愛しき「不吉な塊」
久しぶりに梶井基次郎氏の『檸檬』を読んだ。
最後にこれを読んだのは、確か、3〜4年前、大学生活を始めたばかりの頃だったと思う。
「不吉な塊」という言葉が、
当時の自分の抱えていたあらゆる心情を包含して表しているように思われて、
興奮と言おうか、悦びと言おうか、
そういう何とも言えない酸味を味わったのを覚えている。
さて、暫くの時を経て、再読するに感じたのは、
あの時自らの裡に抱えていた「不吉な塊」なるものは、
大分薄らいでいる、ということであった。
あん時喰った檸檬は、大半は消化され、また排出され、
今再度、そいつを喰ってみても、
蜜柑ほどの酸味しか感じられない、
といった具合であろう。
あの愛おしい酸味をもう感じられなくなったのかと思うと、何とも侘しいものだ。
今はその愛情を注ぐべき対象すら見つかっていない。
今は「不吉」はおろか、「幸福」も愛せない。
この期の間に、僕の感性受容体はいかに変わってしまったのだろうか?
僕の生活は『檸檬』の主人公のそれに着実に近似していっている。
味の語られぬ檸檬
書店に不審に佇む檸檬
店員に廃棄されるであろう檸檬
それが僕なのかもしれない。
ああ、唯一今はこんな感傷だけが慰めである。
それだけが、逆説的なほんとうなのである。
【日日是考日 2020/11/09 #027 】
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