中上健次論(0-4) 『奇蹟』を巡る考察

いきなり柄谷行人の引用から

例えば、我々の感情はほとんど常に両義的です。愛があれば同時に憎しみがある。愛着があれば同時に嫌悪がある。常に二つの対立的な価値になるものが共存している状態だと思うんです。その場合、ambivalentな態度とは、それをクリアにしようとする、一つの方に決めてしまうということです。

『大江健三郎柄谷行人全対話』「世界と日本と日本人」

これは大江健三郎のノーベル賞受賞講演の『あいまいな日本の私』の「あいまい」の意味をめぐって交された対話の一部です。中上健次に直接言及しているのではないのですが、中上の「路地」に対するスタンスを考えるのに重要な示唆を与えてくれます。

まさしく、中上は故郷である「路地」に対して愛憎の両面を露わにします。
「秋幸三部作」に於いては「路地」を舞台に具体的な個人間の愛憎関係が綴られています。

それが『奇跡』になると俯瞰の度数が上がっていてタイチという中本の一統には珍しく闘いの性に生まれた若衆の短い生涯が語られます。
今日の感覚からすると余りに性と暴力と複雑な人間関係が入り乱れていて簡単に受け入れることはできないかもしれません。
『千年の愉楽』ではオリュウノオバによる回想という形を採用して小説の表現の限界を内破することが試みられました。
『千年の愉楽』は『枯木灘』と並び中上作品の中でも高い評価をされています。ここに『鳳仙花』を加えれば作品の完成度と読者の人気でもベスト3になると思います。


『奇蹟』はタイチの短い生涯をかつて路地の三朋輩の一人でタイチの後見人でもあったトモノオジが回想する形で進みます。
しかしトモノオジはアルコール中毒で精神病院に入院しており幻覚の世界で、巨大な魚のクエになり海底を彷徨っていると妄想しています。
一日の僅かの時間正気に戻るトモノオジにタイチが簀巻きにされダムに沈められたとの報告が入ります。
トモノオジは幻のオリュウノオバとふたりでタイチの短い生涯を回想していきます。


私は『枯木灘』と『地の果て至上の時』。『千年の愉楽』と『奇蹟』の組み合わせで考えていました。

『枯木灘』はモダン。
『地の果て至上の時』がポストモダン。

『千年の愉楽』がモダン。
『奇蹟』がポストモダン。
しかし柄谷行人は違う見解を示しています。
引用します。

『奇蹟』には、すでに卑小と高貴、アブジェクトなものと聖なるもの、痛苦と愉楽が相互に入れ替わるような装置は作動しなくなっている。オリュウノオバの視点からの再三の言葉にもかかわらず、トモノオジ自身が、「草も木も、鳥獣虫魚、この世に生きとし生けるものすべて切先鋭い光に刺され痛みを愉楽と過ち愉楽を痛みと錯誤しているという思いがわき、天上天下、地上地下、森羅万象が誰かの見る夢幻のような気がしはじめる」のだ。

「小説という闘争」柄谷行人

『千年の愉楽』と『奇蹟』の関係についてはさらなる検討が必要なようです。
オリュウノオバの発言に対してアルコール中毒のトモノオジは反論しています。

また、中上は吉本隆明と三上治との鼎談で『奇蹟』では「人倫」を外したといっているので『奇蹟』には意図的に「暴力性」が表象される結果になっています。

また『説経節や浄瑠璃など「語り」を文字で表現した試みでもありました。中上健次は物語文学も咀嚼しているので『奇蹟』に関しては見直しの必要性を痛感しています。