「近代の喪失」

簡潔さと明瞭さが必須な時代が到来した。勿論、以前から意志の疎通を目的とする場合に分かりやすく説明することは必要なことではあった。

そうは言っても、すべての事柄が一刀両断、立て板に水で通じるほど「世界」は単純であるはずもなかった。韜晦趣味的な目眩ましではなく、難しい事柄を認めるなら、キレキレな文章ではなく、晦渋な文章を丁寧に読み解くことの重要さは普通に認められていた時代があったのだ。

しかしそれは今は昔のことで、もはやそんな時代も「あった」と過去形になってしまったのだ。必然的に難しいことを簡潔明瞭に解説できることが「優秀」さの証となった。そしてこの流れは頭の良さとは関係がない。

文章でも会話でも相手にどう伝わったかだけが「言葉の意味」になり発話する側の意図の価値は本人以外には限りなく「無」と見なされてしまい一顧だにされることはなくなったのだ。
詰まり「意味」から「強度」への移行が完了したという身も蓋もない話なのだ。
「象徴界」に至らず「想像界」で挫折したのかそれとも「近代」を「超克」したのかは分からない。分からないが、言いたいのは事態は不可逆であるということである。