ユダヤとイスラム

 イスラム組織ハマスのイスラエル侵攻、イスラエル人約1200人殺害、人質240人取る。イスラエルは反撃で4万人超殺害
 2023年10月7日、イスラム組織ハマスがイスラエル南部に越境攻撃し、イスラエル人約1200人を殺害するとともに人質240人を剥奪しました。イスラエルは反撃に出て、パレスチナ自治区のガザ地区を攻撃し、パレスチナ人4万人超を殺害するとともに(BBC NEWS JAPAN、2024年8月16日)、ガザ地区の「住居の6割は破壊」したと見られています(NGO・外務省定期協議会 2023 年度第 3 回 ODA 政策協議会 議題案/質問状記入シート)。ユダヤとイスラムの対立は根深いものがあります。
 
 ユダヤ、アッシリアとバビロニアに敗れ王国滅亡
 ユダヤ史をひもとけば、イスラエル人が統一王国を形成するのは前1020年頃で、ダビデ王、ソロモン王が現れ、黄金時代を築いている。ソロモン王死後、国は2つに割れる。10部族からなる北王国イスラエルと、2部族からなる南王国ユダである。北王国は205年間存続後、新アッシリアに滅ぼされ、上層階級2万7千人余が捕囚とされ、その後、10部族はアッシリア人化した。他方、南王国は340年間存続したあと、新バビロニアに攻められ、神殿と宮殿焼失、エルサレム陥落、ゼデキヤ王捕縛、王の面前で息子たち処刑、王は両眼つぶされ、足かせつきで、多数の住民と共に、バビロンへ連行(バビロン捕囚)、獄死させられる(寺内孝著『キリスト教の発生 イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』43-54頁)。
 
 バビロン捕囚時に、ユダ(ヤ)人は「聖書」に、神は「全能の神」と、そしてその神自身が、敵を「撃つとき」は「滅ぼし尽く」し「憐れ」むな、と
 バビロン捕囚中、ユダ(ヤ)の知識人たちは、バビロンの天地開闢のマルドゥク神に触発され、民族神ヤハウェを天地万物創造の「全能の神」と、そしてイスラエル民族の祖とされるアブラハムを、アダムとエバから数えて20代目の子孫と記した(創4-5章、9・18、10・22、24、25、11・21、24、17・5、21・26)。
 半遊牧民のイスラエル人がカナン(現パレスチナ)に定住するとき、「主なる神」は自ら、敵を「撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(申7:2)。イスラエルの神は人と同形なのだ(神人同形)。
 
 キュロス2世、バビロン捕囚解放;ユダ(ヤ)人、国家再興
 ペルシア(現イラン)にキュロス2世(前600/559頃-530/29)が現れ、エジプトを除く、新バビロニアを含むオリエント世界を征服、ペルシア領に編入し、バビロン捕囚のすべてを解放する。
 前538年、ユダ(ヤ)は国家再興する。以後、イスラエル人はユダヤ人と総称され、ヤハウェ信仰もユダヤ教と呼ばれるようになる(寺内孝、上掲書92頁)。
 
 ユダヤの律法社会完成
 捕囚のなかにエズラとネヘミアがあり、前458年ごろ、彼らは一時的にユダヤに帰り、律法(モーセ五書、即ち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の浸透と強化に尽くし、ユダヤ教団を確立する。エズラの改革はエルサレム着任年内に完成したようだ。伝承は彼を「第二のモーセ」と呼ぶ(寺内孝、上掲書72-129頁)。
 
 ユダヤ人亡国
 前63年、ユダヤは共和制ローマに征服されて属領に。以後、ユダヤは、ローマによる律法蹂躙に苦しみ、ついに紀元後66年蜂起(ユダヤ戦争:後66-70年、132-135年)、100万人以上の死者を出し、「生き残った者はほとんどいなかった」。惨敗である(上掲書「III 律法、終末、メシア」参照せよ)。
戦後、ローマ帝国はユダヤを「パレスチナ」、エルサレムを「アエリア・カピトリナ」と改称し、属州シリア・パレスチナに編入する。神殿跡にユピテル神殿を建設し、以後数世紀間ユダヤ人の入市は、キリスト教徒を除き、死刑をもって禁止する(寺内孝、上掲書72-129頁)。ユダヤ人は再び亡国した。
 
 キリスト教、ローマ帝国の国教に
 ユダヤ戦争に先立つ後30年頃、イエス十字架死、直後に弟子たちが原始キリスト教会(初代教会)を立ち上げ、48年頃、教会会議で、律法の実質的廃棄を決議し、各地でイエスの名を広める。そしてユダヤ戦争勃発前、ローマ世界に移動し、冷酷な迫害に耐えながらも布教をつづけ、後392年、ローマ帝国の国教化を獲得する。
 
