記事中の写真はすべて省略しています)
『日本書紀』の茨田堤にかかわる原文は省略し、口語訳のみを引用します。
(2)多賀(たが)大社
筆者付記.類似の話は滋賀県多賀町富之尾に鎮座する大瀧神社にも伝わっています。< https://note.com/tagamachinet/n/n3011f757b860?magazine_key=md305f5a94eeb >を参照してください。
(3)大阪市西淀川区の野里住吉神社
「日本経済新聞」社は2021年2月18日、つぎの記事を配信しました。
10. 老杉神社の主祭神
老杉神社の主祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)、八王子命(ハチオウジノミコト)です(注3)。これらの主祭神については、宇野232頁「献饌一覧図」で確認できます。宇野はその「一覧図」で追杉神社の平面図を描き、(本殿)下に「ゴク」、その両隣りにも「ゴク」とあり、(本殿)真下に「素菱鳴(殿村)」、その左側は「八王子(王之村)」、右側は「稲田姫(細男村)」です。
老杉神社の三柱(みはしら)の神々は八村(八カ村、宮座八か村)の人々の家内安全、子孫繁栄、五穀豊穣、無病息災の守護者であるのです。
稲田姫命は稲作守護・五穀豊穣・縁結びの神様です(注4)。もう一柱(ひとはしら)の神様は八王子命で、この神様は「アマテラスがスサノオと誓約した時に生まれた五男三女の神々」であり(出典:「八王子神社」< https://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1740 >)、「天照大神からは五男が、スサノオ神からは三女神が生まれた。」(出典:Ameba < https://ameblo.jp/keith4862/entry-12380925281.html > )
八王子命・八王子神の8人の王子・王女の名前と御利益(ごりやく)については< https://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1740 >に詳しい。
11.頭屋行事の大要
(「頭屋行事は、『オコナイ』『エトエト祭り』とも呼ばれ」る(宇野230上段))
頭屋行事の初期の起源は室町時代の1380年代と見られます(#新説・草津下笠城の築城年参照のこと)。ゆえに、この祭りは640年ほどの伝統を誇ります。祭りの継承がどれほど多くの困難を伴うかは、宇野の論考から十分に理解されます。その大要を抜粋します。
老杉神社のオコナイ(エトエト祭り)は次のサイトでも詳しい。
< http://www.mfutamura.com/sub85.htm >
< https://kazuo.photo-web.cc/sb132.html >
< https://www.eonet.ne.jp/~oumimatsuri/215oisugi.html >
< https://www.youtube.com/watch?v=512SzuqWuHA >
< http://www.photoland-aris.com/myanmar/okonai/14/ >
< http://www.mfutamura.com/sub85.htm >
12.頭屋行事の「蛇縄」の顛末
桜逸の絵で強調的に描かれた「⑦ 蛇縄」は、頭屋行事の中で重要な役割を果たしています。それの顛末は以下のようです。
2月15日、社参行列のために午前5時三十分集合。用意された各神饌が、頭屋宅の玄関前に並べられ、神社に向かって出発。道中「エト エトー エト エトやー」の掛け声が続く(宇野231上段参照)。
ちなみに桜逸の絵で、「男性2人が、扇子を振り上げて」叫んでいるのは下記引用にありますように「万歳楽,初世楽」でありましょう。
「万歳楽」(まんざいらく)は「祝賀の宴に用いられ」、「めでたい曲」(注6参照せよ)とありますから、この点から判断しても、桜逸の絵の主題は、人身御供といった陰鬱な情景にあるのではなく、オロチ退治を成就したという喜びにある、と読み取ってよいでしょう。社参行列の村人たちは、「オロチ(大蛇)を退治したー!」と、三柱(みはしら)の神々に届くように声高に叫んでいるようにも思えます。
蛇縄は2月11日に頭屋宅で縫われたあと、いったん老杉神社内に運び入れられ、その後に二の鳥居に吊るされ、「五月四日の例祭まで吊る」され(宇野231上段)、その日に「焼却」されます(注7)。水害の象徴であるオロチ(大蛇)退治は完遂されました。
