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ストライプ

彼女はストライプの織物を羽織って踊っている。
永遠に交わることのない二本が、不器用な身振りによって交わる姿のうちに、僕は恋を覚えた。

こんな小説の断片みたいなフレーズが浮遊してきた。
映像を引き連れて遊びに来た。

ここでちょっと勘付いたのだが、私は小説を読む時、その世界の曖昧な映像を脳内に投写しているのではないか?

というか、人は物語を読む時、その映像をイメージするのではないか?

断定的には言い切れないが、そんなような気がする。

だとすれば、物語という形式に纏められた言葉を読む時、それは映像を伴うことになる。

この断片で言えば、

ストライプの織物を着た女性が、盆踊りか何か踊りを踊って、それを見た「僕」が彼女を恍惚と眺める。

そんな映像が浮かぶのではないか。

だが、一方で、

彼女はストライプの織物を羽織って踊っている。
永遠に交わることのない二本が、不器用な身振りによって交わる姿のうちに、僕は恋を覚えた。

を映画等、映像だけで表現しようとしたらどうなるだろう?

恐らく、脚本には

女性A:踊る
男性A:女性Aを見て恍惚とする

とでも書かれるのだろうが、これを映像として観た時に、人はそれを恋の端緒として理解出来るだろうか?

多分、否である。

とはいえ、この映像は、言葉を読んで想像した時の映像に殆ど等しい。

なのに、言葉から描かれる映像、映像自体の両間に違いが生まれるのは如何?

それは、恐らく、言葉から
「恋とは永遠に触れ合わぬ並行線が交わるような運命的なものだ」という「僕」の了解が得られるからだろう。

「永遠に交わらぬ線が偶然触れた」から、そこで「恋」を見い出せるという了解が生まれる。

しかし、映像自体には、その「僕」の了解がない。

したがって、言葉でしか描けない映像があるということでもある。

そういう言葉を描きたいなぁ、と思った午後の橙でした。

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にわ。
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