 ローマ帝国、東西に分裂
 3年後、ローマ帝国は東ローマ(ビザンチン)帝国(395-1453年)と西ローマ帝国(395-476年)に分かれ、エルサレムは東ローマ帝国に属した。
 
 アラブ人、エルサレム支配
 636年、イスラム教を奉ずるアラブ人がエルサレムを支配し、エルサレム神殿跡に、メッカ、メディナに次ぐ聖なるモスク、アルアクサ・モスクを建立する(拙著『神の成長』あぽろん社、2002、274頁)。
 それに先立つ610年ごろ、アラビア・メッカ生まれの商人ムハンマド(570頃-632)が。「天使ガブリエルを介して全知全能の唯一神アッラーの啓示を受け、神の最後の預言者を自覚し、『アッラーのほかに神なし』とするイスラム(教)を創始」していたのだ(『神の成長』273頁)。
 ちなみに、ガブリエルは「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における大天使。新約聖書では、聖母マリアにキリストの受胎を告知し、またイスラム教の開祖ムハンマドにアッラーの啓示を伝えたという。」(コトバンク「ガブリエル」)。換言すれば、ガブリエルは旧約聖書のダニエル書(8・16、9・21)に、つぎに新約聖書のルカによる福音書(1・19、26)に、そのつぎにムハンマドに現れた。そしてムハンマドは23年間にわたり、天使ガブリエルを介して「アッラーの啓示を受け」、それが「コーラン」となった(「ハラル・ジャパン協会」)。3つの宗教は同じルーツを有する。
 
 「コーラン」に、「ユダヤ人やキリスト教徒」が「平身低頭して来るまで、あくまで戦い続け」よの記述
 「コーラン」には次の訓戒が含まれる。「これ、汝ら、信者の者、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にするでないぞ」(第5章85節)、「聖典を頂戴した身でありながら真理(まこと)の宗教を信奉もせぬ、そういう人々に対しては、先方が進んで貢税を差出し、平身低頭して来るまで、あくまで戦い続けるがよい。」(第9章29-35節)(井筒俊彦訳『コーラン』岩波文庫、1987、上巻、155、254-56頁)。
 
 イスラム教徒、エルサレム支配
 691年、イスラム教徒のサラセン帝国・ウマイヤ朝(661-750)は、エルサレムに、巨岩をおおう形で「岩のドーム」と呼ばれるモスクを創建、修復を重ねて今日に至っている(『神の成長』274頁)。
 1038年、中央アジアにイスラム教徒のセルジューク朝(1038-1157)が興り、エルサレム占領。この占領でキリスト教徒はエルサレム巡礼が困難となり、1096年、十字軍を派遣、1099年エルサレム王国建国。だがこの王国は1291年、イスラム教徒の軍隊マムルークに壊滅させられ、以後マムルーク朝(首都カイロ;1250-1517)が1516年まで支配し、その後にイスラム教徒のオスマン・トルコ帝国(首都イスタンブール;1299-1922)が1917年まで統治する(寺内孝著『神の成長』あぽろん社、2002、274-75頁)。
 ユダヤ人にとって、エルサレムは聖地であるだけでなく、パレスチナは神から授かった「乳と蜜の流れる土地」と信じる(出3・8)。そのパレスチナへ、ユダヤ人は1897年に復帰運動(シオニズム、シオンへの帰還)(イザ51、エレ3.14)を起こすが(下記注「シオン」参照)、1922年にイギリスがパレスチナの委任統治に入るや、ユダヤ人、アラブ諸国、イギリスの3者間で対立抗争が激化する。そのさなか、第二次世界大戦(1939-45)勃発、欧州在住のユダヤ人600万人がナチスに虐殺されるという悲劇があり、シオニズムが加速。大戦後の1948年、ユダヤ人はパレスチナでイスラエル国の独立宣言をする。つまり、ユダヤ人は紀元後135年に亡国して以来、約1800年間世界を流浪したあと、国家建国にこぎつけたということ。だがこの建国は、パレスチナ人には迷惑な話で、「約75万人」が難民化した(国際連合広報センター)。今日では、その数は自然増などで「590万人」という(ELEMINIST)。
 ユダヤ人には、神殿の丘を始め、「聖なる岩」の巨岩、ユダヤ戦争で破壊されたエルサレム神殿西壁の痕跡「嘆きの壁」(神殿の丘にある側壁の南西角の一部)はすべて聖地である。それらが存在するエルサレム旧市街は、今日では東エルサレムに属し、1967年、イスラエルが第三次中東戦争でヨルダンから奪っている。
 国連は1947年にパレスチナの分割決議を行い、「エルサレムは国際管理都市」と定め、今なお有効であるのだが(朝日新聞00.9.7)、聖地をめぐる紛争は、国境の隣接するイスラエルとパレスチナ自治政府間で絶えることがない。
 カトリック教会の法王ヨハネ・パウロ2世は、2000年3月12日教会史上初めて、キリスト教徒の反ユダヤ主義を含め、歴史的な罪を認めて懺悔している。そして法王はこの立場から、敵対することの多かったユダヤ、イスラム両教徒との融和を願い、同年3月20日から7日間の予定でイスラエル、パレスチナ自治区などを訪問し、23日にエルサレムで諸宗教対話集会を開いた。結果は、法王の願いからほど遠く、ユダヤ教のラビが、「(法王の訪問は)エルサレムがイスラエルの永遠で不可分の首都であることを認知した」と口火を切ると、会場が騒然とするなか、イスラムの指導者が「エルサレムはパレスチナの首都」と、こぶしを振り上げてやり返している(朝日新聞00.3.25)(寺内孝著『神の成長』275-76頁)。
 上述のように三宗教のルーツは同一である。その思想は古代人に負っている。彼らが「神」と仰ぐ存在は、天地万物創造の「全能の神」(創17・1)ではなく、「民族神」に過ぎない。そのことは、拙著『キリスト教の発生』(80頁ほか)で明確に論証している。そうでありながら、1つの現実をいえば、米国キリスト教福音派の人たちは「聖書の言葉を一字一句大事にする」。福音派の信徒数は米国人口の「4分の1近くを占め」る(朝日新聞2023.10.19)。
 もうやめてほしい。我々は古代人の思想から脱却し、人間みなきょうだいという観点に立ち、平和共存共栄の新しい歴史をつくるべきだ。
 