八村の人たちは三柱の神々に仕え尊崇し、家内安全、子孫繁栄、五穀豊穣、無病息災を願い祈りつづけてきました。
では、桜逸の絵で、駕籠に乗っている(と見られる)人物はどうなるのでしょうか。桜逸がどのように考えていたかは分かりませんが、八村では、初期の頭屋行事が始まったと見られる室町時代の1380年代以来この方、人身御供の話はありません。ゆえに、桜逸に代わって、筆者が駕籠の人物のその後を記しましょう。⑤の人物も、⑥の「御膳」の位置の「子ども(らしい)」も、行列が追杉神社境内に入るや否や、宮司さんから修祓を受けて、村人の中に戻ります。
つぎに、天界の人となった桜逸さんに報告します。「640年ほどの歴史を誇る下笠の頭屋行事で人が駕籠に乗ったという事実はありません。 」
13.頭屋行事の写真(一部分)と解説
注釈
注1.「神事目録」については筆者のSNS「#新説・草津下笠城の築城年」を参照してください。
注2.宇野の高論「村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に」< file:///C:/Users/ttaka/Downloads/kenkyuhokoku_098_09%20(3).pdf >の224頁下段「(第一紙)」から229頁上段「(第十四紙)」までを参照のこと。筆者が「神事目録」に目を通したのはこの14紙だけです。「神事目録」は現在この14紙しか翻刻されていません。
注3.主祭神の出典:< https://www.sigatabi.com/kusatu/oisugi.html >< https://yaokami.jp/1250728/ >
< http://www.komainu.org/siga/kusatusi/oisugi/oisugi.html >
スサノオは「『古事記』では建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)、速須佐之男命、須佐能男命、須佐之男命、『日本書紀』では素戔嗚尊、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、武素戔嗚尊」(ウィキペディア「スサノオ」)。
注4.稲田姫については、稲田姫をまつる「稲田神社」がある。「八岐大蛇退治に登場するスサノオノミコトの妻「イナタヒメ(クシナダヒメ)」の生誕之地とされる稲田地区に建つ神社です。神社の周辺には、稲田姫(イナタヒメ)の生まれたときに使われた「産湯の池」や、へその緒を竹で切ったと伝えられる「笹の宮」が今もなお奉られています。ヤマタノオロチ神話を巡る名所として多くの人が訪れる場所でもあります。(出典:「稲田神社 いなたじんじゃ イナタヒメ(クシナダヒメ)の生誕之地」< https://okuizumo.org/jp/guide/detail/215/ >)
「ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて櫛になる。スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。[・・・]『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫(くしいなだひめ)、稲田媛(いなだひめ)、眞髪觸奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)」と表記する.(ウィキペディア「クシナダヒメ」)。
注5.老杉神社一の鳥居横の看板には「五月三日の例大祭」、「翌日後宴祭」とある。 橋本章(< file:///C:/Users/ttaka/Downloads/kenkyuhokoku_091_23%20(8).pdf >にも「老杉神社の例大祭は毎年5月3日に執り行われ」る、とある。
注6.「禰宜太鼓を打ち傳」は、「禰宜、太古を打ち伝え」の意か(下記「語意参考」参照のこと)。「御(おとな)扇を開いて舞ひ」は「オトナが扇を開いて舞い」の意か。「初世楽」については不明。
上記「コトバンク」の引用文の中に「まざいらく。鳥歌万歳楽。」という語句がある。このあとに次の図が掲載されているが、本稿では引用文中にその図を挿入できなかったのでここで提示する。
