新説・草津下笠城の築城年

 滋賀県草津市下笠(しもがさ)に中世後期、下笠城が存在した。その築城年について、川端善二著『ふるさと笠縫』(平成22年)(以後、本書は”川端“と略記)は、「長享元年(1487年)[・・・]の頃であろうと思われます。」川端の著書が、下笠城築城年に関する唯一の信頼ある資料と思っていたが、最近、他に史料が存することがわかりました。
 下笠に老杉神社(おいすぎー)があり、神主家の山元家に伝わる文書中に「神事記録」があります。その中に「城」の記録があることがわかったのです。この史料によりますと、下笠城の築城年は川端説よりも100年ほど前の「1389年ごろ」と思われます。以下、そのことを報告します。

 上述の「神事記録」については、宇野日出生の秀逸な論考『村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に』(国立歴史民族博物館研究報告 第38集 2003年3月)で詳細に報告されています(以下、本論考は“宇野”と略記)

 宇野によると、

「『神事記録』は、老杉神社とその氏人の祭祀祭礼を記録しているが、年中行事の次第をあまねく網羅したものではない。しかし康応(こうおう)元年二月[1389年2月-筆者注;元号のルビも筆者、以下同]の衆議に始まり、応永(おうえい)十二年(一四〇五)三月時の確認事項を経て、文安四年(一四四七)に集成されている。」(宇野 224頁上下段)。
「神事記録」は、「本来は冊子であったものを後世に一丁づつ開いて巻子[「かんす」と読み、巻子本は巻物ともいう―筆者注]仕立てにしたものであるが、近年破損状況を鑑みて、一丁づつ裏打ちをした形状をもって保存されている。」(宇野224頁上段)

宇野224頁上下段/宇野224頁上段

 「神事記録」は現在、下の写真のように巻子本(巻物)になっている。この写真で、文安四年(一四四七)に集成された史料の破損状態が理解される。

神事目録
神事目録
神事目録

宇野は、高論『村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に』で、巻子本の(第一紙)から(第十五紙)までを翻刻・掲載し、それぞれの現物を論文末尾の「付録」で写真掲載している。その写真をみると破損状態が一目瞭然である。宇野の論考は次のURLで得られる
(file:///C:/Users/ttaka/Downloads/kenkyuhokoku_098_09%20(3).pdf)。なお「『神事記録』は、現在栗東歴史民俗博物館に寄託されている。」(宇野234
註6)。上掲の写真3枚は、筆者が同博物館で得たものである。記して謝意を表します。

  文安四年(一四四七)に集成された「神事記録」のうち、宇野が翻刻した十五紙を読めば、本稿では(第一紙)から(第十紙)までを取り上げるだけで十分である。本稿の目的は下笠城の築城時期を闡明することにあるからです。ただしそれを極めるには、追杉神社の頭屋行事(トウヤ ギョウジ)の開始年も究明する必要がある。両者は密接に関連しあっているからです。

老杉神社の頭屋行事とは

頭屋行事とは、老杉神社の祭礼行事のことで、そのうちでも家内安全・五穀豊穣を祈る毎年2月のエトエト祭りと5月のサンヤレ踊りはとくに有名です。サンヤレ踊りは中世後期に流行した風流踊りの流れを汲むといわれており、下笠のサンヤレ踊りは、その衣装の鮮やかさも有名です。サンヤレという言葉も「幸あれ」が転じた言葉といわれ、見ると幸せが訪れるともいわれています。昭和62年に県の無形民俗文化財に指定され、平成30年には日本遺産にも認定されました。

出典はここクリック

老杉神社の頭屋行事はいつから?

――頭屋行事は、老杉神社を含む八か村の座から構成されている(注1)

「下笠の頭屋行事は、老杉神社を含んだ八か村の座から構成されている。」(宇野222頁下段)/ 「座を『村』と呼称することは、近江においては類例が多い。」(宇野234註4)
「八か村とは、殿村(とののむら)・細男村(ほそおとこむら)・王之村(おうのむら)・獅子村(ししのむら)・鉾之村(ほこのむら)・天王村(てんのうむら)・十禅師村(じゅうぜんじむら)・今村(いまむら)をさし、この順列をもって毎年一か村が頭屋行事をつとめ」(宇野222頁下段)、「現在においても年番で神事が厳修されている。各村には『ホンオトナ(本老長)・ワキオトナ(脇老長)・ノゾキ』というオトナ衆が神事の中核を担っている。なかでもホンオトナ(本老長)は、八年に一度回ってくる行事の頭屋をつとめる。[・・・]八年に一度しか回ってこない時に無事頭屋をつとめるということは、大変名誉なこととされている。」(宇野224頁上段)

