好きは易々と語れるものではない
好きかどうかは生理的なもので、理由なんてほとんど後付け
見ず知らずの他人の自分語りには興味がないので、自分も自ら不特定多数に向けて自分のことを多く語る気になれないし
仲良くなって知りたいと思ってくれた人にだけ話せたらいい
好きは直感だと思うから、ずっと知っていたのにある日ある瞬間に突然好きになってしまったり、馴染みすぎて好きである自覚すらないこともある
第一、とっておきの好きを誰彼構わず教えようとも思わない
それでもやむを得ず好きを挙げなくてはならないなら、そんな場面はないけど、その時は米津さんが好きと言う
まず曲が好きになって
曲が好きになれば誰が作ったか気になってしまって
米津さんの言葉の断片を拾っていけばいくほど、好き以外の言葉が見つからないくらい好きになってしまって、もう7年くらいずっと好き
自分は表には出さないけれど自分にも他人にも厳しいし、かなり批判的で懐疑的だけど好きなものや人にはきっと単純で
盲目的に誰かを好きになっている自分が少しだけ嫌なので、一応冷静によくないところや生理的に受け付けないところがあるのかという目でも見るけれど、それでも米津さんに関してはあれ?なんか違う…と思うことがほとんどない
顔や体の一部の見た目が好きだから惚れるというのはいつか飽きるけど、そういうのじゃないから目覚めて冷めてる可能性もないし…
細く長い骨に最低限の肉と皮をつけて少し折り曲げたような体型や、長めの髪は米津さんを知る前から好きなのだから嫌いになるのは無理
結局どこが好きなのか一番なんて分からないが、好きなのは彼の言葉
とにかく刺さる
米津さんがどこかで、言葉はお守り、みたいなことを言ってたのも忘れられなくて、やっぱりこの人だと思った
私は刺さる言葉を見つけるために生きてるようなところはあるけれど、米津さんの歌詞はその場限りの上っ面を擦るような、薄っぺらい人生の教訓みたいな借り物とは違って耐久性がある
そして同じ曲を聴いていても不意に突然刺してくることがあるのでやめられない
刺さる言葉って文脈や背景があってこそだと思うから、その言葉の向こうに米津さんは何を見ているのだろうとか、SNSで呟かなくなった米津さんのいつかの心境を表しているとしたらそれはいつのどんな思いなんだろうとか、想像するのは終わりがない
そして聴く人の数だけ自分のことを歌っているように解釈できる巧みな歌詞は、いつだっていい感じの距離感で寄り添ってくれて、たくさんの人を救っている
その距離感の絶妙さが絶妙過ぎて切ないと言えば切ないのだけれど
言葉が好きということは、その人の思考や思考方法とかも好きなのかもしれないし、そう考えるように至った環境つまり家族や友達や地域や空気とかまでひっくるめて好きと言えるのかもしれないけれど、そこまで好きかは分からない、知りたいけど
つまり米津さんの思考が好きとか軽々しく言うの嫌だから言わない(言ったけど)
自己紹介のつもりがただ米津玄師好きという話になったし、言いたくない割にはまあまあ言ったし
これが自分の聞きたくないタイプの話なのに
矛盾していても、収拾がつかなくても、それくらい「好き」っていいよねという自己満足の話でした
すみません
好きな場所はイングランドとスコットランドと図書館と映画館で
好きな食べ物はイチジクで
好きな虫は蚕です