注7.蛇縄が二の鳥居に吊るされる様子は、宇野268頁の写真4枚「⑲鳥居に蛇縄が吊られる(1) ⑳鳥居に蛇縄が吊られる(2) ㉑鳥居に蛇縄が吊られる(3) ㉒鳥居に蛇縄が吊られる(4)」で説明されています。 「焼却」の出典:「LIXIL」< https://livingculture.lixil.com/archives/gallery/user_exh/w_0806okonai.html >参照。
付録
参考のために人身御供、人柱、生けにえなどの史料を提示しておきます。
1.生けにえを供える祭り 引き継がれる伝統文化 愛知・豊川
(出典:「朝日新聞デジタル< https://www.asahi.com/articles/ASR59767ZR4BOBJB00P.html>の一部分)
豊川市指定無形文化財「菟足神社の風祭」の田植え神事。この神事に合わせて、宮司が神饌所でスズメを神前に供えるという。
愛知県豊川市小坂井町で市指定無形民俗文化財「菟足(うたり)神社の風祭り」が4月にあった。《人身御供(ひとみごくう)の由来伝承を持つ生贄(いけにえ)を供える祭り》。市教育委員会はそう紹介する。平安時代の説話集には、生きたイノシシを切り裂いたという記述も残る。供える中身は変わっても、祭りは引き継がれている。
神社に残る言い伝えでは、祭りの日に地域の橋を最初に渡った女性をいけにえにする風習があった。その役割を任された男性の前に最初に現れたのが、里帰りの自分の娘。仕方なく縛って神社に連れて行った――とされる。
平安時代後期の説話集「今昔物語集」には、三河国の国司が、イノシシを生きたまま切り裂く神事に衝撃を受けてやがて出家した、と紹介されている。
いけにえは、イノシシからスズメに変わった。元市文化財保護審議会委員の中村重蔵さん(76)によると、かつては神前に供えるスズメ12羽を捕まえる役があったという。
1991年に神社の神職となった堀建治・宮司の話では、当時は宮司がスズメを絞めていた。中にはお供え後に「チュンチュン」と息を吹き返すスズメもいて、先々代の宮司は「やりたくない」と漏らしたそうだ。
秘密神事のため堀宮司の口は重いが、4月の田植え神事に合わせ、スズメを半紙に包み、麻布で結わえて供えたと明かした。本物のスズメは数羽だといい、「伝統文化は1回止めるとそれで終わり。先人が残したものを継いでいくのはいまに生きる者の務めではないか」と話す。(戸村登)」
2.篠山の大歳神社
出典:丹波新聞は 2021.12.30。< https://tanba.jp/2021/12/%E3%80%8C%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E3%80%8D%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B%E8%AC%8E%E3%81%AE%E7%A5%9E%E4%BA%8B%E3%80%80%E8%83%8C%E6%99%AF%E3%81%AB%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%80%A8%E9%9C%8A%E3%80%8D/ ≫
「人身御供」伝える謎の神事 背景に「大怨霊」の影 闇の中の祈り、今も
早朝5時に営まれた神事=2021年12月4日午前5時1分、兵庫県丹波篠山市犬飼で「その神社の当番になった人は1年間、牛肉食べたらあかんらしいで」―。始まりは知人から寄せられた情報だった。聞けば兵庫県丹波篠山市犬飼にある「大歳神社」のことらしい。興味をそそられ、深く調べていくと、牛肉の話は神事の一部に過ぎないこと、そして、神やもののけに人間をいけにえとしてささげる「人身御供伝説」と、集落名にある「犬」の存在が見えてきた。さらに背後には、ある大物の名も見え隠れする。夜も明けない12月4日午前5時、今年も神事が営まれた神社に足を運んだ。
◆生きた魚ささげ 子孫繁栄を祈る
供物の生きた魚(コイ)をささげる氏子たち
闇の中に灯籠と焚き火、ちょうちんの明かりがぼんやりと浮かぶ境内。数人の氏子がいそいそと準備を進めている。拝殿には11種類の供物が並んでいた。餅や神酒、塩などオーソドックスなものの中で、ひときわ異彩を放っているのが水鉢だ。中を覗き込むと、赤と黒のコイが1匹ずつ泳いでいた。
「なんでか分からんけど、生きた川魚を供えることになっています。祝詞の中にも出てくるから聞いてみて」と、住民が教えてくれた。