宇野222頁下段/宇野224頁上段

 頭屋行事の始まりを下記のように1380年代と推定すれば、じつに640年ほどの伝統を誇る神事である。神事の継承維持が容易でないことは、宇野が記述する「❸村の行事  (1)頭屋行事」(230頁上段‐231下段)と、論文末尾の「付録」に掲げる「頭屋行事写真」をみれば窺い知れる。

――(初期の)頭屋行事の開始は室町時代の1380年代だろう
 重複するが、上述のように「神事記録」は「康応元年二月の衆議に始まり、応永十二年(一四〇五)三月時の確認事項を経て、文安四年(一四四七)に集成され」た。
 宇野が翻刻して掲げる「神事記録」は十五紙からなり、このうち(第一紙)から(第八紙)までは破損により元号不明である。(第九紙)は「康応元年二月廿五日」で始まり、6行あとに「一、三月三日御祭礼、御幸次第八村ハ人出仕執事/(改行)馬上殿行事、各出仕村ニ酒肴」(宇野227頁下段)、さらにこの6行あとに「次行事 一番本村 二番細男村 三番王村 四番獅子村 五番御幣村 六番駕輿丁村 七番駕輿丁村 八番今村」とある。「八村」(やむら)という表現は(第五紙)と(第十紙)にもある。
 これらの史料が証していることは、「八村」(八か村)の頭屋行事の初期の形態は遅くとも「康応元年」(1389)に斎行されていたということである。ゆえに頭屋行事の始まりを1380年代とみておこう。

――八村に殿が現れたのは1380年代だろう
 「神事記録」には「殿」への言及もある。(第四紙)に「一、三月一日、馬上殿上笠天神エ郷参[・・・]又ノトノ散米一升、馬上殿ノ請ヲヤ」(注2)、(第九紙)は「康応元年二月廿五日」で始まり、6行あとに「一、三月三日御祭礼、御幸次第八村ハ人出仕執事/(改行)馬上殿行事、各出仕村ニ酒肴」、さらに末尾に「執事二人次馬上殿ノ/(改行)馬の口ヲトル」。(第十紙)に「馬場ニテ儀式引き馬ノ口ヲトル、執事二人馬上殿ノ馬ノ口ヲ/(改行)トル」とある。
 上記(第四紙)と(第十紙)には元号記載はないが、(第九紙)に「康応元年」(1389)とあるから、1389年には「八村」に殿さまが君臨していたことを証している。さらに(第十紙)に「馬場ニテ儀式」とあり、下笠城の馬場はすでに存在していたとも記している。なお、この馬場は老杉神社の一の鳥居と二の鳥居の間にありました(追杉神社の宮司さんの談話)。さらに老杉神社の北端にもありました。この「北端」は、現在、国道1号線とメロン街道とを結ぶ「淡海くさつ通り」が走っていますが、道路新設の際、追杉神社の境内の一部が収容されることになり、道路建設前、発掘調査すると「馬場」の遺跡が見つかっています(追杉神社の宮司さんの談話)。この宮司さんの談話から、筆者は、馬場は一の鳥居を抜け、二の鳥居前で東西に分かれて老杉神社を取り囲む形(現在、老杉神社の東側の道路は広いが、西側の道路は狭い)で存在したのではないかと考えています。
 「殿」さまと「馬場」があれば、領主屋敷(城郭)が存在したと見てよいだろう。上の史料は、これらがすでに「康応元年」(1389)に存在していたと証している。ゆえに、殿と、殿の屋敷(城郭)は1380年代に現れていたとみておこう。

