【散文】「頑張る」のは誰なのか
「頑張って」と言われて奮起する人がいるらしい。
私にとって「頑張る」は不思議な言葉で誰に言われたのか、どのような状況下で言われたのかで称賛にも罵倒にもなる。
どちらであれ「頑張る」ことは大切なことらしいのだ。「頑張れば」応援してくれる人が現れることもある。だけど「頑張らない」と怠け者と認定されてすべては自業自得勝手にしろになるようだ。蜘蛛の糸は夢のまた夢で、さらなる闇に落ちていく。
そうは言っても本当に「頑張った」のか「頑張ってる」振りをしているのかを見極めることは難しそうだ。
但し、結果で「頑張った」と判断することが可能なこともある。
例えば前回よりも試験の点数とか営業成績が上がるとか数値化できることは頑張った結果だと認めて貰えそうだ。「当たり前だ」で終わりかもしれないけど。
数値化可能な実践的な「頑張った」がある一方で得たいのしれない「頑張った」がある。
例えば以下の流れがある。
「❶頑張っている」「❷応援してくれる」「❸何かを達成する」「❹感動する」
「頑張る」には具体的な目標があるはずなのに、❶〜❹の流れを踏めば「頑張る」の純粋形態が存在して誰が何を頑張ったかを問われることなく「頑張った」が手に入る。
精神的にも肉体的にも何らかの負荷を与えられて、その苦しみを凌いで何かを達成する。
すると不思議なことに感動してしまうのだ。そして私も感動してしまう質なのだ。困ったことに。
喜怒哀楽のどの感情にも感動に至る機序がある。同じ映画や小説に何度も感動してしまうし。
その感情を発動させるフックのひとつに「頑張る」という機序も用いられる。
感情は理性より強いので感情の発露を完全に制御はできない。小出しにして何に対してどのような回路で感情が噴出しそうになったか覚えていないと主体性は破壊されてしまう。
「頑張れ」に対する怒りの発動を制御できるようになるべきなのだ。
速度ではなく、翔ぶのでもなく。