正装姿で座した住民の前に一瀬貞明宮司が現れた。静寂に包まれた境内に祝詞と柏手が響き渡る。祝詞からは、里を守ることや家内安全、子孫繁栄、五穀豊穣などを祈願したことが聞き取れた。確かに「生きた川魚」という言葉もあった。
少しだけ白み始めた空の下、神事は約30分で終わった。夜明け前ということや生きた川魚を供える以外、特に変わった点はなかった。
神事後の直会(なおらい)では、供物の炊いた白米と神酒などが振る舞われた。コロナ禍以前は会食し、午前7時からは境内で餅まきも行われていたそう。
「祭りは12月最初の戌(いぬ)の日と決まっている。今年はたまたま土曜日やったけど、平日が祭りの日もある。そのまま仕事に行ったときの眠いこと、眠いこと」と住民が笑った。
一瀬宮司は、「夜も明けない早朝であることなど、知る限り、市内ではかなり珍しい神事」と言う。
住民にくだんの「当番は牛肉を食べてはいけない」という話を尋ねると、「確かにそう」。ただ、なぜいけないのかは定かではなく、「農家が多いし、牛は大切な家族だったからでは」「なんで豚とか鶏はええんかなあ」―などさまざまな声があった。
おそらく神道で身を清める「潔斎」として肉を食べないことが今も残っているのだと思われた。
◆化け物の正体に さまざまな説も
この大歳神社には、もののけにささげられた人身御供、そして、もののけを打ち滅ぼした犬の伝説がある。書物によって内容が少しずつ異なるが、最も古いと考えられ、地域住民の家に伝わる「前川家文書」には村の伝承として次のように書かれている。
「大化年間(645年ごろ)、氏子の中で一年に5人、7人と死者が出たため、これは神の怒りが原因だとして人身御供を行うことを決めた」「くじが当たった家では涙で袖が朽ちるほど嘆き悲しんだ。一心に神に祈り、断食をしたところ、37日目の明け方、まばゆい光とともに童子が現れ、近江(現在の滋賀県)の多賀明神でも人身御供があったが、『鎮平六』という犬が化け物を退治した、と告げた」「そこで村人はこの犬を借りてきて、器に入れておき、化け物が現れたら力を合わせて退治しようと決めた。鎮平六は化け物にとびかかり、そのすきに村人がなぎなたで打ちかかって退治した」「その後、鎮平六は、村で大切に飼われた。亡くなると爪一つを残して亡骸を故郷に送った」「大宝元年(701)まで、本郷村と言っていたが、この時から犬飼村と名を改めた。村ではそれまで申(サル)の日に祭礼をしてきたが、戌の日にも祭礼をするようになった」―。この伝説は日本昔話シリーズにも登場する「しっぺいたろう(はやたろうとも)」と酷似している。しっぺいたろうは静岡県磐田市に伝わる伝説で、長野県駒ケ根市の寺から「悉平太郎」という犬を借りてきて化け物を倒す。このような人身御供と霊犬の伝説は、全国各地に同様の話が伝わっている。犬飼の伝説は、文書によって犬の名前が「新兵太」「鎮兵犬」だったり、化け物の正体がイタチやタヌキ、サルなど、さまざまなバリエーションがある。前川家文書が書かれたのは文治4年(1188)とある。この日付を信じるならば、少なくとも800年以上続く神事ということになる。さらに人身御供をささげた場所や、ささげ終わった後に通夜をした場所が、伝承として今も残っているという。
ちなみに数十年前までは夜中の午前零時から始めていたそう。また、ささげものの魚は、かつてはコノシロだったという。
夜中に始まっていたことは伝説にある通夜を意味しているのかもしれない。また、生きた川魚も、人身御供伝説の名残を感じさせる。
◆お参りの代表 くじで決める
闇の中で灯ろうや提灯の明かりだけが浮かぶ境内
以前は神事の後の直会で、「1年間、牛肉を食べてはいけない」というおきてや、境内の掃除、祭りの準備などをする当番がくじで決められた。白米を盛ったへぎの上にくしゃくしゃに丸めた紙を置く。ひし形の切れ込みが入った紙が「当たり」だ。このくじ引きも、見ようによっては次の人身御供を決めているようにも感じる。急に当番に当たることが負担になっていたため、現在は隣保で当番を回しており、くじ引きで当たるのは、正月に元伊勢(京都府)にお参りする代表者のみだ。
宮総代を務める前川光生さん(68)は、今年も無事に神事を終え、「若いころは、『なんでこんなことするんやろう』と思っていたけれど、今は考えが変わりました。こういう伝統はこれからも継承していかないと、と思っています」とほほ笑んだ。
◆地名から連想 作った伝説?