――「殿村」は八村の中の「最上位」
 八か村の「特異な命名については謎が多い。まず殿村は、中世武家社会の被官層に相当する『殿原衆』に語源が求められ、その地域の有力者層の地という意味合いを有することばと考えてよいであろう。史料には『本村』『本之村』とも表記され、八村の順列も先頭であるところから、座のなかでも中心的役割りを果たした立場にあったのではないだろうか。ちなみに頭屋行事において調製された神饌が本殿から撤下(てっか)された時、殿村には『本殿中ノ御膳』が与えられる。神事における拝殿での座格も最上位である。」(宇野229頁下段)八村は、殿さまの一族と村人とで構成されていたということである。
 宇野の「八村変遷一覧」(223頁上段)によると、「殿村」という名称が現れるのは「平成8年(1996)」である。それ以前の、「文安4年(1447)」は「本村」、「天正15年(1587)」は「□(破損・本カ)村」、「享保19年(1734)」は「本之村」である。この間の1568年、下笠城は焼失しているから、下笠城主が君臨していた間は「本村」(「本之村」)が通称であったと見てよいだろう。「殿村」という名称は、頭屋行事を重ねるうちに定着していったということか。

――2人の殿さまの名前が
 宇野の論考に下笠城主の名前が登場する。「お旅所の別膳は昔は下笠城主の中将権左衛門に撤下されたが、今はお旅所の崇敬者へ。」(宇野233頁上段)引用文中の「中将権左衛門」はいつの人か特定できないが、1つの推測は、下笠城主の初代かもしれないということである。
 つぎに名前が現れるのは下笠美濃守源高賀である。この人は老杉神社の本殿を造営した殿さまで、「老杉神社本殿」の「棟木」に「享徳元年(1452年)」・「下笠美濃守源高賀奉建」の記述がある(注3)。1452年に在位していた人であるから、もしこの殿さまを初代と見れば、1389年ごろから1452年(この後何年間は在位)まで約60年余在位していたことになる。あり得ないことではないが、その年数は少し長すぎるという見解に立てば、中将権左衛門を初代、下笠美濃守源高賀を2代とみる見方も成り立つであろう。
 下笠美濃守源高賀にかかわり、もう一件指摘したいことは、彼は老杉神社の本殿を造営できるだけの財力と権力を有していたということであり、そのような人物が城郭を持たなかったとは考えにくいということである。
 議論を「神事目録」に戻そう。(第十紙)に「応永十二年」の記載が、(第十一紙)に「文安四年」「寛正元年」「文明十四年」が、(第十二紙)に「明応(めいおう)七年」、(第十三紙)に「長享弐年」・「長享元年」・「延徳参年」、(第十四紙)に「明応」、(第十五紙)に「永正八年」・「永正九年」とある。
 宇野は「文安四年以降について」こう記す。

寛正元年(一四六〇)・文明十四年(一四八二)・長享二年(一四八八)・延徳三年(一四九一)・明応七年(一四九八)・永正八年(一五一一)・永正九年(一五一二)の各段階の記事が追録されているが、著しい破損により断簡状態となっている箇所もあり、全体としての史料のつながりが把握しづらい。(宇野224頁下段)

宇野224頁下段

そして(第十五紙)の記述を終えたあと、

この『神事記録』は、前部と後部が破損および断簡の状況にあるところから、前欠・後欠の史料である。したがって、史料内容の相互関係および時代的推移を念頭におきながら解読する必要がある。特に後部は追記された箇所で、錯簡と考えられる部分もある。伝世経過のなかで、著しく原形を失ったものと思われる。(宇野229頁上下段)

宇野229頁上下段

「文安四年以降」の文書のなかに「下笠城主の中将権左衛門」が言及されているのであろうか。

――1380年代とはどういう時代だったのか
 さきに頭屋行事と下笠城の出現は1380年代と推定した。1380年代といえば、室町幕府第3代将軍足利義満(位:応安元年・1369-応永元年・1395)の全盛時代である。観阿弥・世阿弥父子が1374年、今熊野神社で猿楽上演し、義満は庇護している。そして義満は、1378年、花の御所完成、1392年南朝・後亀山天皇と北朝・後小松天皇とを和睦に導き、南北朝合一達成、1397(1399?)年、北山に金閣寺建立、北山文化満開、1401(1404?)年、中国・民との国交樹立、勘合貿易開始する。京都は賑わい、活気に満ち、隆盛していたのだ。その勢威が近江に伝播するのにそれほどの時間を要しなかったであろう。近江の片田舎、八村に猿楽が伝わっている。「神事目録」の(第五紙)に「一、社頭掃除ノ事、所ノ氏人出仕ノ毎度、又其外猿楽」と、(第七紙)に「一臨時ノ樽酒肴同之坂水猿楽ノ時也」とある。戦いのない平和な時代の恩恵といえるだろう・・・。それがどうだ、およそ90年後の1467年、京都で応仁の乱が発生し、世は下剋上の戦国時代へ突入。人々は武器を取りあい殺戮しあった。そのさなかの1566年、下笠城は青地城主に滅ぼされている。両者はともに六角の被官だったが、青地城主が信長派に転じていたのだ。
 それから2年後の1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始し、戦国時代は終焉する・・・。人間はもっと賢明になるべきだろう。武器を持つな!

