ザ・ストリート・スライダーズの濃密な空気感
ヘヴィ・メタルに酔っていた。私はVan HalenのEddieに憧れていたがアメリカのバンドは少し馬鹿にされていた。
ヘビメタと言えばアイアンメイデンだったしハードロックもメタルの「先輩」として聞いていた。
ロックはギターがメインになるのでギター小僧は周辺に沢山いた。80年代はギターヒーローの時代だった。
「速弾き」「アーミング」「ライトハンド」の巧拙がギタリストを評価する基準になっていた。マイケル・シェンカー、ランディ・ローズ、イングヴェイ・マルムスティーン、ジョージ・リンチ、ゲイリー・ムーア、ポール・ギルバート等々を夢中になって聴いていたものだ。
そのような空気の中、経緯は思い出せないが、じわじわたと私の心を占めるようになったのが「ザ・ストリート・スライダーズ」だ。
ここからは極私的な考えを披瀝している。
ファンの一人が描いた空想的な論なのでこれが「真実」だと主張したいわけではない。そのあたりはご寛恕いただけることをお願いしたい。
では始めます。
デビューアルバム「SLIDER JOINT」は私が初めて出会った日本語のロックバンドだった。
「Blow The night!」「すれちがい」「のら犬にさえなれない」など名曲が収録されていた。
傑作「のら犬にさえなれない」はハリーが最初に創った曲だというのは後から知ったのだがデビュー前に既にこのレベルの楽曲が創れたのは信じられない才能だと思った。
楽曲の良さもあったが、歌詞が素晴らしかった。
歌詞の密度はその佇まいと相まってハリーのカリスマ性を際立たせて、近寄りがたい濃密な空気を醸し出していた。
多くのバンドの歌詞が口語に近づいて「詩」としての緊張感を弛緩させることに新味を見いだそうとするなか、ハリーの言葉は日常的に使う言葉とは異なる「歌詞」として屹立していた。
目新しさではなく濃度を保っていた。
また、ローリング・ストーンズとの類似を指摘されることがあったがリフに影響が見えたが、日本語の濃度がストーンズとの類似性よりスライダーズの独自性を際立たせたので「リトルストーンズ」の呼称には違和感を覚えていた。
「スライダーズ」の唯一性も稀有なことだが、ハリーの歌詞のルーツがどこにあるのかは謎のままである。
「教養」的なモノを感じたことがあるが、いま私はその説を取らない。
ハリーはザ・ストリート・スライダーズ解散後のソロ活動の中で歌詞を変えている。
手法自体はあるものだが、単語の選択は独自なものだ。
少し「教養」に寄った感じもあったがこの説も私は取らない。
ハリーが中心のバンドではあったのだが、蘭丸はもちろんジェームスとズズのリズム隊も作り込まれている。
スライダーズの独自性についてはまだ書き足りない気もするが取りあえずの結論を提示させていただく。
「言語の濃密さから演奏者の能力を引き出すことができるハリーの才能とハリーのカリスマ性とぶつかり合うのではなく、それを受け止めきれる強力なリズム隊が存在したことで誕生した奇蹟のバントである」
ハリーの「声質」と「歌詞」の関係性やソロ活動中の歌詞の変化についても要望があれば極私的な論考であるが開陳したい。