崇徳天皇が祭られている大歳神社
この神事をさらに深く掘り下げることはできないかと考え、犬飼地区で暮らし、郷土史家でもある上田和夫さん(92)を訪ねた。「興味深い伝説と祭りですね」と問い掛けると、上田さんは豪快に笑いながら言った。
「犬が化け物を倒して村の名前が犬飼に変わったと言われていますが、実は違うんですわ」
上田さんによると、丹波地域の歴史をさまざまな史料をもとにまとめた「丹波史年表」に、奈良時代から平安時代にかけて武臣として名高い「坂上氏」の一人、坂上犬養忌寸(いぬかいのいみき)が、延暦13年(784)、軍功により賜った多紀郡(現・丹波篠山市)の土地を、「犬養矢代」と名付けたという記述がある。
「まず犬飼という地名があった。そして、後の人々が地名から連想して、人身御供と犬の伝説を生みだしたのでしょう。県内の別のまちにも犬飼という地名があり、まったく同じ伝説が残っていますから」
「それよりもね」。上田さんは急に神妙な面持ちになった。「もっと興味深いのは、神社の祭神。大歳神などとともに、なぜか『崇徳(すとく)天皇』も祭られていることです。市内にはほかにも大歳神社がありますが、ここだけなんですよ」
崇徳天皇って確か。「はい。日本の大怨霊です」
3.尾張大国霊神社
出典:『人身御供』と祭―尾張大国霊神社の儺追祭をモデルケースにして ―『日本民俗学』220号(1999)発表論文< http://muguyumi.a.la9.jp/minzoku220.html >
「人身御供」という問題を考える手掛かりとして、尾張大国霊神社(愛知県稲沢市)の儺追祭(なおいまつり)は一つの好例である。というのも、儺追祭は、近世において度々外部の知識人から「人身御供の祭」として記述されており、そうした外部からのレッテルが祭に大きな影響を及ぼし、寛保三(一七四三)年の時の尾張藩主徳川宗勝の命により祭祀改変に至ったからである。本稿では、そうした経緯を、神社側の史料や随筆、また寺社奉行所への上申書などの近世の儺追祭をめぐる豊富な史料から再構成することによって、「人身御供の祭」という語りの行方を追っていく。
そこで、まず本稿で行うのは、近世の儺追祭(なおいまつり)の現場を丹念に再現してみることである。そうした作業によって、「人身御供の祭」というショッキングなイメージで語られる祭がどのようなものなのか、逆に言えば、「人身御供の祭」とは、儺追祭のどのような要素を表現したものなのかをうかがい知ることができるだろう。
近世の儺追祭では、その年の災厄を負わせる「儺負人(なおいにん)」として往還の村人を無差別的に捕えてくるという儺負捕りが行われていた。儺負人には誰がなるのかわからない。儺負人の選択は、儺負人を捕えに行く寄進人の集団が最初に出会った者という偶然性に委ねられていたのである。そこでは槍や刀で武装した寄進人たちが、集団となって儺負人を捕えに向かい、そして運悪く儺負人として捕えられた者は、寄進人たちに殴る蹴るの暴力を受けながら神社まで無理やり連れて行かれるのだ。要するに、近世の儺追祭は、死に至る可能性さえある儺負人に誰がなるのかわからないという村人たちの恐怖と緊張の上に成り立っていたのである。
したがって、「人身御供の祭」というレッテルはこのような恐怖と緊張をともなう祭に付されたものであり、そして、そうしたイメージが、更に、旅人などによる見聞や実際の「恐怖の体験」の証言によって、補強され膨張しながら好奇心旺盛な都会人の間に広まっていったものであると考えられよう。
では、そうした「不名誉な」レッテルを尾張の人々はどのように受けとめていたのだろうか。但し、「尾張の人々」と言っても、個々の祭への関わり方によっても、また尾張藩という公権力との関わり方によってもその反応や対応は異なるはずだ。本稿では、それを、尾張藩の国学者や神道家、また儒学者などの知識人と、儺追祭を主宰し、執行する尾張大国霊神社の神官、そして、実際の祭の担い手である村人たちの三つのポジションから検討し、それによって、結果的にそれが祭の実践の変更を余儀なくさせていくプロセスを辿っていく。
藩内の秩序を維持し、その運営を円滑にはこぶべく公権力に助言する立場にある知識人たちにとって、「人身御供の祭」というレッテルは許すまじき汚名であり、払拭すべき対象であったと考えられる。したがって、当初は、いわばエスノセントリズム的な文脈の中で、こうしたレッテルに対し感情的な拒絶反応が示されるが、儺追祭での暴力が藩内の治安上の取り締まり対象と目されるようになると、そうした公権力による祭の統制と支配を正当化し、補強するために逆にその「人身御供の祭」というレッテルが巧みに利用されるようになる。つまり、外部の知識人によって貼られた「人身御供の祭」というレッテルは、儺追祭がいかに非道徳的な祭であり、ゆえに改変されるべき祭であるかを説得的に示すレトリックとして活用されたのだ。