 以上、本稿で頭屋行事の開始年と下笠城の築城年を推定できたと思っている。しかし心残りな事柄がある。「下笠城主の中将権左衛門」は「神事目録」に出ているのか、出ているとすればどこでなのか、「神事目録」に「下笠」という名が現れるのか。これらの諸点を突き止めたいと願っているが、残念ながら筆者にはその時間的余裕がない。後ろ髪を引かれる思いである。
 筆者は、川端氏の真率な郷土愛と卓抜な郷土史研究に深甚の敬意を惜しまない者でありますが、そうでありながらも、つぎの3点で川端氏と見解を異にしています。すなわち、彼は、1.下笠氏の「初代」を下笠美濃守實親(下笠左衛門尉実親)と見る点(川端41,57、60、61頁)、2.築城年を「長享元年(1487年)」の「頃」と見る点、3.「下笠氏が公認されたのは實近の代から」と見る点においてです。
 川端氏は原則的に「下笠氏系図」に立脚しておられますが、筆者はこの系図にかかわり2つの点で探索したく思っている者の一人です。1.系図の作成者は誰か、2.系図の作成年はいつか、という点です。理由は、1.系図の作成者は「下笠城主の中将権左衛門」、「下笠美濃守源高賀」、「下笠美濃守」(守山合戦で擒となり自死)の3人について未知であること、2.系図に、「下笠五カ村を足利将軍」より「賜った」人物を、「下笠美濃守實親または下笠左衛門尉実親」(川端41、57,60,61頁)ではなく、「下笠伊豫守實親」と書いていること(川端58頁「写真41」)、3.天文15年(1546)の「信濃守頼実討死」「家臣・小寺九郎兵衛討死」、「家臣・小寺兵庫介討死」の3人がどの戦いで「討死」したかについて未知であること、にあります。
 少なからぬ人が、拙論に反論を試みられることはあり得ることと覚悟しています。静かに待機させて頂きます。諸見解を出し合い、真実を掘り当てるのが学問と心得ています。


用語解説
頭屋:
 「とう‐や【頭屋/当屋】」とは「神社の祭礼にあたり、神事や行事の主宰者となる家。また、その家の主人。古くは世襲で、のち当番制になった。」コトバンク
頭屋行事:「頭屋行事は、『オコナイ』『エトエト祭り』とも呼ばれ」る(宇野230上段)。
散米: 「散米(さんまい)は、「神事の習俗として邪気を払うためにまき散らす米、または神前に供える米を指します。打ち撒きや神供とも呼ばれます。」(AIによる概要)
殿原: 「との‐ばら【殿原】〘 名詞 〙 ( 「ばら」は複数を表わす接尾語 )」 ①  高貴な方々。殿たち。 ②  武士などの男子を敬っていう語。 ③ 中世、荘園村落内の一般農民と荘官の間に位置する階層の一つ。④⑤は省略(出典「コトバンク」)
神饌: 「神饌(しんせん)とは、神道において神様に捧げる食事や供え物を指します。」(出典「「AI による概要」)
お旅所: 「お旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼の際に神輿を本社から移し、一時的に安置する場所です。」(AI による概要) 