注、「シオン」はエルサレムの南東丘を指し、ダビデはこれを占領して「ダビデの町」と呼んだが、元の名はシオン(王上8:1)。ソロモンがこの北方の丘に神殿を建立して以来、「シオン」は神殿の丘を指す雅名となった(詩498:3、50:2、78:68他)。そこからついに「シオン」は全エルサレム、またその住民を表わす名となった。(木田献一・和田幹男著『新共同訳聖書辞典』キリスト新聞社、1999、216頁)
 
 付記1.本稿のダイジェストは2024年8月16日、朝日新聞「声」に投稿したが不採用となった。
 付記2.筆者は些少ではあるが、下記のように「ガザ人道危機緊急募金」に協力した。
 寺内 孝 様
この度は、ガザ人道危機緊急募金にご協力を賜り、心より感謝申し上げます。 お寄せいただきました募金は、緊急事態下の子どもたちのために、病気の予防、安全な水や栄養補助食の提供、教育の再建や子どもたちの保護などの支援活動に大切に活用させて頂きます。 下記の通りご寄付のお申し込みをお受けいたしましたので、ご連絡申し上げます。 ■受付番号    :10001034140 ■受付日     :2023年10月24日 ■お名前     :寺内 孝 様 ■ご寄付の金額  :2,000円(ガザ人道危機緊急募金として) ※領収書について ご寄付領収日は、各カード会社からの当協会への入金日付となり2023年12月、また領収書ご送付は2024年1月上旬予定です。 なお、クレジットカードのご利用日は、お申込日ではなく、当協会でのお手続き日となります。 今後ともユニセフを通じて、緊急事態に直面した子どもたちにご支援を賜りますようお願い申し上げます。 公益財団法人 日本ユニセフ協会 〒108-8607 東京都港区高輪4-6-12 ユニセフハウス https://www.unicef.or.jp フリーダイヤル:0120-88-1052(平日 9:00-17:00) Eメール:webbokin@unicef.or.jp


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著者紹介
寺内孝(ペンネーム “比良奥山” ヒラオウザン)は在野の研究者です。19世紀イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの研究と聖書の研究をしています。なぜディケンズと聖書か。英国はキリスト教を国教とする国家であり、チュールズ・ディケンズは英国国教会(Anglican Church)の真摯な国教徒だったからです。彼は毎日、神のみ前でこうべを垂れ、朝夕の祈りを欠かしませんでした。イギリス人を知るには聖書を知る必要があります。
著書
『英国一周鉄道知的旅日記』ブックコム、2008.
『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』 あぽろん社、1996.
『簡素への誘い』日本図書刊行会、2001.
『神の成長――古代ユダヤ教とキリスト教の神の研究』あぽろん社、2002. 絶版
『キリスト教の発生―イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』奥山舎、新装版2021.
Revivalism and Conversion Literature:From Wesley to Dickens.  Hon'sペンギン、2005. 
Charls Dickens: his Last 13 Years. ブックコム、2011.
復刻
Stonehouse, J. H., ed. Catalogue of the Library of Charles Dickens from Gadshill …Catalogue of the Library of W. M. Thackeray… (London: Piccadilly Fountain Press, 1935). Reprinted in October 2003 by Takashi TERAUCHI. 
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寺内孝
Many thanks for your support! I will keep writing my interest. Good luck! わたし英語の勉強もつづけています。It will take a long time to learn English.