また、一方の尾張大国霊神社の神官たちは、当初「人身御供」のレッテルに全く無関心であったが、藩による祭への介入が露骨に行われ、祭祀の変更が余儀なくされるのにともなって、しだいに祭の由緒を説明する文脈の中に否定的に取り込んでいくようになる。なぜなら、儺追祭存続の危機に対応して儺追祭を歴史的、国家的に意味付けることが神官たちにとっての切迫した課題となったことで、そうした儺追祭の合理的な説明を裏面から補強するものとして、「人身御供」説の否定が必要になったからである。
このように外部の知識人から貼られた「人身御供の祭」というレッテルは、尾張藩の知識人や神官の様々な思惑の中で、ある場面では否定され、またある場面では利用されることによって、結果的に、公権力の介入による祭祀改変という事態の発生を引き起こす要因となったことがわかるだろう。
しかし、ここで更に重要なのは、このような祭の大きな変貌の中で、その担い手である村人の間に、「人身御供の祭」という語りが、自分たちの祭の由来を説明する、いわば「自己の語り」として受容されていくことをどのように理解すべきか、ということである。私は、その背景を祭祀改変による祭の現場の変容に求めたい。というのも、寛保三年の祭祀改変の命とは、儺負人を無差別的に捕えてくる儺負捕りを禁止するものであり、以降は、一貫文を支払って儺負人となる者を雇うようになったからである。つまり、祭祀改変によって、祭は、予定調和的な結末を常にむかえる演劇的要素の強いものへと変貌したのであり、そこには、自分に暴力の矛先が向くかもしれないという、それまでの祭を成り立たせていた恐怖や緊張関係はもはや希薄になっているのである。とすれば、「人身御供」の語りがそうした中で受容されたのは、それが希薄化した祭の暴力性を補完するものであったからだと考えることはできないだろうか。すなわち、「自己の語り」として受容された「人身御供」の語りとは、祭における緊張関係を再現し、新たな暴力を誘発する想像上の装置であったのだ、と。
4.人身御供の儀式があった坂戸神社 袖ケ浦市坂戸市場
出典:Ameba< https://ameblo.jp/books-fu-sa/entry-12635989624.html >
県内で公式に人身御供という儀式があったと伝えているのは、いまのところ当神社のみです。[・・・]坂戸神社の人身御供の儀式は里見義尭が止めるまで続いていたといいますから、1500年代の戦国時代まで続いていたことになります。
この人身御供の儀式では実際に人が殺されていたわけではありません。籤で選ばれた人贄は大きな俎板の上にのせられま。すが、神官は刀で切り裂く真似をして神に供えただけであったといいます。ただし御供にされた者は必ず3年以内に死んだと言い伝えられています。
ここで疑問に思うのは、何に対して生贄にされていたのかという事です。他の伝承では「鬼」や「大蛇」などの畏怖する対象がありました。
でも坂戸神社にはそんな畏怖する対象がいたというような話は残っていません。ただ人身御供があったということしか伝わっていないのです。
畏怖する対象の「怒り」や「祟り」を鎮めるために生贄を捧げるのが通常のパターンなのですが、坂戸の場合はその対象に関する事がポッカリと抜けてしまっています。
5.人柱(ひとばしら)
(出典:ウィキペディア「人身御供」の一部分)
「日本では土木工事現場で犠牲となった労働者をしばしば人柱と言うが、これは元々、重機もなく自然を切り開くことが困難だった時代、橋や堤防の普請、城の築城などに際し、施工から完成後の永きに渡って崩落や決壊がないことを祈願し、生贄として人間を生き埋めにしたことから来ている。『日本書紀』に登場する茨田堤(大阪府)などが有名。ただし、人柱は神を鎮める供物ではなく、人身御供とは異なるという見方もある。神話学者の高木敏雄は人身御供と人柱の混同を指摘している(注5)。高木によれば、人柱は神に捧げるものではないため、神に捧げるという意味で差し出される生贄が、人身御供ということになる。なお、南方熊楠の「南方閑話」(注6)では神に捧げられる生贄が人柱として紹介されている。」
「日本の人身御供の研究」(出典:ウィキペディア「人身御供」の一部分)「人身御供の分析・分類
松村武雄や神話学者の高木敏雄らは、人身御供およびその伝説について、著書の中で分類を試みている。主に、1. どの様な人物を生け贄にするか 2. 何に対して捧げられるか によって分けられる。