注1.下笠町では宮座のことを「村」と呼んでおり、全体を総称して「八村(やむら)」という。つまりそれぞれの座は今村とか殿村というように、村の名をつけてはいるが、地域区分としての村とは全く関係なく、座の構成員は下笠町内の各小字に分散している。したがって、隣の家同志でも異なる村(座)に属している場合が多い。(『草津市史 第一巻]昭和56年、663頁) 
注2
.用文中の「上笠天神」jは老杉神社を意味するようだ。宇野230頁上段に「『神事記録』によると上笠天神(老杉神社)では祭礼時に(後略)」とある。
注3.出典:川端41、57、89-90頁;1草津史688-89;「草津市:老杉神社」(URLはここクリック);「滋賀県神社庁」(https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=944)。
参考:宝徳4年7月25日に「享徳」に改元されています。従って、宝徳4年は享徳元年でもあります(ウィキペディア「宝徳」参照)。川端氏に「宝徳4年(1452年)」(57頁)、「享徳元年(1452年)」(41頁)があります。なお、1草津史 688頁に、縦書きで「宝徳」の下に「二」が二つ並列されていますが、なぜ「四」と示されないのか分かりません。

付記
 2024年10月3日、筆者は老杉神社の「神事目録」を視認したく、栗東歴史民俗博物館を訪問しました。副館長・学芸員、中川敦之さんが応対してくださり、「神事目録」の写真も撮らせて下さいました。「神事目録」を実見させてもらっています時、この「目録」を翻刻した学者がいます、と言いながら、当方が持参した宇野日出生著『村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に』を示しますと、その著者は栗東市下戸山(シモトヤマ)の小槻大社(オツキタイシャ)の宮司さんです、と教わりました。大変驚きました。地元にこのような秀逸な碩学がおられることに、です。なお、宇野日出生宮司は、「京都市歴史資料館、国立歴史民俗博物館共同研究員」(宇野235上段)でありますとともに、2022年5月以来、草津市小汐井神社(オシオイ―)の宮司を兼ねておられます。 

栗東歴史民俗博物館

栗東歴史民俗博物館

出典:https://www.google.com/search?q=%E6%A0%97%E6%9D%B1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&oq=%E6%A0%97%E6%9D%B1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyDggAEEUYJxg5GIAEGIoFMgYIARAjGCcyBwgCEAAYgAQyBwgDEAAYgAQyBggEEAAYHjIGCAUQABgeMgYIBhAAGB4yCAgHEAAYDxgeMggICBAAGA8YHjIICAkQABgPGB7SAQoxNTAyMWowajE1qAIIsAIB&sourceid=chrome&ie=UTF-8

小槻大社

小槻大社

出典:https://www.ritto-kanko.com/spot/detail/?id=71

小汐井神社

小汐井神社

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宇野日出生宮司の著書
中嶋 誠一、宇野 日出生・共著『神々の酒肴湖国の神饌』1999.
宇野 日出生著『八瀬童子、歴史と文化』2007.
椙山 林継、 宇野 日出生・共著『神社継承の制度史(神社史料会叢書5)2009.
出井 豊二、 宇野 日出生・共著『京都町屋の老舗』2014.
宇野 日出生著『京都 実相院門跡』2016.
橋本政宣、 宇野日出生・共著『賀茂信仰の歴史と文化(神社史料研究会叢書VI)』2020.
宇野 日出生著『近江の神道文化』サンライズ出版、2020.


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著者紹介
寺内孝(ペンネーム “比良奥山” ヒラオウザン)は在野の研究者です。19世紀イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの研究と聖書の研究をしています。なぜディケンズと聖書か。英国はキリスト教を国教とする国家であり、チュールズ・ディケンズは英国国教会(Anglican Church)の真摯な国教徒だったからです。彼は毎日、神のみ前でこうべを垂れ、朝夕の祈りを欠かしませんでした。イギリス人を知るには聖書を知る必要があります。
著書
『英国一周鉄道知的旅日記』ブックコム、2008.
『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』 あぽろん社、1996.
『簡素への誘い』日本図書刊行会、2001.
『神の成長――古代ユダヤ教とキリスト教の神の研究』あぽろん社、2002. 絶版
『キリスト教の発生―イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』奥山舎、新装版2021.
Revivalism and Conversion Literature:From Wesley to Dickens.  Hon'sペンギン、2005. 
Charls Dickens: his Last 13 Years. ブックコム、2011.
復刻
Stonehouse, J. H., ed. Catalogue of the Library of Charles Dickens from Gadshill …Catalogue of the Library of W. M. Thackeray… (London: Piccadilly Fountain Press, 1935). Reprinted in October 2003 by Takashi TERAUCHI. 
論文等の業績はホームページ(ここをクリック)
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寺内孝
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