近江・守山合戦にかかわる史料の異同
室町時代中期の8代将軍足利義政(位1449-1474)時代の応仁元年(1467)、京で応仁の乱(1467-1477)が勃発しました。東軍の大将は細川勝元、西軍の大将は山名宗全です。戦いは約11年間も続きましたが、文明5年(1473)に終息しました。同年3月に山名宗全が、同年5月に細川勝元がそれぞれ没したあと、山名宗全の孫・山名持豊と細川勝元の子・細川政元との間で和睦が成立したのです。
六角高頼(幼名・亀寿、亀寿丸)、康正2年(1456)10月近江守護に
六角高頼(タカヨリ)は、康正(コウショウ)2年(1456)10月2日、父六角久頼の憤死(自害とも)により、従兄・六角政堯(マサタカ)を後見人にして嫡子・六角高頼が家督相続し、近江守護を継ぎました。
応仁の乱で六角家、東軍(六角政堯)と西軍(六角高頼)に分裂
応仁の乱で六角氏も東西に分裂します。六角高頼(幼名・亀寿丸)が西軍に属したのに対し、従兄・六角政堯は幕府方の東軍に招かれます。
六角政堯、応仁2年(1468)12月以前に近江守護に
そして六角政堯は、同族の京極勝秀と組んで、応仁元年(1467)の「十一月八日」(『栗東の歴史』第1巻、平成6年、404頁)、六角氏の本拠地観音寺城を陥落させます。この功により、「幕府(東軍)は、おそくとも応仁二年(一四六八)十二月以前には、六角政堯を近江守護に任命しており(『円満院文書』)、観音寺城の落城を境として、政堯は名実ともに近江の支配者としての地位を再度獲得したといえよう。」(『栗東の歴史』第1巻、404-05頁)(1草津史587も参照)。
守山合戦で下笠氏は東軍か西軍か
応仁二年(1468)11月、近江の守山で守山合戦がありました。この合戦にかかわり、草津市史は「馬淵某、下笠某」などは東軍の六角政堯の側に属したと記すのに対し、『近江栗太郡志』は「馬淵某、下笠某」などは西軍の六角高頼(幼名亀寿丸)に属したと記録しています。
『近江栗太郡志』に依拠した2つの史料、「勝部付近における戦さの年表」と『栗東の歴史』があります。これらは当然、原史料『近江栗太郡志』の記述に従っています。
本稿では史料間の異同を提示し、どちらの説に依存すべきかを探りたいと思います。
1.草津市史
応仁元年(1467)の「末から翌年春にかけて」、西軍・六角高頼(亀寿丸)の軍は「観音寺城を奪回することに成功」します(1草津史588)。加えて、「応仁二年(1468)」の「四月下旬には六角政堯が本拠としていた武佐(むさ)の長光寺城」を「陥落」させ、「守山城」(守山市森山町)も「配下に収め」ます(1草津史588-89)(文末の「注1」参照を)。
しかし応仁二年(1468)11月、
高頼被官の守る守山城を、六角政堯の部下一、〇〇〇人と東軍に属する国人(こくじん)(在地領主)三、〇〇〇人(この数はやや誇張があろう)がはさみ撃ちにし、『民家大焼、城乃(すなは)ち潰(つい)ゆ矣』という西軍の大敗北に終わった(注2)。この戦闘を京都の伏見に居て客僧から伝聞した東福寺の禅僧雲泉大極はその日記に、
馬淵某、下笠某、奈良崎某等一十七人、擒[トリコ―筆者注]に就いて自殺すと云ふ
と記している(『碧山日録』応仁二年一一月一〇日条)。ここで注目されるのは、栗太郡下笠(草津市下笠町)の国人下笠氏が、東軍六角政堯に属して捕縛されていることで、黒川氏・望月氏などの甲賀武士と異なり、平野部の国人の中には京極氏ないしは政堯に属する者も多かったと推定される。
なお、『近江栗太郡志』は「下笠某」を「下笠美濃守」と記す(2栗太183)。
2.『近江栗太郡志』
『近江栗太郡志』は「文明三年[1471年―筆者注]九月の室町家御内書案」としてこう記す。
下笠氏は下笠村に住し氏を某す、文明三年九月の室町家御内書案に下笠美濃守あり、佐々木高賴山内政綱討伐の命を受く、文書左の如し(注3)。
龜壽並宮内大輔以下敵退治事被仰付佐々木四郎政堯訖、早馳參御方屬彼手可抽戰功候也、
文明三
九月十六日
目賀田次郎右衛門殿
下笠美濃守殿
高野瀨與四郎殿
小河丹後守殿
山崎中務凾殿
社会の秩序亂れし應仁文明亂は佐々木氏にも同族相爭ふに至りしかば、將軍足利義政は佐々木政堯の爲に佐々木高賴及其執權山内正綱を征伐せんとし此誘因狀を發したるものなるが、當時下笠氏は高賴に属し應仁二年守山合戦に擒となり自殺したり、然れども下笠某とありて名を記さず、前記文書の美濃守は下笠宗家なるべし、右の御内書を受けしも下笠氏は依然高賴に忠勤を盡くしたり
上記引用文中の「山内政綱」は「六角政綱」のこと(ウィキ「山内政綱」)、「龜壽」(亀寿、亀寿丸)は佐々木高賴(六角高頼)のこと、「宮内大輔」は「山内政綱」=「六角政綱」のこと(ウィキ「山内政綱」)、「佐々木四郎政堯」は「佐々木政堯」「六角政堯」のこと、「佐々木高賴」は「六角高頼」「亀寿、亀寿丸」のことです。
上記引用にあるように、「當時下笠氏は高賴に属し」とあります。これに対して、草津市史では上述のように、「国人下笠氏が、東軍六角政堯に属して」とあります。これら2つの史料は「下笠氏」の所属にかかわり、まったく反対のことを言っています。どちらの史料に依存するかとなれば、「近江栗太郡志 巻貳 滋賀県栗太郡役所大正15年刊」よりも、多くの文献を渉猟し出典を明示しながら論じている『草津市史』(昭和56年)の方を採りたいと思います。