誰を生贄にするか
ーー隻眼の人身御供
近江国(現在の滋賀県)伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる(注15)。柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。柳田國男の「日本の伝説」(注16) では、神が二つ目を持った者より一つ目を好み、一つ目の方が神と一段親しくなれると書いており、神の贄となる魚を通常の魚と区別するために片目にすることが紹介されている。
ーー巫女・旅人の人身御供(部分引用)
中山太郎は著書「日本巫女史」の中で、巫女や旅人が人身御供となったと考えられる事例をあげている。(注19)中村は、巫女が人身御供になる理由として、「それが神を和める聖職に居った為であることは言うまでもない」と述べている。 また、旅人を人身御供とした神事も各地にあったが、中山は例として、尾張國府宮の直會祭を挙げている。
ーー男子の人身御供
多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が目立つ。しかし、中山や高木は生贄に男子の場合も紹介している。( 注20)
何に生贄を捧げるか
「日本伝説の研究」では、自然現象の脅威に対する人々の崇拝の念と想像により、猛獣が人を捕ることを「神が人身御供を要求するもの」と考えられた、と書かれている(注21)。
――水田と人身御供
松村武雄は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。(以下略)
引用文中の注釈
注5.高木敏夫「日本神話伝説の研究」530頁「時々人柱として川の神に人身御供に捧げられる」
注6.南方熊楠「南方閑話」坂本書店出版部1926年3月20日発行61頁‐96頁
注15. 『新編 柳田國男集 第七巻』筑摩書房1978年p.251 - p.252
注16.柳田國男「日本の伝説」三国書房 昭和15年1940年12月20日95頁-96頁
注19.大岡山書店1930年3月20日発行。247頁-250頁「第二節 人身御供となった巫女」
注20.中山太郎「日本巫女史」251頁、高木敏雄「日本神話伝説の研究」533頁-534頁
注21.藤澤衛彦「日本伝説の研究 第一巻」大鐙閣 大正15年1926年7月5日発行序2頁―3頁
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著者紹介
寺内孝(ペンネーム “比良奥山” ヒラオウザン)は在野の研究者です。19世紀イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの研究と聖書の研究をしています。なぜディケンズと聖書か。英国はキリスト教を国教とする国家であり、チュールズ・ディケンズは英国国教会(Anglican Church)の真摯な国教徒だったからです。彼は毎日、神のみ前でこうべを垂れ、朝夕の祈りを欠かしませんでした。イギリス人を知るには聖書を知る必要があります。
著書
『英国一周鉄道知的旅日記』ブックコム、2008.
『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』 あぽろん社、1996.
『簡素への誘い』日本図書刊行会、2001.
『神の成長――古代ユダヤ教とキリスト教の神の研究』あぽろん社、2002. 絶版
『キリスト教の発生―イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』奥山舎、新装版2021.
Revivalism and Conversion Literature:From Wesley to Dickens. Hon'sペンギン、2005.
Charls Dickens: his Last 13 Years. ブックコム、2011.
復刻
Stonehouse, J. H., ed. Catalogue of the Library of Charles Dickens from Gadshill …Catalogue of the Library of W. M. Thackeray… (London: Piccadilly Fountain Press, 1935). Reprinted in October 2003 by Takashi TERAUCHI.
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