人間なのに何故人間が苦手なのか
人は平等らしい。生きるのに値いしない命はないらしい。
「らしい」を削除して断言したい。
しかし、現実は優しさの飾り付けがなされているものの中身は「弱肉強食」の競争社会だ。
野性動物の世界は弱肉強食だ。
群れからはぐれたら草食動物は肉食動物の餌食になる。そして、その場で喰われる。
映像で見ると残酷に見えるけど、喰われてしまえば草食動物は苦しみを感じることはない。
人間社会の生存競争はその場で殺されてしまうことは少ない。
敗北と死が同じではない。
敗北の幅が広すぎる。広いのではなく広すぎるのだ。
そのため、勝ち負けの境界が無数に存在してしまい自分では勝敗の判断ができなくなってしまう。
しかし人生の審判員はいない。
勝敗を正誤にしても基準が無いのは変わらない。
衣食住、生病老死、承認欲求など今日の命を明日に繋げるのすら覚束ない人から、自分の存在や業績を他者や社会から認めてもらいたい人までどんなに生活水準が上がっても苦悩から逃れられる保証はない。
贅沢な暮しをしているから悩みなんか無いだろうと考えるのは早計なのだ。
人生の判定者が存在しないのなら百人百様の価値観は「価値」ではなく「それぞれの人たちがそれぞれの仕方で個別に存在している」だけのことになる。
誰かと比べるのも、現在の自分と本来の自分を比べるのも「観念」でしかないことになる。
ところで、人間の先祖は他の動物から捕食されていたらしい。
シマウマがライオンに喰われるように、人もその場で喰われていたわけだ。
「食料として捕らえられ喰われる」と想像すると私には本能的な恐怖感が生じる。
ここからは私の妄想だが、この本能的恐怖から逃れるために人は「協力」することを余儀なくされたのではないか?
「余儀なく」ならば人間が人間を苦手とするのも「余儀ない」と言えるかもしれない。
人間という共通概念がなければ仲間意識はないはず。見ず知らずの人を人として認識するには「個別の存在」に「共通項」が必要だ。
その必要性が観念を生じさせて、他の生物から独立した「人類」が誕生したのではないか。
「観念」は人間の存在を支えているのと同時に人と人の相容れなさの原因でもある。