3.「勝部付近における戦さの年表」
ネット上に「勝部付近における戦さの年表」があります。本「年表」は「近江栗太郡誌」に依拠していますので、「馬淵、下笠、楢崎等十七人」は、下記のように「高頼軍の将」と記しています。
1468年(応仁2) 12月5日 東軍は、六角政堯(高頼の従兄)が西軍の六角高頼の拠る守山城を攻略し、京極持清の兵が高頼の観音寺城を陥落させる。[・・・]応仁乱にも、六角高頼は此の要衝に城郭を構えて兵備を修む。京極持清の兵二千餘人と六角政尭の兵一千餘人は、高頼の城を前後より挟撃す。両軍血戦終日、攻圍軍は風上に火を放ち民家を焼く。焔炎天に冲し[「冲し チュウシ」は「空高く上がり」の意―筆者注]城遂に潰ゆ。高頼軍の将、馬淵、下笠、楢崎等十七人擒となり自殺す。(近江栗太郡誌)
○ この守山合戦(1467-1477)の戦火をうけて、民家大焼し、光明寺(守山・真言)、大将軍神社(古高)など多くの社寺も焼失と伝える。勝部神社境内も戦場となり、兵馬のため神殿大破、神田・神宝を散失する。
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なお、上記の引用文は合戦の日付を「1468年(応仁2) 12月5日」としていますが、草津市史は「応仁二年(1468)11月」です。この程度の異同は事の性質上不問に付してよいと思われます。もう一件、上掲の記録に「守山合戦(1467-1477)」とありますが、これにつきましては筆者は意見をさしはさむ立場にありません。
4.『栗東の歴史』
『栗東の歴史』では
高頼勢の守護する守山(もりやま)城(守山市)が、二千余人の京極勢と千人の政堯勢という圧倒的な大軍の前に落ちた(『碧山日録』)。この敗戦で高頼方では馬淵・下笠(しもがさ)・楢崎(ならざき)といった武将一七人が自刃して果てたという(『同』)。
本書も「馬淵・下笠」らを「高頼方」としていますから、『草津市史』とは見解を異にしています。
注釈
注1.「1草津史」は「草津市史編さん委員会編『草津市史 第一巻』草津市役所、昭和56年」の略語です。
注2.栗東市編さん委員会編『栗東の歴史』第1巻(平成6年、404頁)では「高頼勢の守護する守山(もりやま)城(守山市)が、二千余人の京極勢と千人の政堯勢という圧倒的な大軍の前に落ちた(『碧山日録』)」とあります。
なお、『民家大焼、城乃(すなは)ち潰(つい)ゆ矣』における「矣」は「イ」と読み、「漢文の助字。句の最後につけて断定・推量・詠嘆などを表す。…である。…だなあ。…だろう。」(goo辞書) 引用文中の「一十七人」は「十七人」と同。
注3.引用文の冒頭文「下笠氏は下笠村に住し氏を某す」における「某す」は「他人の姓をいつわって名乗ること」を意味する。
著者紹介
寺内孝(ペンネーム “比良奥山” ヒラオウザン)は在野の研究者です。19世紀イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの研究と聖書の研究をしています。なぜディケンズと聖書か。英国はキリスト教を国教とする国家であり、チュールズ・ディケンズは英国国教会(Anglican Church)の真摯な国教徒だったからです。彼は毎日、神のみ前でこうべを垂れ、朝夕の祈りを欠かしませんでした。イギリス人を知るには聖書を知る必要があります。
著書
『英国一周鉄道知的旅日記』ブックコム、2008.
『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』 あぽろん社、1996.
『簡素への誘い』日本図書刊行会、2001.
『神の成長――古代ユダヤ教とキリスト教の神の研究』あぽろん社、2002. 絶版
『キリスト教の発生―イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』奥山舎、新装版2021.
Revivalism and Conversion Literature:From Wesley to Dickens. Hon'sペンギン、2005.
Charls Dickens: his Last 13 Years. ブックコム、2011.
復刻
Stonehouse, J. H., ed. Catalogue of the Library of Charles Dickens from Gadshill …Catalogue of the Library of W. M. Thackeray… (London: Piccadilly Fountain Press, 1935). Reprinted in October 2003 by Takashi TERAUCHI.
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