伝わらないことの重要さ
言葉が伝達の落差なので伝わらないことが前提になります。
各々の伝わらなさを埋めるために言葉のやり取りが続くのです。
一回の対話で相互の意図がかみ合ってしまえば、対話はそこで終了です。
それに会話が同調してしまえばそれは人たちではなく同一人物と変わらないのではないでしょうか。
恋愛関係などで錯誤として経験することのある「二人で一人」のような勘違いに近くなります。
ぼくは吉本隆明の影響で言葉は意志疎通の為に存在してはいないと感じています。
「自己表出」が言葉の起源であり、意志疎通は自己表現のご褒美だと思います。(ここは中原中也が書いていたと思います)
書き言葉も含めて「沈黙」が言語の根幹であり本質だと思います。
言葉は恐ろしいモノで物質として見ればどこに意味が宿るのか見当もつかない代物です。
「緘黙」という症状も言葉の意味を自分で制御できないことに対する対処法なのではないかと思います。
言葉を発する側には主導権はなく聞き手がどのように受けとるかは不可視です。
書き言葉は話し言葉に比べ解釈の余地が大き過ぎだと思っています。
会話も記録に残ると書き言葉に近くなりますが、過去の偉大な宗教家や哲学者は書き言葉を残していません。
お弟子さんたちが書物にまとめていることがあります。
解釈しか存在しないと言ったのはニーチェかガタマーだったか忘れましたが、文脈に依存しない言語行為はないと断言したくなります。
文脈に依存しないように言葉を使うと諧謔や嫌味とか比喩が存在できなくなります。
そこには言葉が意志の伝達手段としてしか存在する理由がなくなります。
「自己表出」は単なる独り言と見なされるようになるのでしょう。
レトリックは誤魔化しと変わらなくなりそうです。
日常の会話で相手が「納得」してくれると不安になるのは年齢のせいだけではないと思います。